中部大学総合工学研究所教授、武田邦彦氏の著書の中に「良い電気・悪い電気」が出てくる。武田氏は「電気は電気」だとしながら「ハイブリッドカーの電気は良い電気で、電球の電気は悪い電気」のように扱う偽善を批判している。電気自動車も充電せねば動かないならば、そのエネルギーとなる電力は発電所から来るのであるから同じことではないか、という主張である。ま、これにも異論があって、環境やエネルギーについての論争は尽きないわけだが、確実に言えることは「地球の観点」からすれば、人類の存在は「悪いこと」だという結果は明々白々の事実である。イオンシネマのCMには必ず、荒れた大地をイオンが緑いっぱいにしました、という環境CMが流されるが、アレと同じようなモノで、日本全国津々浦々に巨大なイオンショッピングセンターをぶっ建て、広大な駐車場を完備して交通弱者を蔑ろにしながら、周囲の商店街などを壊滅させて「シャッター通り」を形成するのであるから、そこには偽善と金儲けしかないというわけだ。
例えば石油もそうだ。石油でパトカーも動けば、強盗犯の逃走車両も動く。救急車も動けば戦車も動く。様々な製品を生み出し、我々の生活を便利で豊かにすれば、核弾頭ミサイルの固形燃料にも化ける。要するに「石油」に良いも悪いもありはしない。ただ、使う側の「良い悪い」があるだけだ。つまるところ、人間が使う「モノ」に関して言えば、それが「人間が作ったモノ」であっても「最初からあったモノ」であっても同じことで、善悪を問われるのはすべからく使用者の心根次第、ということが言えると思う。
田嶋陽子や福島瑞穂が嫌う自衛隊という実力組織だって、その軍事組織や使用する武器兵器は当然ながら悪用可能だ。携帯電話も使用者のモラルによるところが大きい。酒でもタバコでもマナーをちゃんと守る人にとっては趣向品だが、扱う人間が馬鹿だと迷惑極まりない存在と堕す場合がある。インターネットなども顕著な「モノ」だ。最近では、一色氏のように「日本の国のため」に情報を公開するツールとして使われたりもした。扱う人間次第で便利な情報ツールとなるか、ただの落書きになるか、あるいは犯罪に使用されたりもする。包丁やチェーンソーなども同じく、便利に使えば問題ないが、扱う人間によっては殺人の凶器ともなる。これは他にもたくさんある。
「モノ」には善悪の可能性が等しくある。それは「殺人」でもそうだ。オノレの身勝手で何ら関係のない人を殺すのはよろしくない。しかし「カルネアデスの板」に言われるように「仕方なのない場合」もあるとされる。これが「仕方がない」かどうか、果たして「仕方がない」とはどのような場合をいうのか、という疑問を松本清張は「カルネアデスの舟板」という小説で、時代に阿る左翼的な唯物史観で優雅に暮らす教授が、右翼的だった恩師の左派転向による危機感からの保身として書いてみせた。
世界がクリスマスで浮かれている25日、パキスタン北西部部族地域バジョール地区にある世界食糧計画(WFP)の食料配給所ではプルカを着た「女性?」が突如、検問所周辺に2発の手榴弾を投げた。その後、その「女性?」は避難民の列の中で爆弾を起爆させて自爆。45名が死亡、100名以上が負傷した。大量殺人だ。普通、どこの国の常識でも「殺人」はよろしくないこと、とされているが、この「女性?」はタリバンでは英雄とされるだろう。つまり「正しいこと」とされる。そして、それはタリバンだけではなく、言論の自由が保障されている国々、例えば日本であっても「アメリカの暴力にはテロリズムで対抗する他ない」という意見すらある。アメリカ人は馬鹿だから己の戦争犯罪である「日本民族大量虐殺」も忘れて「一般市民を巻き込むテロは許すまじ」と気勢を上げるが、国際社会も今はまだ、テロリストよりアメリカのほうが怖いから、そうだそうだ、とやっているに過ぎない。だから「アメリカはもう怖くない」と見抜いている国は同調しない。
また「東京裁判」を持ち出すまでもなく、今現在でもこの世界では「良いも悪いも」その立場によって論ずることが許されている。アメリカが原子爆弾投下も無差別都市空爆も日本兵捕虜虐殺も忘れて「世界の警察」と僭称することが出来るように、コロンブスからインディアン虐殺、奴隷社会に差別社会、各地への武力を背景にした併合にハワイ侵略、フィリピン人の虐殺、朝鮮戦争からベトナム戦争、イラク侵略なども正当化しながら正義を語っても良いわけだ。アメリカが支那に対して「脅威」だというのは、実は差別である。
ところで、我々の身の丈に合わせて話をすると、例えば「虐め」というものがある。これは「良いか悪いか」はともかく、先ず、大前提として「ある」ことを認めるところからしか話は進まない。これを「なくす」という人とは話にならない。社民党と安全保障の問題を議論できないのと同じく、無責任な不可能を言う人とは現実的な話ができないからだ。「虐め」は絶対になくならない。人類が地球に存在する限り、地球環境を汚染するのと同じく、絶対に「回避不能」なことである。
大阪府の茨木市にある追手門学院大学で、20歳の在日インド人が「虐めを苦にして」自殺したという。わかっているのは複数の男子学生が、この二十歳のインド人学生に対し「ビンラディン」と呼んだり、人前でズボンを脱がされたり、いわゆる「パシリ」にされたとのことだ。アラブ人とインド人の区別がつかん阿呆学生は死ねばいいが、私が驚いたのはカースト制度がある国の人間が「虐め」を苦にして自殺するという発想である。
インドのカーストとは宗教的な身分制度のことだと思われている。学校ではそう習ったはずだ。いわゆる「バラモン(僧侶)・クシャトリヤ(王侯・武士)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)」の四階層をいうが、これは日教組の教師が嬉しそうに「士農工商」をいうほど悪名高いモノとは教えてくれなかった。しかしながら、このカーストも他の多くの差別と同じく、元々は「肌の色」からきていたりする。
現在の日本で「ドラヴィダ語」を話せるのは鳥肌実中将だけであると思うが、アーリア人がインドに侵攻してきたときには、その「ドラヴィダ族」がいた。肌が白いことしか威張れないアーリア人が作った制度がそもそもの始まりだ。また、インドには職業別でも階級社会になっていることも有名だ。「ジャーティー」という。このヒエラルキーは、なんと1000種類を超える。下には下がある、わけだ。そのインドの「自殺率」をみると、日本やアメリカ、支那朝鮮よりもずっと下の47位となっている。階級制度、身分差別が直接、自殺の要因にはならないという証左だ。あるいは「国の豊かさ」も関係ない。ついでに福祉制度も関係ない。インドでは「物乞い」にも階級制度がある(笑)。
そんな差別の国から来た青年が、この日本では「虐めを苦に」して自殺する。こういうと左のほうから「日本人の差別感情はそれほど酷い」と聞こえてきそうだが、いくら「日本人の虐めの才能」を褒めてくれたところで「虐め」はなくならない。そしてまた、この「虐め」にも良いも悪いもなく、他の「モノ」と同じように「使用者責任」があるだけだ。
「虐め」でも「苛め」でもいいが、要するに「苛烈に虐げられる」ということも「悪い」と決めつけるのは進歩的ではあるが(笑)、事の問題を先送りにして本質を見誤る可能性がある。言うまでもなく、人は「苛烈に虐げられる」ことで強くなることがある。もしくは「他者への配慮が出来る人格者」になる可能性もある。一廉の人物とは往々にして、それなりに「苛烈に虐げられた」経験があったりもする。それは「与えられた環境」を受け入れることが出来るかどうか、あるいは、それを「乗り越えるべき試練」だと解釈できるかどうか、である。人は「良くも悪くも」生きてゆかねばならないのである。
先ほどのインド人青年が日本に留学せず、祖国での厳しいカーストに身を委ねるしかない場合、その結果が自殺だったとは誰にも言い切れない。また、日本に留学できるほどの裕福な家庭ならば、祖国では差別などされたことがないどころか、ヒエラルキーの頂点近くに坐していたかもしれぬから、日本に来て阿呆な学生から「インド人もびっくり」とか「カレー買って来い」と言われただけでショックだったのかもしれない。
不謹慎の誹りを覚悟して言うが、このインド人青年も、せっかく大阪にいたんだから「インド人はいつもびっくりしていない、おわっ!びっくりした!」とか「オレな、カレー嫌いやねん。アレルギーやねん」とか言えればよかった。異国の地で自殺するくらいならば、大学生にもなって外国人を虐めるような幼稚な連中、密かに口に含んだスピリタスを吹き付けてライターで点火し、リアルに「ヨガ・ファイヤー」でも喰らわせればよかった。
世の中には「虐め」がある。何が面白いのか、集団で一人を「自殺したくなるほど」追い込む輩はいる。これは現実の世界に「いる」のである。しかし、同時に「虐めない」人もいる。これも確実に「いる」のである。良いか悪いかではなく、ただ、そこに「ある」のだ。これは公害や戦争、病気や貧困と同じく、人類が成長進化することで減少させることはできる。もしくは、その被害を最小に抑えることもできる。管直人の「最小不幸社会」であるが、いずれも「ゼロに限りなく近づける」ことを目標とする社会をいう。
しかし、これを「なくそう」とするお花畑は危険なのである。「平和主義者が戦争を起こす」というのはチャーチルに言われずとも周知であるが、これも「戦争に良いも悪いもない」という観点からすれば、とんでもなく危険な発想であるということもわかる。
戦争とは「国と国の喧嘩」でもなければ「町の喧嘩」でもない。だから目が合った足踏んだでは始まらない。武力戦争の前には必ず「経済戦争」が紛れ込んでいることも文明国に住む国民ならば知っていなければならない。また、ひと昔前なら財政の悪化が著しくなることも危険信号だった。貧富の差が広がることも懸念材料だった。宗教もそうだった。つまり、日本に限定される「ど左翼」はこれらを全て排除しようとする。
それは、戦争を防ごう、ではなく「戦争を無くそう」とするからだ。一部の確信犯的な社会主義者、コミンテルンの一味などは別として、それらの傀儡と化している「お花畑」どものモチベーションは水洗便所のように綺麗なモノだ。雲に乗れるほどだ。だから「お花畑」どもは自分が間違っている、など微塵も疑わない。間違っているのは「戦争はある」という方であり「主権国家に軍事力は必須」という連中が「絶対に」間違っていなければならない。田嶋陽子を見ればよくわかる。そういうところで何年かフラフラしていると、あのような自信満々の阿呆になれる。そして「自分は絶対に正しい」ということは思考停止を意味する。これが怖い。
これは「虐めはある。絶対に無くならない」という連中も同じく映る。日本限定の「ど左翼」は徹底的に現実をみない。見なくても生きて来られたからだ。あるいは「人が人を信用しなくてどうするのだ!」と言いながら自宅に鍵をしてセコムをする自己矛盾を放擲したままだからだ。だから、ああいう連中は自己欺瞞が過ぎるし、不勉強で偽善者が多いのだ。田嶋陽子などを見ればよくわかる。
ま、よく考えてみるに、だ。
「信じることとは疑うことからしか生まれない」わけだ。いや、違う、人は人を無条件に信じることが出来る、信ずる者は救われるのだ、という人は、私がロープをセッティングしたバンジージャンプで飛べるかどうか問うてみたい。私は素人だし、実にいい加減な性格だが、それでも私を信じて飛んでくれたら、私はきっと喜ぶだろう。
また、その条件で「飛べる」という人がいたとすれば、その人は「私という人間」を知っているはずだ。数人が並んだ状態で「誰にロープのセッティングをしてもらいますか?」と問われたら、最終的には「知った顔」を選んでしまうのではなかろうか。無論、その「知った顔」が自分の仇であるなら、そんなの誰も選ばない。その仇が「バンジー歴5年」とかでも、やっぱり不安ではないか(笑)。
人には「信用するに足る根拠」もあるし「信用する優先順位」も厳然としてある。理由は様々かもしれぬが、そこは選ぶし、考えるのが普通だ。私がセコムを信用して金を払うのは、セコムがセキュリティ会社だからだ。セコムの担当社員ではない。会社の看板だ。得体のしれぬセ・コームという外人になら自宅の鍵は預けないのである。
日本限定の「ど左翼」どもは、これをダメだとやるから阿呆だと思われる。自分は飛ばないのに、である。自宅は鍵をするのに、である。だから日教組などの無責任な「ど左翼」は、この国の子供から「競争」を取り上げたがる。それは本気で「競争は戦争につながる」と信じている馬鹿もいるからである。もっといえば「有能な国民が増えれば経済が発展する。経済が発展すれば国同士の衝突が起こる。とすれば、それは戦争につながる、あわわ・・」とでも考えていそうである。
また、日教組などの無責任な「ど左翼」らは、子供らから個性を取り上げる。「他と違う」ことは個別性を強調して差別や虐めを助長する、と本気で考えている節がある。安易な「弱者」のレッテル張りもそうだ。単純な「可哀そう」も同じく、運動会の教室で弁当喰わせるのは「親のいない子供」に配慮しているそうだが、その子供が卒業しても日教組の教師は親にならないのである。「点数だけを競う勉強はダメ」だとして、試験の点数をつけず「グッド!」とか「がんばったね!」と書くが、社会に出ればその子供は「頑張っても褒められない」ことに戸惑うことになる。団塊世代のおっさんから「四の五の言わんで結果を出せ」とか「努力なんか誰でもしている、お前は阿呆か」と馬鹿にされることになる。
良くも悪くも――――あるものは「在る」し、ないものは「無い」のである。人類みな兄弟は「ない」し「地球平和市民」なども「いない」のである。国境は「ある」し紛争も「ある」のだ。差別も「ある」し、虐めも「ある」のである。そして、日教組などが「ない」とする日本の伝統は「ある」し、日本の正義も「ある」のだ。ま、良くも悪くも、だが。
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karasu
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