gooブログ<大分北部~東部海岸をめぐるカヤッククルーズ>

古から南蛮貿易で海外文化を齎した大分の海(瀬戸内の豊前海~別府湾~豊後水道~日向灘)をカヤッククルーズで紹介します。

20>国東水軍(岐部氏)の故郷とペドロカスイ岐部

2012-11-10 22:52:00 | 散策
 国東水軍(岐部氏)の故郷とペドロカスイ岐部


H24年10月、「国東水軍」岐部氏の故郷国東市岐部を訪ねた。古くは鎌倉時代に弘安の役への参陣、応仁年間は明国との修交貿易を実施した水軍の将であったとのこと・・・戦国時代には大友氏の雄として豊前制圧等に尽くしたとも言われている。

鎌倉~戦国時代、現在のような陸路のないこの国東(の・・その先)の地でどのような文化が存在したのか・・・

岐部城(城址)は旧庄屋(有永邸)の南西先の小山にあり、僅かに雑木の間に覗き見られる石垣や墓石群からその”兵共(つわものども)が夢の跡”を辿ることができる。

その岐部城(の小山)の南側に十字架と塑像が聳え立つ・・・
「ペドロカスイ岐部(安土桃山~江戸時代初期)」の記念公園である。
・・・10年前、(長崎での勤務のとき)長崎駅前にある「二十六聖人殉教の地」を訪れ、隣接する教会で大きく紹介されていたのが「ペドロ」であった。出身地から遠く離れた長崎の地で「ペドロ」の名を掲げたミサが開かれていた・・・
その「ペドロ」は岐部一族を親とし、当時日本人として初めてエルサレムを訪ね、「世界を歩いたキリシタン」といわれている・・・

岐部城址からすぐ先に入り江があり、澄んだ海と住吉崎が目に入る。
・・・ここが国東水軍を育てた海か・・・
姫島クルーズの帰路目指した住吉崎は海からの進入を阻む要塞であったのか・・・その風穴と近場の岸壁は加工された如く角ばっており、小型の戦闘船を格納したり係留するに相応しく見えてきた・・・

この岐部集落の隣の櫛来集落では、秋に神社で「ケベス」が暴れる・・・
奇怪な面、グーッとこらえて、こらえて・・・最後に燃え盛る火のなかに飛び込み、その火をかき回す所作は何を物語るのか・・・
(申し訳ありません!ケベスの写真は資料館(旧庄屋(有永邸))掲示物を写させていただきました。)

歴史だけじゃない、何かがある・・・本当に不思議なところです。

17>【9月投稿】「黒岳原生林(男池園地)」から「湯平温泉郷」を訪ねて

2012-09-26 23:08:04 | 散策
「黒岳原生林(男池園地)」から「湯平温泉郷」の散策


 これまで「カヤックでいく大分の海」、「海辺の景観(歴史)」等を紹介してきたが、その豊かな海を育む”山と水”を忘れてはならない。

今回、少し目先を変えて「奥豊後庄内の黒岳原生林(男池園地)」から「湯平温泉郷」の”山と水”の景色をご紹介とします。

8>(大分市内)大友宗麟と南蛮文化をさがして

2012-03-12 00:21:14 | 散策
大友宗麟と南蛮文化




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 1551年(天文20年)7月、ポルトガル船が別府湾日出沖(神宮浦の対岸)に来泊、同年9月にはフランシスコ・ザビエルが宗麟の招きで府内(大分市中央部)を訪れ、以後相次いでポルトガル船が来航することとなり、神宮寺浦を含む別府湾は、当時日本における南蛮貿易の表玄関であった・・・。

その南蛮貿易で齎されたものがフランシスコ・ザビエルのキリスト教文化(西洋文化)であり、「(西洋)外科手術」、「(西洋)音楽演奏」、「(西洋)育児院」等々当時日本で最初の西洋文化が花開いていたようです。

また、当時府内を訪れたフランシスコ・ザビエル等の宣教師達により、先進の北部九州(=当時BUNGO/FUNAI)の文化が西洋(ポルトガル等)にお披露目となったのです。


7>(佐賀関)関崎の散策・・その1・・

2012-02-13 21:55:13 | 散策
(佐賀関)関崎の散策・・その1・・




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 子供の頃、夏は一日中海で遊び「日鉱佐賀関の煙突」は、いつも遠景として視界に存在していた・・・半世紀が経過したが、「煙突」は変わることなく毅然と聳え、自分の気持ちも子供の頃と変わることなく今も海と遊ぶ・・・
その「煙突」の先の関崎(海星館、灯台等)から望む海(速吸の瀬戸、豊後水道)の景観も見事ですが、「黒ヶ浜」、「姉妹岩」周りのなぎさ、荒磯の景観もすばらしい。