【追う者の強みか ~ 栄枯盛衰の四百余年 ~ 客商売の影日向の巻】
■東日本大震災(2011年)の頃だったと思う。
仕事と趣味を兼ねて、新年の挨拶に関西将棋会館を訪れた。
応対してくれたのは、棋界重鎮のA九段。
「よければ、ちょっと、指しましょか?」
わたしは、大棋士が何を言っているのか、
一瞬、分からなかった。
「TVに出ているヒトだ」と思っていたが、まさか……。
わたしの碁は「ヘボ」だが、将棋は「大ヘボ」だ。
それを“お好み”とはいえ、駒を落とさないで指しましょ、とは。
無礼を回避するためケンカ風味の「四間飛車」でなく、
本格的な居飛車「矢倉囲い」でいくことにした。(マジメか)
二十数手まで定跡のようなものが進み、
「ここまでにしましょか」
しこたま汗をかいた。
こんな経験は最初で最後かもしれぬ。
誰に対しても、そうなのかは知らないが
将棋界のサービス精神?に、感服した。
◇
■碁盤は19路×19路。
線と線が交差する361点で、着点の選択がポイント。
何もない盤上に、黒と白の石が埋まっていく。
平均230手の長丁場だから、42.195㌔を走るが如く
「勝ち切る」までの道のりは長い。
「石の生存」と「陣地の多寡」という異質の要素が絡み合う。
幾何学模様の複雑怪奇性が、とっつきにくさに拍車をかける。
100手で決着するかと思えば、300手超の超長期戦にもなることも。
形勢のよい方は堅く打ち進め、悪い方はなんとか逆転を狙う。
力が拮抗していれば、最後は微差になることが多い。
■将棋盤は9マス×9マス。
碁とは逆に、8種類ずつ計40枚の駒をあらかじめ盤上に並べ、
それが姿を消しては、一部復活し、次第に少なくなっていく。
どちらかの“親分”が死ねば、そこで決着する。
手数は碁より短く、100手ほどで決まる。
スリリングでスピード感があり、中距離走の趣がある。
■将棋を趣味にしているプロ碁打ちは多く、その逆もある。
だが「遊び」なので、せいぜいアマ低段者が多い。
碁将棋は、ゲーム性や歴史的経緯において、近しい関係。
囲碁は高尚ですましていて、将棋は大衆的で気楽なイメージがある。
◇
■信長、秀吉が愛し、家康の保護で発展した碁将棋だが、
長い間、序列は「碁→将棋」の順であり「将棋→碁」ではなかった。
将棋人気が高まったのは、四百余年のうち、この数十年のことだ。
愛好者の数は逆転し、人気の差が付いたワケはいろいろあれど、
大山康晴・元日本将棋連盟会長の力が大きかったのではないか。
第一線のA級棋士のまま会長に就任し、普及活動に精力的に取り組んだ。
最強名人でいる間は、大山は「悪役」だった。
棋士の多くが好感を持っていなかった。
しかし50代で会長になり、少しヒトが変わった。
ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くした。
晩年、大山を悪く言うような声は雲散霧消していた。
大山の回顧録によると、
「序列」「品格」「イメージ」で、将棋は日陰を歩いていた。
会長就任の際に「大逆転する」と決意していた節がある。
対局場、道場、ファンとの交流の場となる
現在の関西将棋会館の建設構想も
大山が先頭に立ち、数多くの企業に足を運び
寄付を集めて実現にこぎつけたことも今や語り草となっている。
かくして
虎は死して皮を留め 人は死して名を残す
となったのである。
「大山康晴 勝負五十年」(昭和58年)
終章「六十歳の決意」より抜粋
昔から、女性と将棋の縁は薄い。
性分に合わないのか。
女性の持つ独特の見栄といったようなものが
関心を薄くさせてきたのかもしれない。
比べて“碁”は女性にも
昔から深いつながりを持っている。
かなり強い女性のプロも数多く現れてきた。
碁は将棋よりも格上の娯楽とみなされていたせい
とも考える。
「私の趣味は、碁よ」
などと言えば、洒落ている感じでもあった。
その点、「わたしは将棋が好きなんです」
では恥ずかしいような時代が続いていた。
今でこそ、形だけのようでも
“プロの女性棋士”が出現しているが
それでも一握りの存在に過ぎない。
棋力も“いまいち”である。
とても、自慢できるほど
将棋と女性のつながりが深くなったとは
言えない。
もっと、もっと強い女性の出現が、
女性ファンを増やす決め手と考え、
その事に全力を尽くしていかなければならない
と思っている。
また外国人の将棋ファンも、
今のところ一握り中の一握りだが、
少しずつでも多くしていきたいのが
念願の一つになっている。
(中略)
後輩の諸君に望みたいのは、
勝負の上で、技術の上で、
一層の向上を目指しながらも、
それだけに埋没してしまうのに
疑問を持ってほしい。
(中略)
娯楽戦争に負けてはならない。
(注:太字はブログ主があしらった)