粗茶淡飯

中国・台湾・日本のお茶に関する色々。執筆者・徳田志保。

昔話@鳳凰単叢④

2016-08-03 21:55:42 | 烏龍茶(中国茶・台湾茶)


鳳凰単叢の転機

ウードン山は換金作物がお茶しかなく、中華人民共和国建国後は、国にお茶を納めて、その分のお米を貰う生活だったそうです。当然のことながら、それでは全く足りず、貧しい生活を強いられてきました。

ある年には、お茶の収穫直前に雹が降って、収穫がほぼゼロになり、その年に生まれた子供は跡取りになる男の子以外は全員里子に出したことがあったとか。

そんな事から山の麓の街の人達は

「太陽が西から上がっても、ウードンの連中にはお金を貸すな。」

とよく言ったそうです。

その歴史上、転機は1つではありませんが、質の高い良茶を産出するウードン山の村民からすると76年は無視することのできない転機だったのかもしれません。

文革が終了したのが76年、
人民公社が実質解体したのが78年ということになっていますが実際は人民公社は地域によって76年には集団生産制から個人生産制へ試験的に移行し始めていたようで

ウードン山の村々もその中に入っていたそうです。

ウードン山のある潮安県鳳凰鎮一帯は、その動きが一番早く、ウードン村は真っ先にその対象になったそうですが、その理由はなんとも皮肉なもので、

「生産性が一番低く、連中にとって俺達はお荷物だったからだ!早く切り捨てたかったんだよ!」


と、年長者は異口同音に断言してました。(苦笑)

ウードン山は昔から換金作物はお茶しかなかったので、お茶の換金価値がとても低かった当時は、ウードン山の村々は周囲にとってはお荷物でしかなかったのでしょう。
個人生産性へ移行した当初、村民は見放され、今後は食べていけないのではないかと不安だったそうですが、そこはお茶を大量に消費する土地柄…翌年から周辺地域から個人でお茶を求める来訪者が現れ始め、以後お茶の価格は毎年数倍単位で上昇し始めたそうです。

そんなこんなでウードンの年長者は
改革開放政策と、それを行った鄧小平氏に感謝している人が多いです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。