きょうこ氏問題で幸福の科学が揺さぶられています・・。
信者の方はまだ多くを語らないでしょうが
ぼくは語ります。
20年以上幸福の科学の信者として、
また社会の一員として61年人生をおくっているものとして、
また、母の臨死体験や、父の死後、霊界からの通信、
この世と、あの世を同時に見れる身内を持つ者として、
幸福の科学グループ総裁、大川隆法先生、主エル・カンターレへの信仰は永遠です。
上に立てば立つほどリスクは大きく重くなってきます。
宗教家は自身が悪魔になってしまうというリスクをいつも背負っています。
肉身(にくみ)では判断を誤ってしまうこともあります。
主は光そのものです。
法、教えそのものです。
主の教えを見れば物事の本質、正邪は見えてきます。
自分が愛した教団ならば潔く身を引くのが宗教者でしょう・・・・。
それができなくなっているということは悪魔の軍門に下ったということです。
八正道の正語も出来ない状況ではそこに正しさはないということです。
ぼくは岩登りをしていた時、いつもナイフを持っていました。
岩登りはパートナーとザイル(ロープ)を結んで登っていきます。
常に転落、死へのリスクを背負って登っていました・・・・。
もし自分が落ちて、パートナーをも奈落に引きずり込むことあらば
相手を助けるために即座に自分のザイルを切ることを覚悟していました。
またパートナーにザイルを切ってくれと頼むのを旨としていました。
信仰の道に入り、信仰の道を登っている途中で”疑”を持つことは
肉身を持っている以上避けられないかもしれません。
もし、”疑”を取り去ることができないならば
そのときは保身を選ばず、潔く退会するでしょう・・・。
教団からの退会処分を有り難く受け入れるでしょう。
本当の保身とは肉体生命にもとづくものでなく、
御自身の永遠の生命を守ることです。
そのためのよりよき方策、行動とはを判断されるのが仏弟子でしょう。
多くの信者の先を歩いていた方だけに残念でなりません。
主の説かれる法は命そのものです。
人間の永遠の生命を永遠たらしめているそのものです。
山登りの途中で心変りしてしまったとしても、
自分が登ってきた道のりは自分の真実の人生そのものです。
仏の光に輝いていた道のりです。
退転しても永遠の生命を与えてくださっている。
正しさの基準は仏にあります!
そもそも主を仏とみていなかった・・・
本物の信仰者でなかった・・・
ただそれだけです
かなしいことです。
主のそば近くに立たれる方々ほど
現生の仏陀を人間とは見ておられないでしょう。
「純粋なる信仰」がたたずんば「主」をお護りすることはできないでしょう。
主を人間心で見たとき、そこに三次元的思考が働いてきます。
「貪」「瞋」「痴」「慢」「疑」の心の五毒そのものの見方になってしまいます。
大川先生は
「信仰の世界に対しては非常に大きな危険が潜んでいるといってよいでしょう。
宗教というのは、結局、最後は「信」なのです。信仰なのです。
信仰というのは目に見えないものを信ずるということなのです。
・・・・・・・・・・疑いというものになって常に出てくると、
このいちばん大事なもの、あるいはいちばん大切な果実を手にすることが
できなくなる恐れがあるのです。」
(悟りの挑戦 上巻 第二章 無明からの脱却から)と述べられています。
悪魔は常にここを狙ってきます。
一見、この世の常識から見たらもっともなことでもって
この「信」、「信仰」の部分を狙ってきます。
自分にもその危険性は常にあるということです。
主に対して、法に対して、僧団(幸福の科学)に対して感謝と謙虚さを失った時、
転落へのシナリオがつくられていくのです・・。
悪魔の軍門に下ってしまうのです。。
あえばブログがこの問題をスパッと切ってくださっています。。
http://aebajikido.blog54.fc2.com/blog-entry-613.html
信者の方はまだ多くを語らないでしょうが
ぼくは語ります。
20年以上幸福の科学の信者として、
また社会の一員として61年人生をおくっているものとして、
また、母の臨死体験や、父の死後、霊界からの通信、
この世と、あの世を同時に見れる身内を持つ者として、
幸福の科学グループ総裁、大川隆法先生、主エル・カンターレへの信仰は永遠です。
上に立てば立つほどリスクは大きく重くなってきます。
宗教家は自身が悪魔になってしまうというリスクをいつも背負っています。
肉身(にくみ)では判断を誤ってしまうこともあります。
主は光そのものです。
法、教えそのものです。
主の教えを見れば物事の本質、正邪は見えてきます。
自分が愛した教団ならば潔く身を引くのが宗教者でしょう・・・・。
それができなくなっているということは悪魔の軍門に下ったということです。
八正道の正語も出来ない状況ではそこに正しさはないということです。
ぼくは岩登りをしていた時、いつもナイフを持っていました。
岩登りはパートナーとザイル(ロープ)を結んで登っていきます。
常に転落、死へのリスクを背負って登っていました・・・・。
もし自分が落ちて、パートナーをも奈落に引きずり込むことあらば
相手を助けるために即座に自分のザイルを切ることを覚悟していました。
またパートナーにザイルを切ってくれと頼むのを旨としていました。
信仰の道に入り、信仰の道を登っている途中で”疑”を持つことは
肉身を持っている以上避けられないかもしれません。
もし、”疑”を取り去ることができないならば
そのときは保身を選ばず、潔く退会するでしょう・・・。
教団からの退会処分を有り難く受け入れるでしょう。
本当の保身とは肉体生命にもとづくものでなく、
御自身の永遠の生命を守ることです。
そのためのよりよき方策、行動とはを判断されるのが仏弟子でしょう。
多くの信者の先を歩いていた方だけに残念でなりません。
主の説かれる法は命そのものです。
人間の永遠の生命を永遠たらしめているそのものです。
山登りの途中で心変りしてしまったとしても、
自分が登ってきた道のりは自分の真実の人生そのものです。
仏の光に輝いていた道のりです。
退転しても永遠の生命を与えてくださっている。
正しさの基準は仏にあります!
そもそも主を仏とみていなかった・・・
本物の信仰者でなかった・・・
ただそれだけです
かなしいことです。
主のそば近くに立たれる方々ほど
現生の仏陀を人間とは見ておられないでしょう。
「純粋なる信仰」がたたずんば「主」をお護りすることはできないでしょう。
主を人間心で見たとき、そこに三次元的思考が働いてきます。
「貪」「瞋」「痴」「慢」「疑」の心の五毒そのものの見方になってしまいます。
大川先生は
「信仰の世界に対しては非常に大きな危険が潜んでいるといってよいでしょう。
宗教というのは、結局、最後は「信」なのです。信仰なのです。
信仰というのは目に見えないものを信ずるということなのです。
・・・・・・・・・・疑いというものになって常に出てくると、
このいちばん大事なもの、あるいはいちばん大切な果実を手にすることが
できなくなる恐れがあるのです。」
(悟りの挑戦 上巻 第二章 無明からの脱却から)と述べられています。
悪魔は常にここを狙ってきます。
一見、この世の常識から見たらもっともなことでもって
この「信」、「信仰」の部分を狙ってきます。
自分にもその危険性は常にあるということです。
主に対して、法に対して、僧団(幸福の科学)に対して感謝と謙虚さを失った時、
転落へのシナリオがつくられていくのです・・。
悪魔の軍門に下ってしまうのです。。
あえばブログがこの問題をスパッと切ってくださっています。。
http://aebajikido.blog54.fc2.com/blog-entry-613.html