忘憂之物

だから、子供の日ではなく端午の節句である。

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「1」

「お父さん?子供の日は“ipod”が欲しいねんけど・・・。」

『なぬ?なぜゆえに“端午の節句”に物を買い与えねばならぬ?』

「プレゼント・・・」

『おまいは中学生にもなって、クリスマスと端午の節句の区別もつかんのか?』

「いや、でも・・・」

『柏餅が食いたい、とか、こいのぼりが欲しい、とかいわんかい。菖蒲湯はいりたい、とかな・・』

「え・・・と、じゃあ、柏餅食いたい。」

『コンビニで買って食え。おまいの小遣いでな。』

「・・・・・。」

言わせてもらう。

ガキを甘やかすでない。

ぬぁ~~~にが「ipod」かっ!!!

私など、中学2年のときに7万円以上もしたムスタングのエレキを自分で買ったぞ!!ガキは必要なもん以外は欲しがるでないっ!!自分で買えるようになれっ!我慢して我慢して、もうちょっとしたらバイトして、知らぬ大人からこき使われ、罵声を浴びて金を稼げっ!!

■倅が欲しがったら無条件で買い与えてよいものリスト■(※16歳まで)

1:書籍

以上。

妻にも倅にも言ってある。

『本だけは欲しければ言え。私の小遣い減らしてでも買ってやる。しかし、あとのものは少なからず検討する必要がある。それに、私の書斎にあるパソコンやその他のものの無断使用は禁止だが、書籍だけは持っていってよろしい。でも、必ず報告して返却すること。そして、感想を述べること。』

はっきり言って、他はあまりとやかく言わない。少々、遅くまで起きてゲームしていようが、テストの点数が壊滅的であろうが、通知表に並ぶ数字が駅前スロット店のようであろうが、とやかくは言わない。そして「聞いてきたこと」については全力で調べてでも答える。一緒に探す。ちなみに携帯電話はダメ。ガキには必要ない。まあ、大人にも必要ないがな。(※便利すぎ)

「2」へ

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「2」

そして大人にも子供にも有害認定の新聞の社説。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html#syasetu2
<こどもの日に―思い切って任せてみたら>

戦国時代、人質になった子供を「甘やかす」のは、その跡取を腑抜けにすることが目的であった。将来、敵となるかもしれぬ相手の子を阿呆ボンにしてしまうのである。

よって「ゆとり教育」などを推し進め、最大限に評価していた朝日の真意は用意に推知できる。

<良くも悪くも今時の子はメールに慣れ、文を書くことへの抵抗感が薄い。相手との衝突を招かないよう表現に気を配り、神経もこまやかなのだ。>

朝日よ。この「良くも」の部分を400字以内で説明せよ。私には「悪くも」しか思い当たらんのだが・・・?

<子どものためにといって自分の考えを押しつける大人こそ、実はひとつの価値観に縛られ、不自由なことが多い。>

朝日からすれば、私は「最悪のお父さん像」なんだろうな。押しつけも押しつけ、もう、押しつけることが仕事だもんな。「押しつけ屋本舗」ってな感じだな。すまんすまん。

それに「不自由」とはまた面妖な表現だな。

<せんだって行われた全国学力調査を自治体で唯一拒否した愛知県犬山市の教育委員会は、「子どもの学び合い」を唱えている。黒板を背に教師が教えるのではなく、子ども同士で教え合い、考えていく。ここには、子どもが自分で成長する力への信頼がある。>

学力調査を拒否するとは「不自由な教育委員会」だな、おい。

「3」へ

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「3」

ともかく本末転倒というほかないだろう。「学校」という公的な場で「授業」という必須課題を子供同士でさせてどうするのだ?それらは放課後などに「自発的」に行われるからこそ「自分で成長する」のであって、やらされているなら、単純に「気楽な授業」ということである。

なんでもかんでも相対化させて、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて、本来の意味を隠してしまう左派の手口であろう。子供たちは被害者であり、教師は職務放棄、もしくは職務怠慢であり、そんな教師からは教員免許を取上げるべきだ。

<先生が「静かに」と大きな声を出すことはない。子ども同士の会話が弾み、楽しそうだ。「不登校はゼロ」と校長が誇らしげだった。>

この陰に隠れている「優等生」には同情する。授業中に会話が弾むだ?ならば成人式でも弾むだろうな。弾みすぎて逮捕者も出るだろう。よかったな。「不登校はゼロ」だと?長期欠席は?転校生は?ったくよー。

< 「いまの子は夢がない」「覇気がないねえ」と言いがちな大人たち。でもそう嘆く前に、子どもが活躍する場を試しにつくってみませんか。意外なセンスに出くわすかもしれませんよ。 >

んで、また不気味な文章で日本の大人を売国モードに誘うか。

でもそう嘆く前に、子供が活躍できる場を試しにつくれだぁ?

でもそう偉そうに言う前に、「夢を与えて」「覇気がでるように」しませんか?朝日さん?

「4」へ

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「4」

最近、食卓に「消しゴムのカス」が落ちていることがある。私が不器用に指先で拾っていると、妻が慌てて拭き取りにくる。

「ごめんごめん、勉強しててん。」

倅が小学校のとき、私が家に帰ると妻が青ざめた表情で言っていた。

「この子、勉強が全然、ついていかれへんみたい。みてこれ・・・」

むぅぅううう・・・見事だ。見事に落第生だ。我が倅ながら見事なもんだ。

『大丈夫。ほっとけ。』

「・・・・うん・・・。」

中学生になってもそうだった。

「うわぁぁぁ・・・・・お、お父さん!!これ!!」

英語・・・・「15点」

『大丈夫。お父さんは7点やった。』

「な、7点??」

『うん。授業中も何やってるのか全然わからんかった。』

「英語の曲とか歌うやん?」

『意味はわからん。発音はいいと外人に言われたから、たぶん大丈夫。それに、英語なんぞ必要ならば覚えるもんであって、どっちでもいい。』

妻は心配していた。それは当然だし、私もそうだった。心配に決まっている。

だが、だからといって口うるさく「勉強しなさい!」と言ったり、慌てふためいて塾に通わせたり、家庭教師を雇ったり、というのは愚かな行動であるとも思っていた。

「命令してやらせること」
「烈火の如く叱りつけること」
「体罰も辞さず、絶対にやらせてはいけないこと」
「笑って済ませること」
「話して聞かせること」
「自分で気付かせること」

色々あると思う。親は責任をもってそれらを峻別し行動し見守る。

「5」へ

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「5」

もうすいぶんしっかりしてきた。

あとわずかな年数で肩を組んで酒を飲んでいるだろう。

語り合って笑っているだろう。

それにもう、ゲンコツで脅せることはないだろう。

親父の威厳を保つためには、道端のケンカのように的確な打撃を放つこともあるかもしれん。

もう「小遣いをやらんぞ!」という処罰も意味をなさなくなるだろう。

「お父さん?欲しいゲームがあるねんけど・・」とねだることもなくなるだろう。

こいつも年を取り、おっさんになるのだ。

そうそう。この間生まれてきた「孫」もな・・・。

倅は今、毎日、勉強している。受験生だから当然と言えばそれまでだ。

だが、私も妻もその努力の価値は知っている。その価値に気付くことを期待していたのだ。

「自発的」に勉強する倅を見ながら妻が言う。

「お父さんの言う通りやったわ。わたしはもう、不安で不安で・・・女はアカンなぁ・・」

『ん?ま、まあな・・・言うたやろ?大丈夫やって。自分で気付くからって・・な?』

ほっと胸を撫で下ろす仕草はしない。同調もしない。

「親」というものを、あえて「職業」にたとえるなら、それは「適性検査」もなく、「試験」もなく、「解雇」もなく、「評価」もない仕事であろう。常に暗中模索であり続ける。

膨大な過去のデータ-や市場データ-もあるにはあるが、様々なマニュアルもノウハウもあるにはあるが、それを鵜呑みにするわけにもいかない。その通りにいくはずもない。

「6」へ

■2007/05/05 (土) だから、子供の日ではなく端午の節句である。「6」

自分で考えて、一緒に考えて、同時に成功したり、失敗したりする。

泣いたり、笑ったり、怒ったり、悩んだり、傷ついたり・・・
喜んだり、悲しんだり、忘れたり、気付いたり・・・

すなわち、親も一緒に成長するのである。
                                                                           

やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとおさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

                                                                               

要約すると、それは「信じること」・・・いや、「信じ続けること」かもしれない。

お?倅が本を返しに来た。

まだ時間もあるし、感想を聞いてから、少し話しでもするか・・・。

『おう!どうやった?わからんこととか・・・』

「花山薫が未成年やのにお酒飲んでるな!」

『おう!少年誌やのに、バーボンガブ飲み未成年を描くとは勇気あるな!』

「んじゃね!!」

そ、それだけかい!!しかも「バキ」???

「信じ続けること」とは、それが叶うにせよ叶わぬにせよ「意味があること」である。
byガチコメ店長
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事