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歴史Blogを志向しています。このBlogのSite Masterの名前は、高木紀久です。

王基(3)

2024-11-02 22:11:11 | 三国志人物列伝
王基


王基(AD190~AD261)。青州東萊郡曲城県の人。字(あざな)は伯輿。魏の将軍、官僚。叔父の王翁を養父として生長する。王淩を補佐し、能く献言した。王淩は、善政を敷いたことで名声を得たが、王基の補佐によるところも大きかった。王朗に中央に召喚されそうになるが、王淩に阻止される。さらに今度は司馬懿によって中央に招聘されると、これに応じることとなる。魏の二代皇帝(明帝)曹叡に対し、宮殿の造営に関して諫言している。曹叡の没後、曹爽の属官となる。魏の滅亡後は、司馬氏にも仕えた。司馬師に書簡を送っている。毋丘倹の乱を鎮圧するのに功があった。諸葛誕の反乱に際しては、呉の朱異も来襲してきていたが、軍を移動させるのではなく、寿春の包囲を堅守するよう進言する。司馬昭は、これを容れた。司馬昭は、自身の御林軍にも軍内での指示は王基に従うよう命じた。はたしてこれは奏功し、諸葛誕の反乱は鎮圧された。司馬昭は、王基の機知に富んだ戦略をたたえた。鄧由の偽の投降を看破している。晩年もその計略は衰えることがなかった。陳寿は、王基を賞している。趙雲にも匹敵する大英雄であった。

王基

2024-10-27 20:50:56 | 三国志人物列伝
王基


正史三国志魏志に記載がある。もともとは北部の郡県の田舎町に父母とともに暮らしていたが、学業成績が優秀であったことから認められて下級官吏として取り立てられる。父母に対して孝行であり、孝心が高く、また文武両道に秀でる。公務に対して真面目で、業績内容が良かったことから、とんとん拍子に出世していった。やがて、その名は、中央官庁にも伝え聞くようになる。そして、その名声は、ついに王朗や司馬懿といった超大物の耳にも入るようになった。彼の存在は、王基を自分の直属の部下にほしい王朗と司馬懿の間に角逐を生じさせるほどであった。王基は、高級官僚として、魏での立身出世を果たしたのであった。尤も、王基自身は、孝心に篤く、また、謙譲な性格であったため、自身の栄達や出世に無頓着なようであったが。

陳震

2024-10-23 22:30:54 | 三国志人物列伝
陳震


正史三国志蜀志(列伝)にその名がある。もともとは、劉表配下の内務官僚。曹操南下にともない、劉表が死去すると、当時、亡命の客将として新野(荊州北部)に居た、劉備に従い、同僚の伊籍らとともに新野を脱出する。以降、劉備と行動をともにするようになる。赤壁後、劉備が蜀攻略のために親征すると、龐統らとともに、これにも随行する。劉備の没後も蜀漢帝国に仕えた。最終的な身分は、尚書令。諸葛亮の命で、外交の使者として、同盟国であった呉に派遣されるが、具体的にこの時の外交交渉の内容についての記述は、ない。

高覧

2024-10-16 20:01:36 | 三国志人物列伝


高覧


高覧(生没年不詳)。袁紹軍の将軍。張郃とは互角という。官渡の戦いで、曹操の留守を、同僚の張郃とともに狙うが、曹洪の守備を破れず、張郃とともに降った。歴戦の勇将であり、許褚とも互角に渡り合っている。曹操配下では、偏将軍東萊侯。