忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

人間とケモノの境界線を暈す奴らを吊るせ

2008年06月10日 | 過去記事
■2008/06/10 (火) 人間とケモノの境界線を暈す奴らを吊るせ1

もう、あちこちで書かれているだろうから、私は少しだけ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080608/crm0806081951028-n1.htm
<【秋葉原通り魔事件】群衆が津波のように逃げまどった…凶行再現>

休日の「歩行者天国」である。秋葉原。私も一度だけ行ったことがある。

あのような場所で、あの凶行を考えるだけでも背筋が凍るというものである。

もう、安心して街を歩くことすら危険だということだ。それを常に「可能性として認識しておく」ということが前提となる。「安全と水はタダ」だと平和ボケした日本人が、いよいよ「犯罪に出会わなかった」ということは、実は「めずらしいこと」なのだと認識する日まであと少しだろうか。

私も防犯グッズは所持しているし、自宅の防犯にも金をかけているし、家族にも少なからず意識させている。だから、私は誰がなんと言おうとも、私の家族の「連絡がつかない状態」というものは許さない。

理由を問い詰め、ふざけたものなら改善させる。冗談などかけらも発しない。甘い顔もしない。顔色を変えて怒声を浴びせる。

「子供が門限を守らなくてねぇ~~」

というお父さんは、一度「最悪の想像」をしても同じセリフが吐けるか考えたほうがいい。偉そうだが、自分の役割は「金持って帰るだけ」だというに等しい無責任な放言であると言っておく。

もちろん、今は「大袈裟にww」とか「パチンコ屋さんだからなぁ」と言われる。家族もそうだった。妻など、

「日常、普通に生活していたら、そういうときもある!」

と反論してきたものだ。その都度、徹底的に話し合う。事例をあげて危険を訴える。そして、その際、私の力など「何の役にも立たない」のだと説明する。ともかく「狙われないように」にしながら、安全を意識することだと真剣に語る。

「2」へ

■2008/06/10 (火) 人間とケモノの境界線を暈す奴らを吊るせ2

当然だが、家族は私の「生きる意味」であり、それを護るのに「たぶん、大丈夫だと思う。」というレベルで思考をスタートさせるわけがない。昨日も妻が私に連絡せず、私の帰宅時間近くに「買い物に出かけた」だけで、私の叱責は深夜に及んだ。

「すぐ戻るつもりだった」と言う。しかし、時間は22時である。考えにくいが、どうしてもその時間、どうしても必要であるものが発生したとき、我が家のルールでは「妻に倅がついて行く」か「倅だけで行く」か、もしくは「私が行く」である。このルールを破った時、私は家長として「そのようなこと」が二度と起きないように正さねばならない。

普段はなにかと、なんでも言い返す妻も、このときばかりは平謝りで反省している。言い返すには容易い事柄であるも、妻は私の真剣さを思い出す。言い訳は一切聞かない。

人は「事の重大さ」を忘れてしまう。

そう。自動車がそうではないか。

もしかすれば「人をひき殺すかもしれない」もしくは「自分も同乗者も死ぬかもしれない」と理解しながら、気を抜いた運転ができる生き物である。「酒を飲んで運転する」ような奴は論外であるが、それほどでなくとも、無意味に速度超過したり、無謀な運転をしたりしているではないか。自分自身も含めて、私は、そういう意味で人間を信頼していない。

-

産経新聞の記事からは一点だけ引用させてもらう。

<警察官から警棒で一撃されたとみられる加藤容疑者は、逃げるようにして、中央通り沿いにある電気店の間の路地へ。警察官が「待て、待て」と言いながら後を追った。>

私も報道を見たとき、このキチガイが頭から血が流れているのを見て「警棒喰らった」と判断した。コブができて、そこから出血していた。瞬間、「なぜ、発砲しないのか?」と、当たり前の疑問が浮かぶ。トラックから降り、ナイフで警官を刺し、叫びながら走る犯人に「警棒が当たる距離」に警官がいたわけだ。

「3」へ

■2008/06/10 (火) 人間とケモノの境界線を暈す奴らを吊るせ3

私も同じものを持っている。三段式の特殊警棒。長くはない。

距離、一メートル弱。頭に警棒喰らわせることができて、ピストルで膝を撃ち抜くことができないはずがない。恐らくは現状把握できてなかったのだろう。無線で確認しながら駆け付けた警官ではなかったのだろう。ともかく「何か」が起きているから急行した。そしたら、眼前にいた。そして――――警棒を構えたわけだ。

このキチガイがピストル持ってたらどうなったのか?

あの報道で何度も流される「警棒を構えた警官」も犠牲になっていた可能性はふんだんにある。もう、いい加減気づいたらどうだ。もう、いい加減、マスコミや人権屋など、その場に置いてモノを考えるべき時に来ているのではないか?

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たとえば、こういうこともそうだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080609/crm0806091940038-n1.htm
<【秋葉原通り魔事件】凶器のダガーナイフ 高い殺傷力>

もう、

「なぜ、このような凶行に及んだのでありましょうか?」

が通じない時代になったと気づいたらどうだ?

もう、こんな化け物がウヨウヨしているのだと認めてみればどうか?

<ダガーナイフは、有名なゲームソフト「ドラゴンクエスト」などにも“アイテム”として登場、ゲーム好きの面を見せる加藤智大容疑者(25)をひきつけた可能性もある。>

ない。

関係ない。

それに、

どうでもいい。

このようにくだらない憶測が、周囲に潜むキチガイの選別に弊害だとは思わぬか?「ゲームやアニメが好きな人」を肯定する気も否定する気もないが、もう、そろそろ、そんな頭の悪い話は止めて欲しいものだ。

犯人がトラックで突っ込んだからか、「犯人はF-1にも興味があったという。」などという報道も散見するが、まったく、正気なのか?

もはや、残念ながら、

「そういう時代になった」

と自覚しよう。そして、自衛をちゃんとしよう。

山の中で遭難しているのと同じだ。ピストルを所持していて、凶暴な熊に襲われたら警棒を出すのか?撃ち殺したとして「動物愛護なんちゃら」から抗議されたら反省するのか?

「4」へ

■2008/06/10 (火) 人間とケモノの境界線を暈す奴らを吊るせ4

私と妻が何度か遊びに行った「京都府動物園」でも、飼育員さんがトラに襲われたという事件があった。そのわずか数か月前、まさにその檻の前で、妻が「このトラ、イライラしてるんかなぁ?」と言っていたと思いだして、すぐに妻に連絡したが、ならば、妻はこの場合「いつかやると思った」というのか?このトラに弁護士はつくのか?

人間とは、常に人間なのではない。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080608-2810266/news/20080609-OYT1T00170.htm
<「秋葉原で人を殺します」加藤容疑者、携帯掲示板に予告>

「ヒト」がまだ山野を駆けまわっていた時代、「腹が減った」という理由で「生肉」を喰らっていた時代、こいつらが「人間」を襲ったからといって不思議がる阿呆はいるか?

人間とは、人間になるのである。

そして、人間であるという状態を維持しながら生きているだけの話だ。

それは、理性からなる自制心が・・・と説明するまでもないのだ。そして、この悲しい時代、その「化けの皮」は剥がれやすくなっている。剝ぎとりたくて、剥ぎとってみたくて仕方がない「ヒト」がいる。ただ、それだけだ。「それが」増えたのだ。

ケモノは撃ち殺すしかない。

その理由はひとつだけだ。

それは、ほら―――――

人間を殺すからだ。

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