本日例会は
三十人超の盛会だった
コロナ禍で
退会したり
欠席したりの
懐かしい顔も
久々に姿を現した
敢えてワケを
聴いてはいないが
世話人会メンバーが
個別に電話連絡したのではないか
声を掛けられたら
行ってみようか、と思うもの
わたしも会長時代には
電話代がそれなりに掛かった
きめ細かくやるか
そこまでやらないか
ちょっとしたことで
親睦交流の雰囲気は
ガラリ変わってくる
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
自分の失着・悪手を悔いるより
相手の好着・妙手を褒めましょう
読めていないのは自分の限界
読めているのは相手の明察
コツコツ勉強する努力に
敬意を払わずして
なんとしましょう
不明を悔い恥じるばかりは
やはり自己中心的で欺瞞あり
といわざるを得ません
〝かく打たばなどとヘボ碁の負け惜しみ〟
なんて古川柳もありますね
「愚痴」とか
「負け惜しみ」とか
口を開けば我が身ばかりとは
いい大人がどうしたものでしょう
褒めてくれる人には
心も自ずと開かれる
としたもの
親睦・交流の碁会で
アマ碁はかくありたい
と思うもの
褒める所が見つからない?
それは困りましたね
でもそれは貴方の不明
探せば、きっと
どこかにありますとも
たとえヘボ碁であっても
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
二つの地域碁会に所属していて
三段ぐらいのヘボザルだった頃の話です
(いまも、さほど変わりませんが)
劫(コウ)が面白くなって
勝負に負けても
劫には勝ちたい一心で
必死に劫争いをしていたところ
チラリ碁盤を見た某高段者から
吐き捨てるように言われちゃいました
「コウを争うような碁ではない」
その当時は、
形勢判断もやらず(できず)
劫立ての数を数えずに
つまりノーアイデアで
碁を打っていました
(碁を打っている、と言えません)
相手には弱い石もなく
二十目三十目も離され
最後まで打ってもムダ・ムリ
という絶望的形勢の碁を
平然と打ち続けていたのですから
有段の資格は全くなし
穴があったら入りたいとは
このことでしたね
いまでも
熱くなってしまい
ムリ手を連発する時には
いちど深呼吸して盤面を数え
頭を下げるようにしています
「負けました」
口に出して負けを認めることができ
人間としてもにもマシ?になってからは
霧が晴れたかのように碁盤の見え方が
変わってきたように思います
これ、正味ホントのはなし
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
親睦の碁ならば、こうなります
カネ絡みではない素人の碁は
愛嬌がないとギスギスします
賞金・賞品のない自由対局なら
待った・ハガシの常習者に対しては
「そんなことをしてまで勝ちたいのか」
と思っても心の奥におさめておき
お気に召すままといたしましょう
だいたいわたしはそうしています
〝貸し〟が出来たのですから
精神的に余裕ができるうえ
お返しがくるでしょう
ただしノーサンキューですが……
「これぐらいの勝手は許してもらい
同じく人にも認めてやろう」主義は
決して褒められたものではありません
こんな調子が碁会にまん延するならば
どんなバカげたことでもたちまち流行し
低級な場となるのを覚悟せねばなりません
品位を落としてまで碁を打つことはありません
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
相手がヘマな手を打ったとき
間髪を入れずに素早く打つべし
うかうかしていると
相手が気付いてしまい
〝待った〟をされちゃ
かないませんからね
始終、碁笥に手を突っ込んでいるのは
品のない所作である、と批判しましたが
どっこい、こういう時に役立つというもの
これも芸のうちですかね? アハハ
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
プロは厳禁ですが
アマは時と場合によりけり
この後、どうなるかといえば
ふたりの人格しだいであります
〝待て待たぬ喧嘩はしても碁は止めず〟
となれば、とりあえず平和が保たれます
これは、あくまでも現代のおはなし
封建時代の始めの頃は
戦国の名残をとどめ
遊興の場も殺伐としていました
刃傷沙汰を扱った有名な創作物で知られる
西国のある小藩に伝わる逸話では
藩士同士の斬り合いに発展したとあり
同様の事件は他にも散見されます
碁盤の脇に大刀を置いておくもの
いかがなものかと思いますが
いまは〝陰口という刃物〟が
あなたの懐を静かに突き刺します
平和の時代の争いは
碁盤の上だけにしたいものです
所作・マナーはそのためにあります
礼とは利口さの表われであり
非礼は愚かさといえましょう
感情を刺激せずに静かに打ちましょう
われも生き、人も生かすために……
親睦一番、交流二番、
三、四がなくて、五が勝ち負け
というのは如何でしょうか
◇囲碁名人戦予選で「待った」 盤上の石ずらし反則負け
囲碁名人戦の予選で、対局棋士の一方がすでに着手した自分の石を別の場所にずらして対局を続けるハプニングがあった。対局後に相手棋士から異議申し立てがあり、日本棋院は「待った」に当たるとして、石をずらした棋士の反則負けとした。
参考:朝日新聞デジタル2021年4月13日配信記事より
【ザル碁ヘボ碁あるある / いにしえの川柳、狂歌から】
相手は下手(ヘタとも読みますね)
上手なら上から目線でイヤミですし
同格ならそれこそ険悪な感じです
口三味線のなかでも
品のない部類ですね
軽口はわざわいのもと
心のなかにトドメておきましょう
〝考へて打てと下手に云うは無理〟
という囲碁川柳もあります
上手の小言の定番ですが
下手としちゃ精一杯なんですから
やさしく教えて差し上げるのが
品があるような気がします
ちょっとだけ負けてあげると なおよろしい
それができれば正真正銘の高段者でしょう
ただし、ちかごろ滅多にお目に掛かれません
地域同好会なら、こうありたいものです
【還暦すぎればオマケの人生/人の輪を広げてゆこう】
北は北海道、南は愛媛
振り返ると西日本中心
自分が過ごしてきた街を
指折り数えてみると
十指にあまる
ふるさとは北の街々で
十代までの甘酸っぱい想い出が
たっぷりと詰まっているが
還って棲もうとは思わない
気が向けば
同窓会に行くが
さほど熱心ではない
勤めていた会社のOB会に
会費こそ払っているが
会報に寄稿しないし
集まりに行かない
過去とのつながり、といえば
わずかに大学時代のサークル仲間
いまはグループlineだけである
だが、過去を捨てたワケではない
想い出のなかにあるだけだ
それで十分と思うようになった
◇
いま棲んでいる京都と大阪の間の
35万都市・高槻から出ることが
めっきり少なくなった
妻が倒れた昨年末から
三つ離れた吹田市の病院に
通院で往復する以外は
半径10㌔圏で生活している
主夫生活も思っていたより忙しく
毎日が飛ぶように過ぎてゆく
囲碁同好会のつながりは
世話人を3年近く務めた縁で
少しずつ、広く、深くなってきた
碁友たちは複数の趣味を持っており
見知らぬ世界とつながっている
囲碁は、
対局そのものが面白いだけでなく
人間ウオッチングの絶好の機会で
コミュニケーションツールとしても
優れている
わたしが、
不断の声掛けやブログで
「ちょっと自分を語る」のは
人と人との壁を低くするため
でもある
つまり囲碁は
つながりに優れた交流道具のひとつ
ということであって、
唯一無二の趣味というつもりはない
◇
高槻市は
関東圏からの移住者も少なくなく
聴けば高校の先輩後輩だったり
近くの出身者同士だったり
ということがままある
52カ国3000人が棲むというから
日本も地球も狭くなったものである
百人碁会は
コロナ影響で五十人碁会となったが
この辺、モノは考えようであって
新しい同人を迎える余裕が出来た
と、わたしはとらえている
お愉しみは、これからだ
【晩学でも落ちこぼれでもいいじゃないか】
好むと好まざるとにかかわらず
時代の風をやり過ごせないのが
この世の常であって
その事実を歴史が物語ってきた
加速度を増すデジタル社会を疎ましく思い
無縁でいられたら、どんなに心静かに暮らせるか
と夢想しても、ひとり後戻りできるワケでもなし
取り残されて苦い思いに浸るのがオチである
平均年齢80歳超の五十人碁会が
突然ぱあっと明るくなる
なあんてことは想像だにできないが
そう湿っぽくならないには
どうすればよろしいかを
ときどき夢に見るこのごろ
ついに二人になってしまった女性会員を
なんとか二桁近くにまで増やしていく?
現役世代の新入会はムリとしても
昭和三十年前後に生まれた高齢者ビギナーを
どこからかスカウトしてくる?
せめて地味なモノトーンファッションの現会員が
赤や黄色や桃色の派手な服で例会に参加する?
いったい、わたしは、
何を期待し、何を待っているのだろう
ただ、もやもやしている
ちろっと明るい雰囲気の例会?
いや、ちょっと違う
では、なんだろう――
◇
年を取ると何かを諦めてしまう傾向が強まる
「もうPC・スマホはやめた。
どうせ残り少ない人生だから」
なあんて悲しいことは言わないでほしい
人間は死ぬまで生きている
生きているなら、
せめて初段になりましょう
初段になれたら三段になりましょう
三段になれたら五段になりましょう
諦めたら終わりです
人生を愉しむには
時の流れを無視できません
ステップアップできないまでも
せめて世の中の大きな変化に
なんとか付いていきましょう
流されたらそれこそ終わりです
さあ、これからだ
◇
過去2年、
半期リーグ戦を計4回企画しましたが
参加しなかった人、いつも七十局以上打つ人
惜しくも昇段を逃がした人、少しずつ階段を上がる人
毎度勝ち越しに届かずに足踏みを続ける人――さまざまです
が、勉強している人は、歳を重ねても、右肩上がりです
いずれも元気で、愉しそうです
愉快が一番、憂鬱を吹き飛ばしましょう!
たゆまざる
歩み恐ろし
カタツムリ!
(中高年落ちこぼれ晩学組の指導者・金大鈴氏の著書より)
先輩ブロガーの最新投稿に
「老後の居場所とは」
と題する一文があった
定年退職後は居場所づくりが課題、と言い
「本当の居場所は
過ごす時間の多い場所ではなく
自分にとって居心地がよく、
寂しくない場所であると思う」
と指摘している
毎週土曜日午後の数時間
共通の趣味で過ごす場が
わたしにはある
五十人規模に縮小してしまった
かつての百人碁会である
ほかの趣味の多くは
ひとりで楽しんでいるが
ここだけは例外である
顔見知りばかりで居心地はいいし、
これからも長く続いてくれたら
と、いつも思う
これまで散々書き飛ばしてきたが
希望を持って入会しても
何らかの事情でやめていったヒトが
少なからずおられる
ひとりひとりを思い浮かべると
ココロがチクッとする
根本原因は人間関係だと思う
「われも生き、人も生かす」
この三年間、世話人として
この環境づくりが出来たか、といえば、
全く不十分といわざるを得ない
不徳の致すところである
たまたま、それなりの理想を目指し
比較的頭脳明晰な部類の人たちが
相集まって結成した同好の会が
やがて劣化し、当初の目論見とは
反対になるくらいに変わる――
こう相場が決まっているが
その原因と責任はどこにあるかといえば
ひとえに人間の内面の空虚と貧弱にある
と見るべきであろう
新しい酒は新しい革袋にもれ
という言葉がある
カビだらけの会則だけはなんとか変えた
次の世話人会に願いを託したい