認知症妻が「殺して」と依頼?殺人容疑で夫逮捕(読売新聞) - goo ニュース
<愛知県警中署は4日、名古屋市中区大須、不動産業岩田茂男容疑者(84)を殺人の疑いで逮捕した。
発表によると、岩田容疑者は同日午前8時半頃、マンション自室で、妻の 鉦子 ( しょうこ ) さん(80)の背中を包丁で2回刺し、殺害した疑い。調べに対し、岩田容疑者は容疑を認め、「妻から『もう死にたいから殺してください』と頼まれた」と供述しているという。鉦子さんは認知症を患っていたという。
同市千種区に住む長女らが同日午前10時頃、様子を見にきた際、ベッドの上でうつぶせで倒れている鉦子さんと、風呂場で手から血を流してうずくまっている岩田容疑者を発見し、通報した。岩田容疑者は軽傷で、カッターナイフで自分の左手首を3か所ほど切ったといい、同署は無理心中を図ったとみている>
先ほどアップした「男は黙って馬之助」。実はこのニュースをみて、あまりにも悲しくて書いたものだ。恵美子夫人は大腸癌で倒れるが、毎日、病院に行き、汚れ物を洗濯した馬之助はまだ「正式な夫」ではなかった。アメリカに妻を残していた。もう何年も会っていなかった。馬之助が事故に遭ったとき、恵美子さんも別居中の夫がいた。「離婚届」は恵美子さんの長男が用意、それを実の父親にハンコを押させた。もういいだろと。
長年連れ添った相手、心を許せる真のパートナー、という観点からすれば、そこに婚姻届があるかどうか、は優先されない場合もある。この名古屋の80代の夫婦も悲し過ぎる「結果」を避けられなかった。殺すくらいなら、死ぬくらいなら、そこらの施設に放り込んでほしかった。福祉行政における「優先的入所の理由」は虐待の可能性がある、となるが、やはり、注視せねばならないのは「老老介護」なのだ。虐待する家族すらいない場合だ。
私がいる施設にも「いろんな夫婦」がいる。週に何度も来て、寝たきりになった奥さんの食事介助をしてから、眠るまで足や腰をさする旦那さんもいる。もう90歳を過ぎている。
このお爺さんは施設のガラス窓を掃除したりもする。「申し訳ないから」とのことだ。止めると失礼になるので「ありがとうございます」と言って甘えている。昼休み中だった私が横で一緒にやると、ニコッと笑う。そして毎回「いつも家内がお世話になってます」と律義に挨拶される。恐縮するが、そのときも「いえいえ、こちらこそ」と返すようにしている。実に微笑ましい夫婦、理想的な夫婦だが、しかし、その奥さんは重度の認知症でもある。旦那が来てもわからない。機嫌が悪ければ容赦なく、暴言を吐きまくる。
お爺さんは困った顔をしているときもある。笑っているときもある。しかし、なんと、真っ赤になってスプーンを投げ捨てて帰ってしまうときもある。我慢できない時もある。抑え切れない時もある。「夫婦」という難しさがわかる。
別のお爺ちゃん。この人は定年を迎えると数年間、行方不明になったらしい。「事情通」の職員さんによれば、退職金を持って消えた、とのことだ。もちろん、愛人宅だ。
数年後、この人は「上下肌着」だけでタクシーで帰ってきた。現金は一切ない。1つ年上の奥さんは、数年ぶりに帰宅した旦那のタクシー代を払う。そこから修羅場になる、はずなのだが、コレがどうも様子がおかしい。話が通じない。要領を得ない。病院に連れていくと認知症と診断される。つまり、愛人は金だけ取って、呆けたから捨てたのだった。
退職金は「パチンコ」と「飲み代」に消えていた。過日の夜勤、悪戯に話しかけて聞いてみた。行方不明になった、とのことだったが潜伏先は大阪だった(本人)からだ。どこのパチンコ屋で遊んでいたのか、と興味があった。すると、返ってきた「パチンコ屋の店名」には聞き覚えがあった。何度か確認した。私も記憶を辿った。ふとした瞬間、映像が鮮明に蘇った。聞き覚えがあるはずだった。そこは「私が働いていた店」だった。
現金機が旺盛だった時代、ギンギラパラダイスやらミルキーバー、ラッキーボウルという名機が浮かび上がった。そうだそうだ、この人はそこにいた。私は副主任だった。「遊技台を叩く」この御仁に注意させてもらったこともあった。そういえば化粧の濃いオバサンを連れていた。アレがそうか。
いまは呆けて歩き回るだけだ。また、この入所者さんは「すいません、ごめんなさい、すいません・・・」というのが口癖になっている。誰にでも謝りながら、終日、施設内を歩き回る。そして10年と少し前、大阪のとあるパチンコ屋で「次やったら出入り禁止にするで?」と言われた兄ちゃんに、いま、また、仕事をさせてくれるのである。なんという罰か。悪い男だとは思うが、なんとも、まあ、偶然の悪戯に笑ってしまった(笑)。
「腐れ縁」―――とか言う。腐っているから、これがなかなか断ち切れない、と思っていたが、コレは本当は「鎖」から来た言葉だ。つまり、チェーンでつながっている。おいそれとは切れないはずだ。それに「こいつとは腐れ縁でね」と自嘲気味に言うとき、そこに悪い意味はなく、むしろ、切っても切れない縁なのだ、ということを強調する。「餓鬼の頃からの悪友」やら「長年連れ添った夫婦」などがコレになる。
どうせ「切れない」なら受け入れるしかない。どこまでいっても繋がっているならば、相手がどうしようとも、それを我が身のこととして受け入れるしか解決策はない。この名古屋の夫婦は「妻が認知症になった」という「受け入れがたい事実」があった。妻はたぶん「まだら呆け」といわれる状態だった。理論的に判断可能な瞬間に、本心である「殺して下さい」を夫に伝えた。夫もそれがわかったから実行した。自分も後を追おうと手首も切った。ただ、切り方が中途半端だった。結果、追えなかった。
偉そうに書かせてもらう。この夫は「受け入れを拒絶」していた。受け入れていれば「殺す理由」はない。夫が拒絶しているから、妻も「認知症」を拒絶した。受け入れ拒否した。
前原ではないが「口だけじゃないか」という誹りを覚悟で、あくまでも想像で書く。私は妻がもし、万が一、認知症になっても受け入れる。殺さない。頼まれたら「イヤだ」と言う。それよりそのまま、どうぞ、呆けてくれと。安心して糞尿垂れ流してくれと。徘徊しまくってくれと。メシも手で喰ってよいと。ンなこたぁ、どーでもいい、瑣末な問題だと。
ただ、絶対に見放さない。見失わない。妻が「そこからいなくなる」ことと比せば、実に何でもない。しょうもない。ハナクソみたいな問題だ。フランク永井ではないが(笑)、妻は私にとって「そばにいるだけでいい」わけだ。もはや何の注文もない。何の要望もない。それら一切が、既にどーでもいい。考えることも無駄なことだ。
愛人に捨てられて、おめおめと肌着で戻ってきた御仁は、否が応にも受け入れられた。嫁さんも、勝手に出て行って退職金を使い果たし、オンナのところで呆けて、捨てられた亭主を放り出すことができなかった。背中を刺すこともせず受け入れた。だから、ついでに施設にも受け入れられている。
恋愛感情とか愛情表現というものの「最終形態」とは「どーでもよくなること」だ。「この人にこうなって欲しい」とか「こいつにはこうあってもらいたい」というのは、まだ、鎖には成り得ていない。最後、最終的には「こいつならどーでもいい」に落ち着く。「このひとならなんでもいい」に辿り着く。
それは「受け入れる」ということだ。人間的価値から社会的な価値までを一切、なんの考慮もせず、ただ「いるんだから仕方がない」という境地のことである。そして、そこには、ただ「自分もいる」のである。苦労しようが、大変だろうが、それらはあくまでも「他人からの視線」によるもの、すなわち当事者ではない「客観的見地からの意見」に過ぎない。
もちろん、なにかと少々、不安を払拭できぬ私も妻に問うてみた。果たして妻は私を「受け入れてくれる」のであろうか。もし―――
もし―――おとしゃんが、実は正体が「魔獣」だったらどうする?体長が5メートルくらい、体重は2トン。頭の真中に巨大なツノがあって、ツメはコンクリートを引き裂くことができる。口からは無属性の破壊光線を吐く。地球上のあらゆる物質はコレに耐えられない。その目的は「人類を滅ぼして、この世を魔界にすること」だったらどうする?
妻の答えはこうだった。先ず、アニメみたいでかっくいいと。それから「山に引っ越す」―――(※家が狭くなる・人を襲ったら困る、など)と。つまり、朝鮮人どころか、人間でなくてもいいという。要すれば「どーでもいい」わけだ。今更、おとしゃんが魔獣でも仕方がない、ということだ。ありがたいことである。がおぉぉぉ!!
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