小樽運河のはずれに佇むひときわレトロな建物 ・・
旧日本郵船小樽支店です。 (竣工は1906年 )
その前方は、
荷揚げのための船入潤 (ふないりま ) と呼ばれる場所でした。
現在は埋め立てられて公園になっています。
ここに 『赤い靴 ・ 親子の像 』 が建てられています。
童謡 「赤い靴 」 に捧げられた銅像です。
1921年に
野口 雨情 (のぐち うじょう 1882年ー1945年 ) が詩を書き、
1922年に
本居 長世 (もとおり ながよ 1885年ー1945年 ) が作曲した
誰でもが知っているあの童謡 ・・
この写真を撮ったのは、撮影の下見で訪れた10月 23日です。
(10月 29日のブログ参照 )
この日は雨でした。
まさに、野口 雨情を偲ぶにふさわしい 『雨の情景 』 でした。
実は、この童謡に歌われている
『赤い靴をはいた女の子 』 は実在した ・・
という定説があります。
女の子の名前は 『きみ 』 ・・
1902年に静岡県で生まれています。
未婚のままきみちゃんを生んだ母は、
その後 2才になったきみちゃんを連れて函館に渡ります。
おそらくは、
新天地を探しての決断だったのではないでしょうか ・・
母は函館である男性と出会い結ばれます。
そして、共に開拓村での暮らしを始めますが環境は厳しく、
やむなくきみちゃんをアメリカ人宣教師夫妻に託しました。
きみちゃんが 3才の時のことです。
当時の開拓民の想像を絶する辛苦は、
後世様々に語り継がれています。
宣教師チャールズ・ヒューエット夫妻 ・・
童謡で歌われる 『異人さん 』 です。
函館できみちゃんを託されたヒューエット夫妻は、
赴任後きみちゃんを
アメリカに連れて帰るつもりをしていました。
しかし、きみちゃんは、
当時不治の病といわれた結核に冒され、
長い船旅には耐えられない体になってしまいました。
きみちゃんは、
東京 麻布十番にあったメソジスト派教会の孤児院で
わずが 9年の人生を終えます。
横浜の埠頭 (はとば )から汽船 (ふね ) に
乗ることはなかったのです。
ヒューエット夫妻にきみちゃんを託した後、
母と男性は北海道各地を転々としました。
やがて小樽にある 『カトリック富岡教会 』 の近くに居を構え、
終生敬虔なクリスチャンとして暮らしたそうです。
ここできみちゃんを想い、祈ったに違いありません。
作詞者 野口 雨情
小樽に落ち着いた男性は、新聞社 『小樽日報 』 に職を得、
そこで記者として働いていた野口 雨情と知り合います。
きみちゃんの運命を知らず、
アメリカに渡り幸せに暮らしていることを
信じていた母と男性は、
語るともなくきみちゃんの思い出を
野口 雨情に話したのでしょう。
童謡 「赤い靴 」 の背景には、
こんな物語があると伝えられています。
自らもまた生後 7日の娘を失った野口 雨情 ・・
いろんな想いが絡み合い、名曲が生まれたのでしょう。
2007年、 『赤い靴 ・ 親子の像 』 建設委員会は、
母と男性が暮らした街 ・・
そして、
野口 雨情にゆかりのある小樽にこの像を建てました。
きみちゃんの像は、
母のふるさと静岡県 ・・
終焉の場所となった東京 麻布十番 ・・
横浜の埠頭を望む山下公園などにも建てられています。
この定説に異論を唱える人も数多くいます。
しかし、ひとりの少女の数奇な運命を想起させる歌詞と
哀愁に満ちたメロディには、
この定説がふさわしいと思います。
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