【抜刀目的が見え隠れする「改憲論」の巻】
坂口安吾「敗戦7年後の非戦論――拙者は戦争はいたしません」(8・16投稿)の関連記事です。
自衛隊(国際法上の軍隊)が「現に存在するから」という皮相的理由で憲法に明記しよういう「もっともらしい論理と謀略」にスポットを当てます。
「有事法制から改憲へ」という計画性をどうとらえるか、がポイントです。
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■150年前まで、サムライは腰に「二本差し」で外出しました。少し家格があれば、一人歩きではなく、用人か下男を供にしたものです。「武装」していたわけです。でも中には生活苦で真剣を手放した傘張浪人などが竹光を差していた例もあり、幕末には形式的慣習になっていました。
■刀はサムライの命。大声で言えませんが、歩く時には「邪魔」です。もし町人などと接触でもすれば、場合によっては「無礼打ち」しなければなりません。それなり正当な理由がなければ、本人も「切腹」。お家断絶の危険さえあります。
■従って、時代劇の様に道の真ん中をふんぞり返って歩くことなどできず、道が狭いと脇の水溜まりに入ってでも「対向者」を避けました。殿様や大身なら駕籠やら馬やらに乗るので心配ありませんが、それはほんの一握り。ほとんどのサムライは、「武装」している以上、ボーと歩いているわけにはいかなかったのです。
■しかし「ある目的」を持って武装しているわけではありません。「辻斬り」「決闘」「襲撃」の類いとは、一線を引かねばなりません。ここを忘れてはなりません。
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■用もないのにボーと外を出歩く、つまり「散歩」という習慣は、この国にありませんでした。明治・大正期でも、作家先生か詩人か哲学者か、あるいは少しおかしな連中か、と相場が決まっていました。
■現代は、犬の散歩、ウオーキング、ジョギングなど、誰でもが<用もない>のに出歩いておりますが、これらはそれ自体に意味があります。
■犬は「牙」を持っているので「二本差し」に近い。でもラガーマンと同様、丸腰に近いがとても強い、ぐらいの感じです。飼い主にとっては、知らないオジサンや子供を噛んだりしないか、犬同士のケンカで傷付け合ったりしないか、お金持ちの家の前で用を足してトラブルにならないか、心配のタネでもありますが。
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■さて、わたしのアンディは家の中で暮らしているので「番犬」としての期待があります。薄暗い森を歩くと「ウー」と唸ってくれます。
■でも、彼は牙をむいたことはありません。誰に対してもフレンドリー。もしかすると「番犬」には不向きかもしれません。でも、いざという時には頼りになるでしょう。そう信じています。
「拙者は戦争はいたしません」
■つぶらな瞳は語っています。頼むぜ、アンディ。
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▲わたしが挨拶すると、安心して遊びます
挨拶を返さない人、よく吠える犬には、知らんぷりです
彼は、ちゃあ~んと分かっています
■さて、明日から10月ですか――。
8月は、「8・6ヒロシマ」「8・9ナガサキ」「8・15戦争ようやく終結」。
9月は、「9・11同時多発テロ」。
じゃあ、10月は?
「10・21国際反戦デー」は、わたしの学生時代は学内で「何事か起きていた」のですが、最近はどうでしょうか。
「香港」のようにやらなくとも、いつも心に刻んでおくべきは「戦争と平和」だ、とわたしは思っています。