戦前に製造された51系をベースに、横須賀線や京阪神緩行線、中央東線など、通勤路線用と中距離路線用としての性格を併せ持った路線で使うために3扉セミクロスシート車として開発され、1951年から1958年にかけて、合計282両が製造(一部は、木造車の鋼体化改造名義)された。
新潟地区における70系の活躍は、1962年の信越本線長岡駅 - 新潟駅間の電化開業時に京阪神緩行線からクハ68形とともに転入した車両とともに始まった。その直後の38豪雪や新潟地震といった災害発生時には、電車特有の機動力を発揮し電車の有効性を知らしめた。その後も横須賀線と京阪神緩行線から70系やクハ68形の転入が相次ぎ、当初は新潟駅 - 長岡駅間だけであった運転区間も延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎駅まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津駅、後には妙高高原駅まで拡大した。
新潟地区の70系で特筆すべき点は、スカ色の塗分を赤2号と黄5号に変更した、いわゆる「新潟色」に塗られていたことである。雪の降らない地域の人から見ると少しどぎつく見えるきらいもあるが、冬季における視認性の向上や北国の冬に打ち克つために明るい色を好む地域性から「新潟色」の採用につながったものである。しかし、冬季だけでなく新緑の風景や越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。
模型は、トミーテック製「鉄コレ」の70系新潟色の4両編成である。この編成では片側のクハは中間車を改造して出来たクハ75である。
↑ クハ76上越色と中央東線色が並んだ所
↑ クハ76029
↑ モハ70085
↑ モハ70097
↑ クハ75006
2010.03.21 N-0015
新潟地区における70系の活躍は、1962年の信越本線長岡駅 - 新潟駅間の電化開業時に京阪神緩行線からクハ68形とともに転入した車両とともに始まった。その直後の38豪雪や新潟地震といった災害発生時には、電車特有の機動力を発揮し電車の有効性を知らしめた。その後も横須賀線と京阪神緩行線から70系やクハ68形の転入が相次ぎ、当初は新潟駅 - 長岡駅間だけであった運転区間も延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎駅まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津駅、後には妙高高原駅まで拡大した。
新潟地区の70系で特筆すべき点は、スカ色の塗分を赤2号と黄5号に変更した、いわゆる「新潟色」に塗られていたことである。雪の降らない地域の人から見ると少しどぎつく見えるきらいもあるが、冬季における視認性の向上や北国の冬に打ち克つために明るい色を好む地域性から「新潟色」の採用につながったものである。しかし、冬季だけでなく新緑の風景や越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。
模型は、トミーテック製「鉄コレ」の70系新潟色の4両編成である。この編成では片側のクハは中間車を改造して出来たクハ75である。
↑ クハ76上越色と中央東線色が並んだ所
↑ クハ76029
↑ モハ70085
↑ モハ70097
↑ クハ75006
2010.03.21 N-0015