忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

金美齢先生と写真撮ったお!(*´ー`*)ウットリ

2007年11月14日 | 過去記事
■2007/11/11 (日) 金美齢先生と写真撮ったお!(*´ー`*)ウットリ 1

『金先生、テレビで見てたら、私と同じくらいの体格かと思ってましたよww』

「あなたほど、大きいわけないでしょww」

講演会後の懇親会で写真も撮らせてもらった。あきらかにミーハー右翼、虹の軍団ww

もったいないから講演の内容は控えたいところではあるが、金美齢先生から「多くの日本人に伝えて欲しいのです!」と言われては仕方あるまい。少し書こう。

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色んなキーワード、それも大切なキーワードが、あの小さい体駆から発せられた。

その中から、私はこの言葉を取り上げてみたい。

「台湾は私。私は台湾。」

至言である。

当事者意識という言葉だけでは、到底表現できないほど深みがある言葉だ。

責任・・・誇り。覚悟、使命感。感動、危機感。伝統、歴史。

色んなものが混ざり合い、それらが優れたバランス感覚で組み立てられ、磨かれた結晶であろう。

覚醒した「国家観」を持つと、その人自身が「国柄」として振舞うことを意識しはじめる。個人がどう感じるかではなく、自分の国がどう思われるのか・・・行動規範がそこに到る。

良いも悪いもひっくるめて、それが自分だと受け止める。自分の問題であると認識するのだ。そこに良いも悪いも、損も得もない。ただ、自分自身に胸を張れるための努力に邁進する。客観的な見地から、もしくは巨視的に物事を捉える。

「これはダメだけど好き。」
「ここだけは譲らない。」
「これだけは護りたい。」

ナショナリズム(国家主義)の前にはパトリオティズム(愛郷主義)があるはず。

自省の念は潔く美しい。それは自らを形成する過程において、また、成熟するために必要な概念である。そして、自己嫌悪が不健全な状態であるように、先ずは己を認め、且つ、それを愛する精神こそが、人格形成の基盤となる。

日本人にはこれが決定的に欠けているのだ。

多くの日本人が、国内の反日日本人や特定アジアの反日国から求められることは、反省ではなく嫌悪感である。

「日本という国は、唾棄すべき愚かな国である。」

と徹底的に嫌悪せねば「認めてもらえない」のである。

そしてその左派から求められる嫌悪感が生み出すモノとは一体何だったのか。

「2」へ

■2007/11/11 (日) 金美齢先生と写真撮ったお!(*´ー`*)ウットリ 2

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自己否定である。

大嫌いな自分を「処理」するためには「否定」するしかない。否定することで安堵感を得る。愚かな自分を叩きのめすことは、自己嫌悪という不健全な状態からの当然の帰結なのである。そこに「良い面もあった」など入り込む隙間もない。認めれば自己崩壊する。

すなわち、

「私は日本ではない。日本も私ではない。」

という、個人だけが摘まみあげられた精神状態になったのだ。

左派の人格崩壊、倫理観の破壊された意味不明の自虐史観はそうして構築されてきた。

目をキラキラさせて思考を停止するか、それとも「今の俺たちには関係ない」とシニカルに構えるか・・・狂った使命感に燃えて運動家になるか・・・

いずれにしても目も当てられない状況に陥るのだが、看過できないのはやはり、

全部わかって、意図的に行う者

である。

「日本人民共和国」を作るために、日々、工作活動に勤しんでおられる狂った方々。

日本人から「当事者感覚」を奪い去るために、罪悪感を刷り込んでねじ込んで、精神分裂よろしく、自分が大嫌いだという嫌悪感を持った「自分だけが大切人間」を大量に生産した。その自己矛盾極まりない「身勝手人間」たちは、子供の頃から「かけがえのない自分・自由な生き方・平和な環境・平等な社会」などの事が「あって当然」だと教え込まれる。

それは「つくるもの」でもなく、元々あるものなのだと信じ込む。それは「守るもの」でもなく、元々あり続けるものなのだと疑わない。そして、それらが「なぜあるのか」についても「考えないように(考えられないように)」脳味噌の一部を持っていかれ、心から真を抜かれる。これを金美齢先生は「小粒の日本人」と喝破されたのだ。

なんで正しいことを選択せんのだと、
なにをいいようにされて喜んでいるのかと、
なにを適当にあしらわれて悔しがらんのかと、
国土や国民を切り取られて、なんで怒らんのかと、

貴様ら、そんなことでは国がなくなるぞと喝を入れてくれたのである。

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「私は日本。日本は私。」

堂々と胸を張れ日本人。

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