惨獄死 第四回
左遷の巻
秦の時代の流刑地と関中王劉邦
昔、周末の戦国時代、いわゆる春秋戦国時代、秦がまだ王国だった当時、中華の大陸の西北に位置する秦王国の南に、未開の領域があった。西北の秦の南、すなわち中華の大陸の西南である。この地は、古くから蜀という地名で知られていた。秦では、罪科のある者が刑罰としてこの地に送り込まれ、居住を余儀なくされていた。いわゆる流刑地である。峻厳な山間の地であり、もとより人の手のついていない、この未開の土地を開発するという労働刑を、罪人としてこの地に送り込まれた者たちは課されていたわけである。
時代はくだって秦帝国滅亡後の中華世界。秦を滅ぼした項羽が、秦滅亡直後の論功行賞の場で、秦滅亡にあたって大功を立てた劉邦に対して、関中王に封ずとの処遇であった。“関中”とは、南鄭(漢中)の南に位置し、四囲を山岳で囲まれた地形の土地、蜀の別名であった。項羽は、劉邦が強大な権限を持つことを警戒し、この地に転封することによって、劉邦を監視することとしたのである。
蜀は、中華の大陸の左に位置する。秦の時代には、この地は流刑地であり、のちには劉邦がその勢力を削ぐ目的で転封された地でもある。これらのことから、「左に遷す」とは、流罪や降格といった否定的な言葉を意味する語彙となった。これが、左遷という語の由来となった、といわれている。
左遷の巻
秦の時代の流刑地と関中王劉邦
昔、周末の戦国時代、いわゆる春秋戦国時代、秦がまだ王国だった当時、中華の大陸の西北に位置する秦王国の南に、未開の領域があった。西北の秦の南、すなわち中華の大陸の西南である。この地は、古くから蜀という地名で知られていた。秦では、罪科のある者が刑罰としてこの地に送り込まれ、居住を余儀なくされていた。いわゆる流刑地である。峻厳な山間の地であり、もとより人の手のついていない、この未開の土地を開発するという労働刑を、罪人としてこの地に送り込まれた者たちは課されていたわけである。
時代はくだって秦帝国滅亡後の中華世界。秦を滅ぼした項羽が、秦滅亡直後の論功行賞の場で、秦滅亡にあたって大功を立てた劉邦に対して、関中王に封ずとの処遇であった。“関中”とは、南鄭(漢中)の南に位置し、四囲を山岳で囲まれた地形の土地、蜀の別名であった。項羽は、劉邦が強大な権限を持つことを警戒し、この地に転封することによって、劉邦を監視することとしたのである。
蜀は、中華の大陸の左に位置する。秦の時代には、この地は流刑地であり、のちには劉邦がその勢力を削ぐ目的で転封された地でもある。これらのことから、「左に遷す」とは、流罪や降格といった否定的な言葉を意味する語彙となった。これが、左遷という語の由来となった、といわれている。