Entrance for Studies in Finance

土肥恒之「ロシア・ロマノフ王朝の大地」2007


講談社学術文庫版2016年による

ロシアの農奴解放令(1861)は、農民の封建領主からの人格的支配からの解放の半面、国家にたいして買い戻し金を分割で連帯責任で払い続けるというもので、村共同体に農民を改めて縛るものだった。

注目されるのはゼムストヴォと呼ばれる地方自治機関の設置。学校や医療を与える組織になったこと。また統計も作られた。

ロシアの高等教育が、学生の出身階層の点でたとえばドイツに比べて比較的民主的であったこと、また女子教育が盛んであったこと。

改革を進めたアレクサンドル2世は、暗殺されてしまう(1881年)。次の3世に対して暗殺未遂事件(1887年)を起こし処刑されたのは、レーニンの兄だった。

この暗殺事件が一連のポグロム(ユダヤ人襲撃)につながる。ポグロムに対し、帝政下の警察は動かず、それがユダヤ人を革命に駆り立てた面がある。トロッキー、マルトフ、ジノヴィエフ、カーメノフなど。

農民が都市に出稼ぎの習慣を早くから(18世紀後半)持っていたことも注目される。農奴解放後の人口増加。農民は地代を稼ぐ必要もあった。その中には、商業やサービス業で成功するものも現れた。

鉄道網の整備にともない、レールの生産などが大規模に行われるようになった。

なお日本訪問中のロシア皇太子ニコライを、警護の警官が切り付けて大けがをさせた不祥事がいわゆる大津事件(1890)。(今日からみると、これほど重要な人の身辺警護を、なぜ津田三蔵という低い身分の地方警官にさせていたのか、大津事件は発生したこと自体、理解不能だ。津田は精神的に不安定だった節もあり、皇太子を切りつける行為の重要性もわかっていなかったとされるがあまりにも愚かだ。また来訪している貴人の身辺警護に失敗し大けがを負わせたこの事件は、日本国政府として歴史的に恥ずべき一大失態に思える。)

1906年首相になったストルイピンは、共同体の解体など、土地改革を始めた。平穏な時期が続けば、土地改革が進んだ可能性(個人農業経営者の増加)はあるが、1911年にストルイピンは暗殺され、皇帝ニコライは皇帝自身による個人的統治に戻ってしまった。

デイアスポラ 様々な理由で民族が離散すること。

#農奴解放 #大津事件 #ディアスポラ #ポグロム  #ゼミストヴォ
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