忘憂之物

男は黙って馬之助



昨年末、上田馬之助が亡くなった。12月21日。71歳だった。

1996年3月15日、仙台・宮城県スポーツセンターでIWAジャパンの春のシリーズ、最終戦が行われた。上田馬之助は若手の山田圭介選手と「画鋲デスマッチ」で対戦。5分54秒、血塗れの山田選手を体固めで破る。試合後、フレディ・クルーガ―というどこかで聞いた名前の覆面レスラーが乱入。時期シリーズは「上田馬之助VSフレディ」という「アングル(レスラー同士の抗争などのシナリオ)」が決定していた。しかし、この山田圭介選手との試合が、金狼・上田馬之助、最後の試合となる。

試合後、IWAジャパンのスタッフと選手らは現地宿泊せず、車3台で東京へと向かっていた。上田馬之助は宣伝カーを兼ねるワンボックスカーの助手席に乗車、運転していたのはIWAジャパン営業部の大盛一生さん(21歳)だった。日付が変わって16日、深夜2時頃、東北自動車道上り線の岩槻インター付近、後続車の「選手バス」がブレーキの故障で停車する。上田馬之助は連絡を取るため、後部座席にあった携帯電話を取ろうとシートベルトを外す。ワンボックスが路肩に止まろうと速度を落とした直後、大手運送会社の10トントラックが追突。トラックの速度は100キロを超えていた。

壮絶なる衝撃。190センチ110キロを超える上田馬之助はフロントガラスを突き破り、20メートル先のアスファルトに放り出される。運転席にいた大盛さんは頭蓋骨骨折で死亡。5時間後、病院で意識を回復した上田馬之助は「自分が死ねばよかったのに」と号泣する。

上田馬之助は命こそ取り留めたが「頸髄損傷」の重傷。プロレスどころか首から下が動かせない状態。一生車椅子での生活を余儀なくされる。馬之助は自暴自棄になる。指一本動かせない激痛、絶望的な将来。死の淵にあった金狼は声にならぬ声で「死にたい」と繰り返す。当時はまだ入籍していなかった「夫人」の恵美子さんも店をたたみ、看病に尽くすが、集中治療室の馬之助は「生気を失ったよう(恵美子夫人)」というままだった。

馬之助は「頸髄損傷による両上肢機能全壊、及び、両下肢機能全廃」と診断される。つまり、首から下が完全に麻痺。しかも激痛が伴う。内臓神経も損傷、血管の収縮にも異常をきたし、姿勢が悪ければ肺などに血が溜まり、脳は貧血状態に陥る。想像を絶する辛さだ。

恵美子夫人も大腸癌の手術をしたばかり、夫人は「この人と一緒に死ねるなら」と処方される睡眠薬を密かに溜め始める。事故から1年半が過ぎる頃、睡眠薬は100錠以上になっていた。そして、馬之助は車椅子に乗れる程度の回復を見せる。

しかし、脳貧血が襲う。馬之助は車椅子で気絶する。内臓機能が低下しているから排便も自力で出来ない。GE(グリセリン・エノマ:医療用浣腸)も効果が少なくなる。だから看護師から横に転がされ腹圧をかけられる。便を指でかき出される。「摘便」だ。「指に触れるだけで悶絶するほどの痛み」がある馬之助は断末魔の叫びをあげる。私のツレも両足を粉砕骨折した際、オムツ交換の度に気絶した、と言っていたが、その痛みたるや、大の大人が殺してくれと懇願するほどの痛みだと察する。

1997年12月23日後楽園ホール。「上田馬之助を激励するプロレス大会」が開催される。テレビ電話は馬之助の病室にもつながる。リング上ではアントニオ猪木や坂口征二、グレート小鹿がメッセージを送る。馬之助は病室から「どうもありがとうございました」と答える。後楽園ホールの観客は「ウエダ!ウエダ!」と大コールを贈る。馬之助は笑顔で応じる。恵美子夫人は驚き、喜び、そして案ずる。馬之助はファンの前だけ「上田馬之助」に戻ることができた。しかし、それが終わると、やはり<風船がしゅんとしぼむように(恵美子夫人著・ふたりでひとり)>生気を失う。そしてまた絶望の日々が続く。

ある日、馬之助は「ひとりの少女」を病院にみつける。少女は両足を失っていた。リハビリ室で義足をつけ、何度も転びながらも立ち上がり、何度も歩こうとリハビリに励んでいた。馬之助はそのとき、事故から初めて周囲を見渡す。そこにはたくさんの患者がいた。自分だけではなかった。みんな必死で「日常生活」を取り戻そうとリハビリに挑んでいた。その頃、馬之助はソーシャルワーカーの山本行文氏に出会う。山本氏は22歳のとき土砂崩れに遭い、それからずっと車椅子生活となるが、その後、山本氏は車椅子マラソンでパラリンピックに3度出場、大分国際車椅子マラソンでは7連覇を成し遂げた猛者である。馬之助は思う。

「義足の少女は電動車椅子に頼らず、自分で歩こうとしている。山本さんは自分よりもずっと若いときに障害を負っているのに、それを苦とも思わないで前向きに頑張っている」

―――オレはプロレスラーだ。

上田馬之助は、黒と白が混じって放っておいた髪を金髪に染める。それからリハビリに「燃える」。山本氏は舌を巻く。<この人は一度、本気になると、他の人間とは違う。やっぱりプロレスラーだ>

馬之助は車椅子を操作する際、握力がゼロなので掌で滑り押して動かしていた。指も曲がらない。だから手袋をして押していたが、よく、その手袋が破れていたのだという。「人が見ていないとき」もトレーニングしていた証拠だ。車椅子の下に敷いたバスタオルも破れていることがあった。入院時の体重は110キロ。その摩擦で刷り切れるのだ。

「本物のプロレスラー」をみた看護師は仰天する。猛烈な痛みを伴うリハビリを、ともかく、馬之助は黙々と毎日、ヤル。症状をよく理解している医者も驚く。痛いはずなんだ、無理なはずなんだ、どうなってるんだ?

<それが私のプロレスラーとしての誇りなんです>

プロレスラーが試合中、痛いだの、止めて、だのと言えるわけがない。馬之助にとってのリハビリは「プロレスの試合」だった。馬之助は新日本プロレスとUインターとの対抗戦、あの伝説のイルミネーションマッチの際、現役バリバリの前田日明のミドルキックを数発、マトモに被弾した。ヘビー級のレスラーをKOする威力のハイキックが、容赦なく馬之助の後頭部に突き刺さった。それでどうなったか。

東京ドームの67000人が唸った。どよめいた。100キロのヘビーバッグを踊らせる前田の蹴りが通じなかった。馬之助は避けない。戸惑う前田日明は全体重を乗せたニールキックを放つも、その蹴り足を掴まれてリング下に引きずり下ろされた。いまでも語り草となる、あの「歴史的な心中」である。リング下に落とされた前田はマットを叩いて悔しがる。少年時代の私はテレビの前で手を叩いて歓声を上げたのだった。

5年半の入院生活から、今度は自宅治療となる頃、ひとりの青年が馬之助に話しかけてくる。同じ病院に入院していた青年の怪我は「頸髄損傷」―――馬之助と同じく、交通事故によるものだった。青年は言う。「上田さんのリハビリしている姿に勇気をもらいました」

馬之助は義足の少女をみて奮い立った。山本氏の屈強な精神に感服した。「あんなに若い人が頑張っているじゃないか」と励んだ。そして今度は若き青年が「上田さんのような年配の人も頑張っているじゃないか」と前を向いた。勇気は連鎖した。

上田馬之助はボランティアで障害者施設を回る。「交通事故の怖さ」と題して講演も行うようになる。指も動かせなかった馬之助であるから、晩年の行動力はまさに奇跡である。

大阪で講演をした際、恵美子夫人と一緒にいた馬之助は道行く老人から罵声を浴びる。読売新聞の追悼記事にあった。「悪いことばかりしていたから、そんな目に遭うんだ!!」――車椅子に乗る人間になんと言うことを・・・・と思ってしまうが、それは「上田馬之助」に失礼となる。つまり、この老人が正しい。馬之助は悪役レスラーだ。これでいい。

だから恵美子夫人は<夫を本当の悪人と思い込んでいた。昔の人は今より真剣にプロレスを見ていた。裕司さん(馬之助の本名)は内心では喜んでいた気がする>と言う。「プロレスのことがわからない」と悔しがっていた恵美子夫人だが、いやはや、よくわかってらっしゃると感心する。私も同感だ。馬之助は口を捻じ曲げ、鬼の形相をして「ぶっ殺してやる!」とサービスしたかったはずだ。

馬之助が亡くなる前日、だ。残虐レスラーの中の残虐、まだら狼は恵美子夫人に言った。



―――“上田病院”で暮らせて幸せだった。ありがとう



15年以上に及ぶ自宅介護の末だった。「一緒に死ねるなら」とまで愛した夫は先立った。


馬之助の盟友、タイガー・ジェット・シンのところにも、日本のメディアが多数「コメントをくれ」と申し出てきた。しかし、シンは「コメント」を出さなかった。あまりのショックに言葉を失っていた。だから恵美子夫人にだけ電話を入れている。東北の大震災でもシンは馬之助に連絡した。大震災の様子をテレビで見て泣いた。仙台や福島の知り合いの安否を確認した。亡くなってしまった人もいた。その悲しみが癒える前に「神が与えてくれたパートナー」である上田馬之助もいなくなった。






しかし、だ。世のプロレスラーは安心しないほうがいい。世界の善玉レスラーを震え上がらせた「竹刀」と「法被」は死んでいない。むかしむかし、大分県の公園で不良グループの喧嘩があった。そこに「こらぁ!」と叫び飛び込んできた金髪の大男。現役時代の馬之助だ。馬之助は不良共を一喝。全員を並べて説教喰らわす。そして「1週間、公園の掃除をしろ」と命じて去ってしまう。その「武闘派不良グループ」は阿呆みたいに掃除をする。

そして時は過ぎ、大分県で活動するプロレス団体「FTO」ができる。馬之助が交通事故で再起不能、というニュースに所属レスラーの何人かが駆けつける。馬之助も恵美子夫人も「ん?ありがとう・・・だけど、だれだ?おまえら?」となる。私はその見舞いに走った若手レスラーの言葉に泣いた。








「・・・・・あのときのボンクラでございます」




「FTO」は地味な団体だ。ボランティアで医療施設や児童福祉施設、老人ホームや障害者施設を回ったりする。お爺ちゃんお婆ちゃんを「お姫様だっこ」したり、施設職員と「プロレス練習」したりして喜ばせる。ちゃんとした興行をしても子供の入場料は無料か500円、そこに「60歳以上」の人も含まれる。「馬之助の闘魂」は引き継がれている。子供と年寄りには喜んでもらえ―――恐るべし、まだら狼なのであった。

その団体に「VINNI」(ビニー)という地味なヒールレスラーがいた。彼は「二代目・上田馬之助」を襲名する。ストロングスタイルのなんたるか、シリアスなプロレスのなんたるかを忘れた日本のマット界を凍りつかせてほしい。タイガー・ジェット・シン・ジュニアもいる。あの黄金コンビ、流血コンビに日本マット界を席巻してもらいたい。

プロレスファンとして、初代・上田馬之助の冥福を心より祈りたい。

ありがとう、馬之助。向こうには馬場も鶴田もいるから楽しくやってくれ。

コメント一覧

久代千代太郎
>Unknownさん

私も自分に「喝」です。かつ。


>しゅがーちゃん

馬之助は道場では強かったらしいですね。危険な悪役するには「地金」が強くなければダメなんですかね。派手な危険な技を何度も喰らいますもんね。藤波とかは「セメント」ダメだったらしいですね。空手家にドロップキックとか通じませんしねw


>Unknownさん

・・・・(泣


Unknown
泣いちゃいましたよ、、、又。
Sugar
素晴らしいお話を有難うございます。

悪役、上田馬之助にムカついきながら観ていたファンです。(笑)

Unknown
不覚にも、いい年をして泣いてしまった。
改めて上田馬之助氏の冥福を祈りつつ
不甲斐ない現在の自分にも喝を入れたくなりました。
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