▣2014年11月11日に訪れた時の写真
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。佐和山城はしだいに整備され、天正18年(1590年)、石田三成が佐和山城主となってからは、五層の天守を構え、鳥居本を大手とする城でした。また、三成の時代には山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町がすでに形成されていました。その後、関ヶ原の戦いで敗れ、彦根城築城にともない廃城となりました。その際、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれました。
(以上、下記より引用↓)
三成に過ぎたるものがニつあり
島の左近と佐和山の城