皆さん、こんばんは。
10月19日、木曜日。 晴れ。
日中の余りの暑さにたじろぎました。
スマホの天気情報を見ると、何と気温は26℃!
10月中旬の夏日とは、、、
身体が付いて行くのが大変です。
😩
さて、今回も「らんまん」を偲んで、ある登場人物のことを調べてみました。
タイトル写真の「広井 勇」という人物、誰だか分かりますか???
勇、、、
ゆう、、、、
はい、万太郎の生涯の親友、
広瀬佑一郎君です!😃
土佐藩の武家の長男として生まれ、郷校名教館で儒学者伊藤蘭林に学んだ後、11歳で上京。
札幌農学校(現北海道大学)で土木工学、物理学などを学び、その後私費で渡米してミシシッピ川とミズーリ川の治水工事に携わりました。
帰国後は小樽港をはじめ幾多の港湾建設に係わるなど、ドラマで演じられた通りの業績を修めた他、近代日本の国土建設を担う幾多の教え子を育てた、優れた教育者でもあったそうです。
気になりませんか~?
少し字数が多目ですが、宜しければお付き合いください。
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らんまん余録(2) 広井 勇
廣井 勇(ひろい いさみ)
文久2年(1862)- 昭和3年(1928)
高知県出身。
港湾工学の父とも呼ばれる日本の土木工学者。
旧東京帝国大学教授。正三位。
自然条件の厳しい小樽港の岸壁建設に際し、火山灰を混入して強度を増したコンクリートを開発して長大な防波堤を完成させたエピソードは、ドラマの中でも語られていましたね。
早朝から夜遅くまで現場に入り、半ズボン姿で自らコンクリートを練る姿を見掛けたという逸話は、ドラマの中で「現場第一主義」を語った佑一郎君のイメージに重なります。
広井山脈
実績が評価され、東京帝国大学土木工学科(現・東大工学部)の教授に推挙された広井は、20年間で600人近い人材を世に送り出しました。
関東大震災の後、帝都復興院土木局長に抜擢された太田圓三、橋梁課長に任じられた田中豊、台湾の灌漑水路建設で知られる八田與市など、、、
日本の近代土木を牽引し、海外にも飛躍したその優れた門下生たちは「広井山脈」とも呼ばれたそうです。
隅田川六大橋
その門下生の話になりますが、、、
帝都復興院の太田局長、田中課長の指揮の下、当時の先端技術を駆使し、全て異なる構造形式で架橋された隅田川六大橋は、私も実際にトコトコ歩いていますので、遠からぬご縁を感じます。
(Webより)
下流側から順にーーー
相生橋
六大橋の中で唯一、平成に架け替えられました。
2023年3月撮影
永代橋
大正15年竣工の鋼ゲルバー式タイド・アーチ橋。震災復興の象徴として「帝都東京の門」と呼ばれました。
2023年9月撮影
清洲橋
昭和3年竣工の自碇式鋼鉄製吊橋。
当時、世界最美の橋といわれたケルンのヒンデンブルク橋を模した姿は「震災復興の華」と呼ばれました。
2022年12月撮影
蔵前橋
昭和2年竣工の鋼アーチ橋。
当時としては奇抜なアーチ橋造りで、幕府の御米蔵をイメージして黄色に塗装されたそうです。
2023年5月撮影
駒形橋
昭和2年竣工の鋼アーチ橋。
バルコニーや橋灯・高欄などのデザインはヴィクトリア調を模しています。
2023年6月撮影
言問橋
昭和3年竣工の鋼ゲルバー桁橋。
従前は渡し舟があった場所に、震災後初めて架橋された復興橋です。
2023年8月撮影
橋の写真は全てトコトコ散歩から。
🚶♂️
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昭和3年10月1日、
広井は、狭心症により自宅にて急逝しました。
享年65歳。
札幌農学校の同期生であり、同じクリスチャンとして生涯親交を深めた内村鑑三が弔辞で述べた以下の言葉は、広井の土木技師としての生き様を言い尽くしている様に思います。
「廣井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました。」
「『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深い心配があったのであります。そしてその良心その心配が、君の工学をして世の多くの工学の上に一頭地をぬきんでしめたのであります。」
「君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆とを永久に益したのであります。」
誠に、、、
この時代の人物は、敬服すべき傑物揃いです。
故郷、佐川町に建つ広井の銅像 (高知新聞Webより)
本日もご訪問頂きまして有難うございました。