【 「おしゃべり碁」――今も昔も「口は災いの元」の巻】
前回投稿を補足します。
御城碁を観戦していた「松平肥後守」が、横からの口出しにより、
危うく切腹になりかけた“事件”についてです。
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■事実関係だけをなぞると、
肥後守は、どこかの「失言大臣」「妄言大臣」の如く、
救いがたき「軽い人物」に思えます。
が、そうではなかったようです。
歴史的評価は「幕閣に重きをなす名君」。
今でいえば「副総理兼財務相」のような立場を「まっとうした」のです。
■では、なぜ、こうした「失言」をやらかしたのでしょうか?
わたしの推測ですが、
「権現様」と呼ばれるほどに神格化された家康公が厚く庇護したとはいえ、
当時はまだ「遊戯色」が強かったのでしょう。
それが本因坊算悦のあっぱれ見事な態度を取った“事件”を始め、
名棋士たちの態度・所作などが、
次第に「別格化」の道へと、いざなったのではないでしょうか。
■碁の所作・マナーには、
守るべきものと、重きをおかずともよいもの、があります。
肝要なのは対局者たちが技芸を存分に発揮できるような環境を乱さないこと。
反則は反則、マナー違反はマナー違反です。
御城碁でも、市井の縁台碁・縁台将棋でも、これは変わりありません。
同じ失言にしても、職を辞すべきものと、謝罪の言のみで済むものがあります。
その基準は何か?
任命権者と取り巻きを始め、批判勢力さえも、絞りきれておらず、大局的見地が欠けています。
こうしてみると、現代は何かにつけ「緩んでいる」のでしょうか。
本因坊算悦(ほんいんぼう・さんえつ) 1611~58年。二世本因坊。七段上手。一世本因坊算砂の実子とされる。幕命による安井算知と「争碁」は、争碁の最初といわれる。対局中、松平肥後守が何気なしに「本因坊此碁負と見ゆ」と口出ししたのを、算悦が聞きとがめ、肥後守は謝罪に追い込まれた。算悦の態度が「碁家の気節」として称賛され語り継がれた。
松平肥後守(保科正之=ほしな・まさゆき) 1611年~73年。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。徳川家康の孫。3代将軍・家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。日本史上「屈指の名君」との呼び声が高い。