2015年11月9日(月)に訪問した小谷城
立派な山城跡だった🥺
浅井氏が滅んでからは、この辺りのメインの城が、
長浜城 → 佐和山城 → 彦根城
(羽柴秀吉) (石田三成) (井伊直継)
*井伊直政の嫡男
と、時代とともに移り変わった🤔
夏草や 兵どもが 夢の跡
織田家と浅井家の同盟の証として政略結婚したのが、浅井長政と信長の妹・お市の方。二人の間には【茶々・お初・お江】と三人の姉妹が生まれた。
その後、お市の方と柴田勝家の結婚により、三姉妹は越前へ赴くが…。
時を経て、、、
長女・茶々は、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生んだ。
三女・お江は3回目の結婚で徳川秀忠(家康の三男・第2代将軍)と結婚し、千姫と家光を出産した。
千姫は、豊臣秀頼と結婚し(いとこ同士)、家光は第3代将軍となった。
淡々と記述したが、すごいことやね😳
織田信長の血脈が陰ながら歴史に関与したんだから…。
熊本市北区植木町(うえきまち)の田原坂は、西南戦争で最大の激戦地です。地元の「西南戦争田原坂顕彰会(けんしょうかい)」は、ここでの戦闘が終結した3月20日ごろに毎年、追悼式を開いています。
きょう(3月20日)の追悼式では、会場の田原坂公園に、遺族など約200人が訪れて、犠牲になった政府軍と薩摩軍の兵士などの霊を慰めました。
(記事より引用)
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何か、泣けるなー😭
西郷どん、兵隊さん、おやっとさぁ…。
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司馬遼太郎は、罪作りやな、と二十代半ばに思った。
「竜馬がゆく」
「翔ぶが如く」
「菜の花の沖」
「峠」
「花神」
…等々
十代半ばからハマってひたすら読み倒した。
でも、それは「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観。
影響されたこと、この上ないが…😱
しかし、
気付いて良かった。(二十代半ばに)🥺
フィクションだってことを😔
でも、読み物としては好きやけどね🙋
【筒井順慶にまつわる2つのことわざ】
▣「元の木阿弥」
筒井順慶は大和国の大名、筒井順昭の子として生まれ、僧侶となるものの、父の死で家督を継ぐことになります。父の順昭は死の床にあって、幼い順慶を呼び、家臣を集め忠誠を誓わせました。その際、敵を欺くために、奈良から声や姿が自分によく似た"木阿弥"という盲目の僧を呼び、影武者に立てて死を隠すことを命じます。
木阿弥という僧は、身代わりの間は贅沢な暮らしができましたが、順慶のもとで家臣団が整備され始めると、木阿弥は用済みとなり、奈良に返されてしまいます。城主からただの僧に戻ったことから「元の木阿弥」という言葉が生まれました。
▣「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」
天正10(1582)年、織田信長が謀反に倒れた本能寺の変の直後に、中国大返しで京に戻った羽柴秀吉が、明智光秀と激突したのが山崎の合戦です。明智と羽柴の両方から加勢を頼まれた筒井順慶が、一度明智方につくことに決め、大和から洞ヶ峠まで兵を進めたものの、その洞ヶ峠で日和見の態度を取ったことから、日和見のことをいつからか「洞ヶ峠」というようになったとされます。
しかし、順慶が日和見の態度を取ったという事実はありません。順慶は大和から兵を動かさなかったからです。実際に洞ヶ峠に行ったのは明智光秀のほうで、筒井順慶に再三再四、光秀側についてくれるよう頼み、むしろ光秀が洞ヶ峠で今か今かと順慶が来るのを待っていたというのが真相のようです。
(以上、記事より引用)
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信長に気を遣い、秀吉にこき使われて病がちだったようで、秀吉が家康と戦った 「小牧・長久手の戦い」の後、36歳で亡くなった😔
ちなみに筒井順慶の重臣であった島左近は、順慶の死後、石田三成の重臣となり、「関ヶ原の合戦」で三成と運命をともにした🤔
「三成に 過ぎたるものが二つあり
島の左近と 佐和山の城」
飄々としつつも状況を分析し、寡兵をもって大軍を破るための策を巡らす。
『では、おのおの、抜かりなく』
あとは、各諸将と一兵一兵の働きによるということか?🤔
草刈正雄さん演じる真田安房守昌幸があのセリフを語ったときゾクっとした。
そして、、、
凄みを感じた。