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孫冶方(孙冶方 スン・イエファン 1908-1983) 百度百科和維基 五不怕

中国経済学の父 孫冶方(スン・イエファン 1908-1983) 成城大学経済研究217号 July 2017 101-125
(誤植訂正 p.113 下から11行目 178-217, esp.154, 199  →  178-217,esp.182-190)
(誤植訂正 p.116 上から2行目 到社会主義的到社会主義 → 到社会主義的民主)

百度百科
孙冶方(スン・イエファン 1908-1983は元の名前を薛咢果(シュエ・エーグオ)。偽名(化名)として宋亮、孙宝山、叶非木,勉之など。無錫の玉祁镇(ユーチーチェン)の人。模範共産党員であり著名な経済学者である。長い生涯を通じたプロレタリア(無産階級)革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、毎年選考されている。第一号が授けられてから、今まで中国経済学会の最高の栄誉とされている。(別訳)孙冶方(1908-1983) 元の名前は薛咢果。偽名(化名)として孙宝山,叶非木,勉之など。無錫玉祁镇の人。模範共産党員、著名な経済学者。生涯を通しての(老一辈)無産階級革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、2年ごとに選定される。始められてから今日まで中国経済学会の最高賞(最高の栄誉)である。
戸籍紹介
孙冶方(1908-1983)元の名前は薛咢果。また、宋亮、一洲、宝山、勉之などと名乗った。江蘇省無錫市玉祁镇の人。経済学者。
個人の経歴(个人经历
 1921年 高等小学校入学
 1923年 無錫竢实(チースー)学堂で中国社会主義青年団に入る
 1924年 年末に中共党員となる 無錫の党支部第一書記に任命され、同時に中国国民党に入る
 1925年 学生運動と労働者運動に従事する。同年11月党組織に派遣されてソ連モスクワ中山大学で学ぶ
 1927年 夏卒業後、モスクワ東方労働者共産主義大学で政治経済学の講義と通訳(翻訳)を依頼される
 1928年 モスクワ中山大学に戻り続けて通訳(翻訳)を頼まれる
 1930年9月帰国。上海人力車夫ストライキ委員会主席、未雇用および再雇用(末几又改任)人力車夫総工会準備(筹备)委員会主席に任ぜられる。同年末沪东区労働者(工人)連合会(联合会)準備委員会主席を担当。上海で労働者運動と左翼文化運動に従事。中国農村経済研究会に積極的に参加組織。また「中国農村」雑誌を編集。孙冶方の筆名で、マルクス主義の観点のある中国農村経済論文を発表し、理論戦線においてトロッキー派および王明の左傾の誤りに対して闘争を進めた。 九一八事変後 在史沫特莱主编(Agnes Smedley編集の)「中国論談報」で論説(撰稿人)を担当した。
 1933年に陈翰笙らと中国農村経済研究会を発起設立した。
 1935年に新知書店と中国経済資料室を開き、『中国農村』を月刊で発行し、月刊編集を担当し、英文の『中国論談』連絡員を任じた。抗日戦争爆発後、 1937年9月中共江蘇省(江苏)委員会の文化工作委員会書記を務めた。その後、マルクス主義理論研究と経済部門の指導工作に長く従事した。
 1941年6月 苏北根拠地へ行った。華中局宣伝部にあって宣伝教育科科長となった。華中局党校で教学を担当し、併せて教育科科長を兼任した。1941年華中の党校工作期間において、理論と実際の関係を強めることを提唱、幹部のマルクス主義理論教育を強化した。
 その後 中共淮南津浦(ホアイナンチンプ)路西地委宣伝部部長。苏皖(スーワン) 地区貨物管理局総局副局長を担当。山東での工作時には華東財办秘書長を担当した。
 1949年に軍に従って上海に至り、上海市軍管会工業処処長となった。
 新中国建設後、華東軍政委員会工業部副部長、上海財政経済学院(現上海財経大学)院長、国家統計局副局長、中国科学院経済研究所長を歴任した。
 1977年のあと、中国社会科学院経済研究所顧問、名誉所長、中国社会科学院顧問、国務院経済研究所研究センター顧問、中国社会科学院経済研究所名誉所長などの職についた。
   1982年9月 彼は病の中 中共第十二回全国代表大会に出席 中共中央顧問委員会委員に選ばれた。
 同年12月16日 孙冶方を顕彰し学ぶために、中共社会科学院機関党委は決定により、彼に模範共産党員の称号を授与した。
 1983年2月22日 孙冶方は北京で亡くなった。享年75歳。遺灰は故郷の太湖に運ばれ散骨された。
革命の道(革命之路)
  孙冶方の一生はしばしば苦難を経験する(磨难)というものであり、青壮年時には命の危険を冒して党の地下活動(工作)に従事し、逮捕投獄されたことがある。抗日救国(運動)中は、禁句を広めた罪(口诛笔伐)に問われたが、不白之冤(怨とあるのは誤植か 冤枉は不公平な待遇 罪でないことで有罪とされること 不白之冤とは つまり罪でないことを有罪とされそれを論じることができないこと)を強い意志で受け入れた。老年時期に入ってもまた無情な打撃をこうむった。彼の栄えある一生は党の下部から中央までが深く受け止め重視するところ、学術界が称賛し、広大な群衆が敬愛(爱戴)するところ。以下の叙述は、孙冶方が革命に赴く途中の2つの挿話である。(以下中略)
著作と理論(著作理论)
著作 
 『国民経済建設と国家資本主義について』『資産階級法権について』『我が国の経済管理体制改革についての幾つかの意見について』『社会主義経済論』『社会主義経済の若干の理論問題について』『社会主義の若干の理論問題』『孙冶方選集』『中国社会性質の若干の理論問題』。
  孙冶方は経済理論に造詣が深かっただけでなく、肝が据わり識見が備わり(有胆识)独創性があった。多くの経済学者が次のように考えていた。社会主義社会では資本主義商品経済が消滅するとともに価値規律はその作用を失うと。しかし孙冶方はつぎのように考えた。価値規律は社会主義の時期においても依然発生作用している。共産主義に至ると、ただ社会化拡大生産において、生産資料と消費資料の両部門間で生産と分配が進行するところで、商品流通は発生するし、価値規律は作用を始める。これらはのちに正しい思想だと事実により証明されたものだが、20世紀の50年代においては孙冶方の修正主義罪状となった。この正直に直言知った学者は、自身の学術観点を守り堅持したゆえに、20世紀の60年代初期に迫害を受け、「プロレタリア文化大革命」の間、拘束(镣铐)のうえで7年の長さにわたり収監された。 孙冶方同志は我が国の経済体制改革について、多くの独創的見解を提出した。彼は20世紀の50年代末から60年代初めの幾つかの文章、報告の中で説いている。経済管理体制の研究では、国家政体の問題に属する、中央と地方の関係をいつも強調することはできない。経済学の観点からみれば、いわゆる管理体制とは、まずもって国民経済の細胞である企業の管理体制の問題であり、その核心は企業の権力と責任問題である。彼は主張する、企業の生産積極性を促すためには、固定資産の償却と設備の更新の権限(权责)について、大企業の権限を拡大しなければならない。また(権限は)下層(基层)企業に与えられねばならない。同時に商品はもともと共同制作関係についての(権限を拡大しなければならず)、供給消費の関係の範囲で供給生産のバランスについては、企業内の処理にゆだねるべきである。
学術観点(学术观点)
 孙冶方は社会主義企業の分権モデルを提出した。拡大再生産の権力を国家に帰し、単純(簡単)再生産の権力を企業に帰した。社会主義経済において価値と価格は一致すると抽象的に主張した。社会必要労働量を統計から求めるプロセスで、実際の統計が(価値から)脱離する傾向がある。(そこで)長官経済や命令経済に反対し、精密な技術を用いさらに正確な計算を用いた計画経済を主張した。製品(産品)経済は認めたが、商品経済は認めなかった。価値規律は強調したが、価値規律を製品経済の上に建てたのであって、商品経済の基礎上ではなかった。自由市場を通じる、競争が価格を決定するということには反対であった。価格は需給により決定されるのではなく、生産価格に決定によるものだとし、生産価格は計算により把握できると考えた。企業が商品生産者であることは認めず、人々の経済利益が異なることも認めなかった。利潤が企業経営の良否を判断する総合指標とする市場メカニズムを、根本的には排斥した。(他方で)利潤は企業経営の良否を判断する総合指標であるとの主張を堅持し、牢に入れられても意見を変えなかった。
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维基
孙冶方(スン・イエファン 1908年10月24日-1983年2月22日)は元の名前は薛咢果(シュエ・エーグオ)。またの名(化名)を孙勉之、宋亮、筆名として孙冶方。中国大陸マルクス主義経済学者で、かつての中国国家統計局副局長。無錫礼社(リーシェ)镇生れの経済学者薛暮桥は叔伯(同じお祖父さんの)兄弟である(別訳・・孙冶方 1908年10月24日―1983年2月22日 元の名前は薛咢果。又の名を孙勉之、宋亮。筆名が孙冶方。中国大陸のマルクス主義経済学者で元中国国家統計局副局長。無錫礼社鎮生まれの経済学者薛暮桥は彼の叔伯兄弟である)。孙冶方は無錫の著名な家族の出身であり、薛家は荣家と同様に有名であり、その兄の薛明剑は著名な民族資本家である。孙の父はかつて無錫荣氏の家族企業の仕事をしていた。
経歴(生平)
×光诸34年9月30日 孙冶方は江蘇省無錫北郊礼社鎮で生まれた(当時礼社は鎮級建制であり、またの名を礼舎鎮といった。建国後玉祁镇に后属した)。14歳で無錫县立(県立)第一高等小学の入試に合格して入学するが、共産党員の教師張志和(張効良)の影響で、共産主義思想を受ける。1924年15歳で中国共産党に加わる。1920年代に無錫公益工商学校(専科中学)に学ぶ。無錫の共青団の最初の責任者、そして共産党党支部の最初の書記になる。1925年に中学を卒業せず、中国共産党に選抜派遣されて、ソ連モスクワ中山大学で学ぶ。卒業後学校に残りモスクワ東方労働者大学で政治経済学の講義通訳(翻訳)を担う。同学には鄧小平や叶剑英らがいた。党内の王明セクト主義と、粛清(肃反)拡大化の誤りにより、孙冶方は「最後警告処分」を受け、1930年9月中国に強制帰国(遣送)される。
1930年に中国に戻されたあと「中国農村経済研究会」に関与組織する。1930年代には薛暮桥と『中国農村』雑誌を共同で運営した(合办)。その間に西欧の現代経済理論の著作を大量に読むとともに、陈翰笙博士の指導の下に経済研究と調査の方法をつかんだ。
1937年上海は日本軍に占領され、租界の孤島で江蘇省文委書記をつとめ、文芸界の抗日活動に指導かつ従事した。
1950年代から1980年代までに 上海軍管会重工業処処長、上海財経学院(現在の上海財経大学)院長、中国国家統計局副局長、中国科学院経済研究所所長、全国五届政協委員、中国共産党十二大代表、中央顧問委員会委員、国務院学位委員会評議組成員を歴任した。
1964年雑誌『紅旗』の楊堅白、張卓元らの「生産価格論」の一文が”張(聞天)孙反党連盟”を作ったとされ(攻撃され)、一切の職務を取り消された(撤销)。
 文革期間長期間理由もなく(曾蒙冤入)秦城監獄に7年閉じ込められ、獄中で「社会主義経済学」の85編の構想を考え抜いた(腹稿)ものの、亡くなる前 助手たちの助力はあったが同書を完成するに至らなかった。
1979年の計委経済研究所と社会科学院経済研究所は経済学会無錫会議を挙行して解放思想「批判を恐れず、職務取り消しを恐れず、党籍解除を恐れず、離婚を恐れず、死(杀头:殺されること 抹殺)を恐れない」を提起した。
1980年代亡くなる前に中国社会科学院顧問、経済研究所名誉所長に就任した。
1983年に亡くなり、無錫太湖で葬儀が行われた。
学術上の達成(学术成就)
スターリンの『ソ連社会主義諸問題』に対して系統だって疑問を提出した中国経済界最初の人物。伝統的な計画経済体制の欠陥(弊端)を深く分析かつ解剖し、ソ連経済体制を批判し、中国文革後の物価管理制度を主張しスタートさせた(主持建立了)。
1983年に北京で亡くなった。亡くなる前には、商品経済実行の必然性を論述し、中国大陸の当時の経済体制の状況に対しては、財税、金融、価格、外国貿易と国有企業の体制改革方案(方策)を提出、併せて社会主義市場経済体制の実行を主張した。
学術上の観点(学术风格和观点)
拡大再生産の権利は国家に帰属し、単純(簡単)再生産の権力は企業に帰属するという、社会主義企業の”分権モデル”を提案した。
抽象法において、社会主義経済において価値と価格は一致すると認識すると、(しかし)社会必要労働量の統計過程では、実際の統計数値は脱離する傾向があると主張した。
長官経済、命令経済に反対し、技術的にさらに精密で計算がさらに正確な計画経済を主張した。
製品(产品)経済を承認したが、商品経済は承認しない。
価値規律を強調する。しかし価値規律は製品経済の上に建てられるのであって、商品経済の基礎上ではにない。
自由市場そして競争を通じて価格を決定することに賛成しなかった。
価格は需給が決定するのではなく生産価格が決定すると考えた。そして生産価格は計算を通して把握できると考えた。
企業が商品生産者であることを認めなかった。人々の経済利益の差異を認めなかった。根本的には市場メカニズムを排斥した。
利潤が企業経営の良否を判断(考核)する総合指標である(という考え)を堅持し、牢に入ってもこの観点を放棄しなかった。 
動画 価値規律第一 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
孙冶方(スン・イエファン) 1908-1983  経済学者 国家統計局副局長 中国科学院経済研究所長 国務院研究センター(中心)顧問
1955年 47歳の孙冶方は中国社会科学院経済研究所に入り、彼の経済領域の専門研究(专业研究)を開始した。現実の経済問題についての熱心な討論と、真剣な観察のあと、彼は組織内の若い学者を選んで「社会主義経済論」を書かせることを決定した。これは「社会主義の政治経済学」とも言えよう。この仕事に彼の人生の精力が注がれた。その間、新中国の三反五反の政治闘争、人民公社、大躍進の経済被害があり、文化大革命という前例のない大破壊があり、孙冶方自身が7年牢獄につながれた。一生をかけたが孙冶方は彼の「社会主義経済論」を完成することはできなかった。
1957年 反右運動が開始され、中国科学院経済研究所は政治闘争の渦に深く巻き込まれた。研究所所長の狄超白(ディ・チャオパイ)、経済研究常務編集委員の林里夫(リン・リーフー)ら老党員老指導者が極右分子として打倒された。このような背景で党中央は、文戦線工作を強化するため指導幹部を移動配置した。47歳の孙冶方は中央統計局副局長の職を離れて、狄超白に代わって中国科学院経済研究所長を担当することになった。
張卓元(チャン・チュオーユアン)「当時研究所はとても乱れた状況でそこに孙冶方はやってきた。来てからというもの彼はすぐにつぎのようにした。運動にはかかわらない。運動は別の人に任せる。彼は来るや否や業務に自ら取り組んだ(主抓)。」
赵人伟(チャオ・レンウェイ)「当時彼は会うなり言ったものだ、あれあれ今日は夜まで運動があったな。経済(研究)所がみんな研究しなければ、どうして経済(研究)所と呼べるだろう。そこで彼は会うなり、研究員一人ずつがするべき仕事をできるようにする方法を考えねばならないと話したものだ。」(以下略)
改革年代の孫冶方と薛暮橋(新华网2005/05/17, 新望:人民网005/08/12)
孙冶方と薛暮桥は第一世代の経済学者のふたご座であり、二人兄弟である。二人の人生の軌跡はともに普通ではなかった。一人は先覚者であり苦難を受けた。一人はのちに目覚め、老人になってから変化を求めた。この二人の兄弟が歩んだその道は、第一世代経済学者の中で際立って特徴的なもの(颇具代表性)である。
孙冶方の元の名前は薛咢果。孙冶方は彼の筆名である。無錫北郊の薛家は一大家族で、孙冶方は1908年に玉祁(ユーチー)鎮で生まれた。薛暮桥は少し南の礼社(リーシェ)鎮で生まれ、孙冶方より4つ年上。二人は叔伯兄弟である。
江南は状元(科挙試験をトップで合格する人)、文人(読書人)の出身地で、新中国では多数の経済学者が輩出した。この二人の兄弟のほか、马寅初,费考通,于光远,顾准,刘国光,高尚全,吴敬琏,厉以宁,茅于轼,董捕礽,陆学艺,×錫文など。加えて長期にわたり党の経済工作を指導し、市場メカニズム導入を主張した陈云同志も江南人である。原因は何か?吴敬琏(ウーチンリエン)は、薛先生を批評して次のように述べる。「(千九百)二三十年代の我が国江浙一帯の市場経済の発展は、直接の経験(切身体験)だった。」これは本当の話だ。たとえば费考通の名作「江村経済」、薛暮桥の最初の経済論文「江南農村衰退の縮図」。これらはみな、自身が生活した故郷で調査を行って書かれたものだ。(以下略)

五不怕について 毛沢東 劉少奇 孫冶方

 1957年6月13日晩 毛沢東が、吴冷西が人民日報社そして新華社で仕事をすることになったことに関して、吴冷西に対して述べた長い話のなかに次の一節がある。(典拠 吴冷西《毛泽东谈文史》)中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn)

 当时主席还严肃地告诫我说,你到人民日报工作,要有充分的思想准备,要准备遇到最坏情况,要有“五不怕”的精神准备。这“五不怕”就是:一不怕撒职,二不怕开除党籍,三不怕老婆离婚,四不怕坐牢,五不怕杀头。有了五不怕的准备,就敢于实事求是,敢于坚持真理了。一个共产党员要经得起受倒错误的处分,可能这样对自己反而有益处。

 1962年1月27日 いわゆる7000人大会(大躍進政策の誤りを公式に認めた大会)において、ここで劉少奇は、原稿にない演説を行ったがその内容は重要である。(典拠 刘明钢《七千人大会上:实事求是要有》中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn

 劉少奇はつぎのように話している。1957年以来、とくに1959年の反右傾以来の行き過ぎた右派闘争のために、党内生活に不正常な情況が出現し、党内で人は三看不讲(三観不講 風向き、指導者の眼色、指導者の意図を見て、本当の気持ちを話さない)となった。こうした状況のもとで、一部の指導組織と指導者の誤りにより、本当のことを話した人が賞賛されないだけでなく不当な批判を受け、事実でないことを話した人が、しかるべき処分を受けないばかりか、賞賛を受けている。我々は、このような情況を徹底して変えるように多いに努めなければならない。この文脈において、劉少奇はつぎのように五不怕を提起した。

 刘少奇强调:要实事求是还要勇气,要有什么勇气呢?要有“五不怕”:不怕撒职,不怕开除党籍,不怕老婆离婚,不怕坐牢,不怕杀头。(中略)刘少奇接着说:“有了这五不怕,还有什么可怕的事情呢?”

 1979年4月16日 社会主義経済中価値規律問題討論会が江蘇省無錫で開催された。(典拠 吴晓波《冶方之痛》经济观察网2009-12-18 http://www.eeo.com.cn)。

 在开幕式上,为了鼓励大家畅所欲言,时任国家计委经济所所长的雪暮桥讲了“三不主义”:不抓辫子,不打棍子,不戴帽子,坐在一旁的孙冶方当即接下话头,提出还要“我不怕”:不怕批斗,不怕罢官,不怕坐牢,不怕杀头,不怕老婆离婚。接着他又说,不但要“五不怕”,最要紧的还有,要被批判者以说话的机会。话音一落,全场掌声雷动。

なお孫冶方の五不怕について 冒頭の2つは別の表現もある

不怕批斗,不怕罢官,→ 不怕受批评,不怕撒职 両者ともに意味は同じである。

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