妻が勤め先の鍵の開け閉めをするようになって何年か経つ。その当時、妻が「怖い」というのがゴミ捨て場のことだった。妻の職場は「おかず屋さん」だから、そこにあるのは売れ残った惣菜とか弁当になる。それをホームレスはちゃんと知っていて、その時間になるとさっと持って行く。
妻が売り場などで片づけをしていると、ゴミ捨て場のほうからガサゴソと音がする。出くわしたらどうしよう、と不安にもなる。他の従業者も怖いから仕事がぜんぶ終わるのを待ち、みんなで一斉に店舗から出ることもあるという。
でも、中には気の強い古参のおばさんもいて意地悪をしていた。ゴミ袋に入れてから足で踏み潰す。わざと中身を散乱させるようにゴミ袋に入れる、などだ。私はそれを聞いてすぐ、妻に「止めさせなさい」を言った。それから可能な限り、弁当2つ分くらい別の袋に入れて、ゴミ箱の中やゴミ捨て場の中じゃなく、店の裏口付近、そこに椅子でもなんでもいいから置いて「お供え」みたいにしなさい、と教えておいた。
というのも以前、大阪にある「とある飲食店」の経営者に教えてもらったからだった。その地下街にある店は残った料理などをわざわざ「詰め合わせて」いた。見せてもらったことがあるが、私でも抵抗なく喰えるようなモノで、むしろ美味そうだったと記憶する。そしてそれをゴミバケツの中ではなく、その少し離れた場所に設置した丸椅子の上に置く。
野良猫の餌付けに似る。私は安易に「集まってくるんじゃ?」とか「居着くんじゃ?」と心配したが、経営者曰く「真逆」だとか。野良猫は猫だがホームレスは人間だ。また、恩義に感じるとかでもなく、実にクールに対応してくるのだとか。要するに営業中は絶対に近寄らない、ゴミも荒らされない、閉店後も用が済めばさっと立ち去るなど、明日も明後日も美味い弁当が喰えるよう、ちゃんと気を使うのだそうだ。
ホームレスがゴミバケツを漁る、という理由で踏み潰したりすると、店の前に排泄される。営業中、店の入り口付近に数人が寝転ぶなど「抗議の意志」を示すという。また、連中からすれば、ある意味「怖いモノ」もない。怒鳴ったりして気を悪くすれば火をつけるくらいする。人間、ああはなってもプライドは無くならない。理不尽な扱いには対抗してくることもある。刑務所なんか「雨風しのげる」くらいにしか思わない。「なにもない」は弱くない。
また、その経営者が気をつけているのは「量」だけだった。料理がたくさん残っても「たくさん置く」のはNGだ。これはサルと同じ。イモを2つ与えて芸をさせていたサルに、ある日突然から1つにすると、サルは「抗議の意志」を示す。最初から1つだったサルに変化はない、というアレだ。弁当ひとつなら、ずっとひとつだけ。クリスマスにチキンをつけるとか、そんな気遣いも無用。いらぬ期待を膨らませるのは危険ということだ。出くわしても声はかけない。寒い夜にも情は示さない。するとホームレスのほうもちゃんと計算して回るのだとか、経営者は笑っていた。
JR京都駅、新幹線出口となる八条口付近の市有地に、ふたりほどのホームレスが住み着いて困ってるとニュースでやっていた。そう言えば私も何度が見かけた。JR東海は人間の糞尿の処理をしながら京都市に「改善要請」をしていた。利用客が直接、市にクレームを出すこともあった。そこは京都の玄関口、日本のイメージも悪くなるし、このままでは年間5千万人を超す観光客が逃げてしまう、と。
マトモな懸念だが、中にはやっぱり「喰いモン」を差し入れする人もいる。飲める水があり、雨風しのげて餌が来るなら猫でも動かない。その結果、JR東海が<適切な清掃ができず、衛生・安全面で大きな不安が生じている>と困っても「それは別の話」。病的な自己満足、いわゆる「メサイアコンプレックス」に近い感覚か。「不幸な誰かを助ける自分は幸福」という強引な理屈で「迷惑行為」が止められない。それが「捨て猫」なら連れて帰りもするが、半分病気の浮浪者なら「餌だけ与える」ことで満足もする。すでに病理である。
そもそもホームレス、浮浪者、乞食、野宿者、なんでよろしいが、これは絶対にいなくならない。世界中を見渡しても、たぶん、いないのはバチカンくらいか。日本のホームレスは1万人弱と言われるが、例えばインドには日本の人口ほどのホームレスがいる。組織化されてビジネスになっているのも有名な話だ。「どうしようもないこと」のひとつだ。
また、善意を金に換えて「消費」している人がいる。つまり「売る側」と「買う側」がいる。月に何千円か振り込めばカンボジアの子供がひとり、清潔な水を飲めて仕事をせずに小学校に行けます、も同じ。ちゃんと「日本のお父さん、ありがとう。鉛筆を買いました」とか手紙も来る。ガラス玉みたいにキラキラした瞳の子供の写真も同封されている。心の美しいアレな人は感動して落涙する。
どうぞ御勝手に、としか言いようがないが、日本にもたくさん、怪しげなNPO法人やら「ホームレス支援団体」がある。心の美しいアレな人がたくさん参加している。ホームページなんかを見ると「路上生活者ゼロを目指して」とかやる。路上を無くすのかと思ったらそうではなく、ホームレスは社会の問題だから国がなんとかしろと言っている。憲法違反じゃないか、と問題提起している。憲法に規定されている「人間らしい生活を送る」が実践されていないと批判する。まるでインドの1億人と少しは人間じゃないみたいだ。
野良猫はカセットコンロを使わない。段ボールやブルーシートで公共の空間を占拠もしない。組織化もしない。それに「仕事がない」も言わない。ホームレスはもう、じゅうぶん「人間らしい」のである。というか、問題は「人間だから」困っている、とも言える。猫なら(猫に他意はない)保健所が連れていく。
いわゆる「市民団体」とやらはホームレスをして「貧困問題」にする。それから「労働問題」や「雇用問題」を絡め、切り札として「人権問題」も使用する。それなら日本よりも経済大国、アメリカにホームレスはいないのか、といえばたくさんいる。日本の市民団体が「社会から排除するのか」と怒るホームレス用のシェルターもある。昼間はうろうろ、炊き出しに並んだり雑誌を売ったりして、寒い夜になると戻って来て寝る。また、教会などがスープを配ったりも多い。国の義務、なんて馬鹿は言わない。これはキリスト教の良いところで、ちゃんと「施し」と認識している。貧しい人、弱い人を見ると嬉しくて仕方がない。「放っておく」がやれない。遺伝子レベルのメサイアコンプレックスだ。
京都市役所の都市整備担当者や福祉担当者の対応が批判されるが、これは半分だけ正解だともいえる。要するに「放っておく」しかない。ただ、その場所は問題とせねばならない。利用客の言う<新幹線は日本の誇り。『人権擁護』を理由に浮浪者に寝床を提供し続ける理由はない>は正論に過ぎる。つまり、利用客も「駆除しろ」とは言っていない。ホームレスが存在するのは仕方がない、ただ、新幹線の駅口はやめさせろ、と言っている。
人権も収容先もそのあと、先ずは強制撤去しかない。無責任な市民団体の抗議はうざいが、それを何とか対応するのも仕事の範疇かと思われる。粛々とやればいい。それこそ得意の「お役所仕事」の出番だ。相手はクレーマーと同じ。理屈に付き合う必要はない。議論する理由もない。フレッツ光の窓口嬢みたいに感情を家に置き、ただ、すらすらと「他の手段では義務の履行の確保が困難でその履行の放置が著しく公益に反すると判断しました」とか、立て板に水の棒読みで繰り返すだけでいい。
ちなみに大阪はやった。2003年に天王寺公園周辺に行政代執行法を適用、公園を鉄のゲートで囲んで要塞化した。入るなら金払え、ルール守れ、時間になったら出ろ、だ。これを「社会のルール」というが、それまではどうだったか。
天王寺公園前の大広場は「異様」だった。集団化したホームレスが昼間からワンカップ持ってうろうろ、道端でゴロ寝が普通の光景だった。天王寺動物園へ続く通路は青空カラオケになった。そこで昼間から酒を飲み、公園内に響き渡る音でカラオケをやった。動物園内の動物のほうが静かだった。大阪市立美術館の周囲や正面デッキにもブルーシートが並んでいた。夕暮れになると「たちんぼ」も出る。酒盛りはまだしも、路上で博打、喧嘩、売春が横行する。小さいお子さんがいるあなた、そんなとこで「子供が迷子」になったら不安ではないですか?と言ったら「人権侵害」だった。
「ホームレス支援」は「原発反対」とか「死刑反対」と同じカテゴリーに入る。つまり、胡散臭い。中身が同じ人だ。だから文才のあるホームレスがいて、段ボールに「餓死凍死 雨にうたれて 衰弱死」とか書いたら、朝日新聞とか、もうこんな嬉しいことはないと喜んで飛び付く。さっそく「ホームレス詩人」として本にしたりする。
そういえば我が倅も小学校の低学年の頃、授業の写生で段ボールにザリガニを描いた。阿呆だから画用紙は捨ててしまったのだ。そこに赤い絵の具をたくさん使ってザリガニを描くと、担任の先生から「こんなのダメ」と叱られた。倅はふうん、ってなもんだったが、担任から「画用紙に描かないんです、この子」と聞いたとき我ら夫婦は笑っていた。口が開いたままの倅にも「それでいいンじゃないの」と言った。所詮は自分の絵なんだから、自分の好きに描けば、と。
それから数日して、学校の美術教師が職員室で倅の描いた「ザリガニの絵」を見つけて顔色を変える。京都府の写生コンクールに出すと入賞、京都府美術館には「段ボールの切れ端」が展示された。いま、その絵は小学1年生の国語か何か、教科書に載る。担任から「すませんでした」みたいな電話があるも、我が家は「あ、そうですか」でお仕舞いだ。倅にはあくまで「子育ての一環」として褒めたが、本当は妻とも「段ボールに描いたからじゃないの」と冷静に評価していた。我々は親馬鹿ではあるが馬鹿親ではない。また、私はそこに「左巻き臭」を嗅ぎ取ってもいた。
たぶん、京都府の選考委員会は「画用紙に描かないなんて、なんて自由な発想の子供なんだ」とかになった。連中、こんなのが好きなのだ。私は最近、成人した倅にこの話を掘り起こし、親として「今だから言うけど、入賞しなくてもいいから、ちゃんと画用紙に描くべき。あの時の担任の先生が正解だ。組織としての規定とかルールは個人の受賞よりも優先されるべき。そしてその範囲を守ってトップになる。それが日本人だ」と教えておいた。
ま、話が逸れかけたが、要するに気をつけておかないと、すぐに連中に踊らされる。例えば、連中は枕に「ホームレス」がつくなら中学生でもキャバ嬢でも持ち上げた。「元ホームレス」やら「ホームレスを体験したことがある」は苦労人の称号みたいに扱われる。まるで「ホームレス」を経ていない成功者は運が良かっただけ、とでも言いたいのかのようだ。
先ほどのJR京都駅の八条口付近、行けば分かるが通路だけではない。周辺には結構な数もいる。通路には段ボールや薄汚いバッグが置かれている。その横をみんな、普通に歩いて行く。「いるモノは仕方がない」。べつにバッグを蹴って歩いたりしない。というか、目を合わすこともしない。自分とは関係ない、という顔で歩く。市民団体はここを詰めてくる。「知らないふりはもう止めよう」とか、スローガンにもなる。大きなお世話だろう。
そして、だ。左巻きより左を言うと、それがホントの「共生」なのだ。「存在する」ことについては認めている。阿呆な餓鬼がテント小屋を燃やしたり、寝ている浮浪者を殺したりはダメだと言っている。そのために税金を投入して「シェルター」をつくるなら反対もしない。夜は放り込んでくれたほうが安心でもある。真冬の通勤途中に凍死した人間を見なくて済む。中には本気で「野宿生活から脱したい」という人もいる。そういう人に職業訓練したり、仕事を斡旋したりもすればいい。本人も必死だろう。ならば税金も使うがいい。
ただ「好きでやってると思ってんのか?」とか言いがかりは止めてほしい。知ったことではない。「人権侵害だ」も勘弁してほしい。邪魔臭い。要は単純な話だ。公共の場所で糞尿をするな、公共の場所を占拠するな、と言っている。義務を果たさぬなら社会に参加する資格はないと言っている。また、それを責めているわけでもない。野宿しているオッサンの首根っこを掴んで「納税、教育、労働」とか言っている人はいない。迷惑をかけるなと言っている。こちらも見ないふりをするから、そちらも自分で工夫して「人目につかない場所」を探せと言っている。昼間の公園には近寄らないとか、糞尿はビニールに入れて捨てるとか、人間ならばできるだろうということだ。
私はベタだが、やっぱり「無人島」しかないと思う。日本にはたくさんの無人島がある。そのいくつかをあきらめ、ある程度だけ環境整備してから使う。たくさんはいらない。どうせ増えない。基本的に無気力だから組織化して悪いことをするのも考え難い。存外、犯罪は少ないかもしれない。市民団体が言うように「彼らは弱い者同士、助け合い精神が溢れている」なら大丈夫だろう。畑とかつくるし、漁とかするかも。知ったこっちゃないが。
週に何度か、指定された港から直行便を出す。船の名前は「ぴ~す号」とか。募集広告は朝日新聞に任せる。各主要駅に貼って来い。謳い文句はもちろん「地上の楽園」だ。
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