Entrance for Studies in Finance

ブリュア「ソビエト連邦史 改定新版」1970


フランスで出版されているクセジュ文庫を白水社が、やはりクセジュ文庫として日本でも翻訳していた。手元にある邦訳は1971年の出版。内容はいわゆる公式見解で、たとえばスターリンに対する批判は明確でない。しかしそこから読み取れることも多い。(以下では下斗米信夫「ソビエト連邦史1917-1991」講談社2017の同時期の記述を対比的に記しておきます。下斗米さんは同書で古儀式派と呼ばれる、ロシア正教の異端の一派とボリシェビキとの関係に注目されて、ソビエトの起源には古儀式派のネットワークがあり、ボリシェビキ内にはキリスト教社会主義に近い流れがあると指摘している。またロシア革命が労働者革命だというのは神話に過ぎず、革命の担い手は元は農民である兵士だったとしている。)古儀式派はスタロヴェールとも呼ばれる。ロシア語はスタロオブリャージェストヴォ。

1917年11月革命に至る経緯。ブリュアの記述によれば、ボリシェビキは常に少数派なのだが、武力革命を起こし、反対派を排除して自分たちだけで、政権を作ってしまっている。そのうえで、自分たちに反対する人の自由を制限している。投票によって選出された制憲議会は、解散される。そうした経緯はブリュアの公式的記述からも読み取れる。
(このように独裁になった原因として、下斗米さんも、レーニンの前衛党の理論のエリート主義を問題にする。さらに、党の政治局が権力の中心になったのは、人民員会議が穏健派が多かったからだとする。結果として政治局を束ねる政治局書記に権限が集中した。)

また、食糧調達の必要から、戦時共産主義の名のもとに農産物の徴発が始まると農民の抵抗がはじまり1918年、唯一の連合勢力だった左翼エスエルは農民の立場からボリシェビキに武力で抵抗を試みる。これに対してボリシェビキはエスエルの逮捕大量処刑で応じ、ボリシェビキによる一党独裁化が完成したこと。つまり社会主義革命といいながら、実際にボリシェビキが打ち出した政策は、農村では食糧の徴発。都市の工場では、無償労働の要請に過ぎなかったことも分かる。

1921年3月21日。徴発制に変えて現物税が導入された。さらに国内商業の自由が復活された。いわゆる新経済政策の発動である。これには直前のクロンシュタットの水兵の反乱:ボリシェビキのいないソビエトの要求が、注目される。この反乱に示される事態の悪化により、レーニン達は資本主義に戻るネップと呼ばれる経済政策を決断している。
(下斗米さんはとくに軍馬の調達が農民の飢餓を生んだと指摘している。深刻な飢餓も広がり、激しい抵抗を生むことになった。しかしそれは地方的反乱に終わり、共産党に対抗する理念と組織に至らなかったとのこと。このときのレーニンは、党の危機だとして党内分派を禁止。下斗米さんは敵は第五列(内部に潜む敵)という考え方が指導部中枢にあったとする。)
(レーニンが発作で字が書けなくなるのは1922年5月末、亡くなるのは24年1月。下斗米さんは、レーニンには相対的多元主義を認める面はなかったとする。このとき農村経済政策の自由化を代表したのはブハーリン。ブハーリン、ルイコフ、ウグラノフら右派の市場維持派に対し、トロッキー、ジノビエフら左派は、ネップを資本主義への妥協として批判。これら左右両派を分派として批判の上、解任などの手段で政権から追い出したのがスターリン、モロトフら主流派である。解任の理由付けは分派であった。そしてクラーク:富農の絶滅、集団化の強制、大量粛清などの1930年代が始まるのである。)

農業集団化による農業生産力低下問題発生の構図は、中国で1950年代に繰り返されることになる。中国がロシアの経験を真剣に学ばず、第二次大戦後、農業集団化による大飢餓を招いたことは、大変残念としかいいようがない(福光)。

#ネップ #農業集団化 #レーニン #スターリン #ロシア革命 #独裁
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