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歴史Blogを志向しています。このBlogのSite Masterの名前は、高木紀久です。

呉起戦記 -三-

2016-07-30 20:06:56 | 歴史

呉起戦記



はたして、そののち、敵軍到来の報が、魏国内を駆け巡った。隣国の秦が、軍旅を発し、魏との国境線の付近にまで迫ったのである。その数、五十万。騎馬隊、甲車隊、強弩隊、歩兵隊、輜重隊、そのいずれもが、手柄を立てない間は、生きて国に帰らじ、と気勢をあげる者ばかりである。

呉起戦記 -二-

2016-07-16 20:14:03 | 歴史

呉起戦記



魏の文侯(呉起の主君)は、ある時、呉起を呼んで、今後将来、他国が攻めてきた場合の対処策について、聞いた。
呉起、独白して曰く、
「人器、一長一短あり...。」
ややあって、応じて、曰く、
「いいでしょう。私(わたくし)めに、先の戦いで、功のなかった者たち(三品の者たち)をお貸し下さい。いざ、事有らば、彼の者たちの力をもって、必ずや、敵勢を大破してごらんにいれましょう。」

呉起戦記 -一-

2016-07-12 20:44:18 | 歴史

呉起戦記



魏の文侯(呉子=呉起の主君)は、先の戦(いくさ)に参戦した者たちに対し、宴席を設けて、その労をねぎらった。即ち、最も戦功のあった者を上客(じょうきゃく)、次に手柄のあった者を中客(ちゅうきゃく)、戦果のなかった者を下客(かきゃく)とし、それぞれ、一品(いっぴん)、二品(にひん)、三品(さんぴん)、の礼をもって、もてなしたものである。

呉子 ~治兵と統兵~

2016-07-08 20:41:41 | 歴史

呉子


治兵と統兵


統兵(兵を統べる)

兵を統べる。兵を統べるとは、どういうことだろうか。兵を統べるには、まず、軍団をいくつかの部隊に分割し、各部隊ごとに、それぞれの指導者を配置することである。百人からなる部隊には、百人の部隊をあずかる卒長(軍曹)を配置する、千人からなる部隊には、千人の部隊をあずかる旅長(大将)を配置する、一万名からなる師団は、一万名の師団をあずかる師将(元帥)が統率する、という具合である。次に、命令系統である。まず、一万名をあずかる元帥(師将)が、それぞれ千人をあずかる大将(旅長)に命じる。次に、千人をあずかる大将(旅長)が、それぞれ百人をあずかる軍曹(卒長)に命じる。最後に、百人をあずかる軍曹(卒長)が、それぞれの部下である士卒に命じる。こうすることによって、一万名の全軍を指揮する元帥(師将)は、いちいち、ぼう大な員数に上る部下の全員に下知を下すことなく、わずか十名の大将(旅長)に下命を発令するだけで、全軍に命令が行き届くのである。こうすることによって、元帥(師将)は、あたかも己が股肱を駆使するごとく、軍団を制御することが可能となるのである。これが兵を統べるということである。

治兵(兵を治める)

兵を治める。兵を治めるとは、どういうことだろうか。兵を治めるには、まず、軍隊内の法律を厳正化することである。法を厳正なものとし、軍内の綱紀の引き締めを図るのである。法の厳正化とは、即ち、功ある者には、重賞をもって報い、罪ある者には、厳罰をもって臨むということである。こうすることによって、父は子を子と思わず、子は父を父と思わず、軍内の全ての将兵が、私心なく公役に服し、行動は迅速に、判断は賢明に、となる。こうすることによって、組織は秩序によって整合化が図られ、兵の士気は高く、軍隊の強大化が図られるのである。これが兵を治めるということである。
(呉子 統帥篇)