ひと月ほど前に採用された新人職員さん。40代半ばの女性だ。これがまた、この業界特有(?)のちょっと変わった人で、入って来て2日ほどながら妙に馴れ馴れしかった。先輩である私にもタメ口は当然、二つ返事で快諾しないから仕事も頼み辛い。男性の利用者と接する際や、体重がある利用者の移乗の際など、堂々と「女っ気」を交えて甘えてくる。
私のことがお気に入りらしく、私を見つけては「手伝ってぇ」とか「たすけてぇ」と舐めたことを言っていた。そうして勤務時間が終わり、その女性がさっさと帰る間際、なんと、私に手を振った。他の女性職員はそれをみてスイッチが入る。なんだあいつは?となった。
なんでもかんでもはいはいと、いいですよと接するあんたも悪い、と私まで吊るされた。迷惑千万だが、それからお局も加わり、最大セクトのボスも協力、あいつをやってしまえ、とGOが出た。1週間ほどながら、もう「新人扱い」は終わり。そもそも彼女は先輩の指導を「うんうん」と受けるし、メモも取らない。ということはあんた、なんでも一人前にできるんでしょう?と放置されるシーンが目立った。もちろん、私は参加しない。任せるのは勝手だが、任されるのはジジババになる。だから必要ならばフォローもした。そろそろ私の性質も周知されてきたのか、それには文句も出なかった。
しかしながら、それでも「虐め」とは思えなかった。いわば「通常の業務の範囲」だった。とくにキツイ仕事をさせられたり、嫌な仕事を押しつけられたりもない。嫌われている自覚はあったかもしれないが、私も客観的に観察して、それもまあ、仕方がない部分もあるだろうと思っていた。人間の集団だ。合う合わないまでは知らない。また年齢も年齢だ。餓鬼じゃないんだから、そのうちなんとかなるだろう、と楽観視していた。
ある日、出勤してきた彼女だったが、その数分後にはいなかった。職場から忽然と消えていた。ちょっと探したが、どうやらお局に対し「もう辞める」と捨て台詞を残して消えたのだとわかった。こういうことは過去にもあったから、とくに驚きもしなかった。
しばらくすると、事務所から内線があった。例の彼女のことだと言う。どうせ帰り際、事務所で罵詈雑言やったのだろうと察したが、話を聞くと、なにかちょっとヘンだった。
「今日、いま、この瞬間から別のフロアで働いてもらいます」みたいなことになった。要するに「もう、あんな職場はイヤだ、替えてくれ」と頼んだらしい。それが通ったのは違うフロアの何人かが古い友人だった、というオチがついた。それからなんと、そこのフロア長がやってきて「人権侵害、これは虐めだ」と公然と文句を言いに来た。
私のいるフロアのお局ら、彼女から「名前の出た」何人かは呼び出されて「厳重注意」となった。中年過ぎた男女が集う職場で発生した立派な「虐め問題」だ。笑った。
「いえ、ちよたろさん“だけ”は親切でした」という彼女だったが、私も呼ばれて事情を聞かれた。天下りの施設長が「虐めみたいなことはありましたか?」と、大のオトナに馬鹿みたいなことを聞いてくる。私は「わかりません」と言った。知りません、と。
意味は「そんな(馬鹿みたいな)こと知りません」だ。しかし、天下りは「仲間を庇う気持ちはわかるけど」みたいに微笑んでくる。それから真面目な顔で「コレは人権問題です」とくる。その女性職員には別フロアの知り合い、友人がたくさんいる、それで結構な騒ぎにもなっている。そこに「人権」という「得意のフレーズ」が登場、この左巻きの天下りは俄然、やる気を前面に出してくる。揉め事が好きなのだ。私は気持ち悪くなった。
彼女の訴えは「自分ばかり仕事をやらされた」だった。具体的には「シーツ交換ばかり」とか「汚れ物の洗濯ばかり」というものだ。でも、それは新人の頃なら誰でもやらされることだった。私も当たり前にやったし、いまでも手が空いていれば普通にやること、誰かがせねばならないことだ。私の頭の中には、よくこんな話を真面目に聞いていたな、という感想が回ったあと、それからこの天下りが「如何に現場を知らないか」「職場に興味がないか」を如実に表しているとも気付いた。
知っていれば「それは当然では?」という疑問が芽生えたはずだが、この左巻きはその一連の愚痴を聞いて「それは平等ではないですね」となった。この社民党支持者は「自分の出番だ」と武者震いでもした。だからいま、私が呼ばれているのだった。
私が採用されたばかりの頃、この職場は「ポットのお湯をどうするか」を会議していた。職員がコーヒー飲んだり、カップラーメンを作ったりする「お湯」のことだ。これを「入れなさい」とか「なんで入れてないの」と言われるのは新人とか、立場のアレな職員になるだろう、という懸念から輪番制が検討されていた。普通、一般社会では気付いた人か、もしくは、気配りが出来る人が知らぬ間にやる。ポットから「お湯」を出した人は、ありがと、で済むことになっている。
あとは「女の子」に入れといて、とか言うことになっている。そこで「気付いたのなら自分で入れればいいじゃん」と社長とか上司に言い返すと、その女の子は女性の権利とか平等は守れても、世間からは阿呆だと認識されることになっている。上司は「あ、そう」と呆れてもう頼んで来ないと思われるが、それと同時にいろんなこともあきらめるだろうし、あまりお近づきになりたくない、という感想も持つことだろう。それはその上司の自由だし、まあ、常識の範疇だと理解される。
いま、ようやく「誰かがやればいいじゃん」が浸透し始めた。社民党の人間が知れば卒倒するかもしれないが、いま、職場ではようやく、重たいモノは男性職員に頼めばいい、細かい仕事は女性職員に上手な人がいる、で済むことになった。1年と少しかかった。
もちろん、これが以前のままなら、事務所で泣きじゃくりながら「差別された、虐められた」と喚いている彼女は「こんな目に」遭わずに済んだ。「シーツ交換ばっかり」にはならなかった。新人もベテランもなく、みんな平等、同じ人間じゃないか、ならば「汚れ物の洗濯」も持ち回りでやった。少なくとも「いまよりマシ」だった。だからいま、彼女が泣いているのは私の責任でもある。
堺市堺区にある大阪刑務所。数年前だったか、そこで受刑者に「軍隊式行進をさせるのは人権侵害」という阿呆なクレームを弁護士会が出した。阿呆の言う「軍隊式」とは、つまり、イッチニー、という掛け声の下、手足を大きく振って歩くことを言う。これを<必要以上に>させたと因縁をつけてきた。
受刑者の男が申し立てた「人権救済」の内容は、たとえば<ひざを90度に曲げ、腕を肩と水平になるまで上げさせられた>というようなものだった。弁護士会の言い分は<歩き方を指定する必要はない。人間性を無視している>である。阿呆なだけではなく、とても面倒臭い連中だとわかる。相手にするのも骨が折れることだろう。
この「男」が何をやったのかは知らんが、少なくとも、他人様の人権を侵害したか、財産を奪ったか、碌でもないことをしたから刑務所に放り込まれているわけだ。そんな奴が弁護士会に人権救済を言うだけでも片腹痛い。というか、そんな頭だからなにかしらの犯罪をやって、いま、大阪刑務所に服役させられているわけだ。秩序を護って規律正しく行進するくらいのことで、人権だ強要だと騒ぐレベルだから社会から弾かれるのである。
このオバハンもそう。不惑もとっくに過ぎていながら、通常の業務を強いられた程度で騒ぐなどみっともないだけのこと。嫌われているとか、馬鹿にされているとかも知ったことか。私が優しく接していたと思うならば、それは祖母が「年寄り、女子供、弱いヤツには優しくしろ」と厳命していただけのことだ。癖みたいなもんだ。
それに「権利」を言う前に「職場を放り出した」義務はどうなる。順番がおかしい。天下りは頭が左に巻いているから知らないかもしれないが、社会は「義務」が優先されているから、なんとかなっている。誰かの権利を護るためには、どこかの誰かが義務を果たしているということだ。人材の育成まで言わなくとも、子育て、学校教育のレベルでそう教えないから、世の中が少しずつ壊れていく。すなわち、人を教え育てるという意味は、すべからく「義務を果たす」ことを優先的に考えられる人間を増やすことを言う。
しかし、まあ、この天下りの左巻きにはわからない。なにかともう遅過ぎる。だから私も用はない。それより早く帰りたい。帰宅したい。義務を果たした後には権利が待っている。簡単に言うと仕事をしたら酒を飲む。それにこんな左側にモウロクしたようなジジイと話すことなどない。私は左に巻いた阿呆と話していると鳩尾あたりが重くなる。帰りたい。
だから、あっさりと「あの、もういいですか?」ということで退散した。左巻きの天下りは私を嫌っているし、とくに「虐めの証言」も取れないと判断したのか、すんなりと解放してくれた。私はその日「夜勤明け」だった。勤務時間はとっくに終わっている。こんなの私の休日を侵害する行為、私の夜勤明けの楽しみ、さっさと帰宅して風呂に入って酒を飲んで寝る、という権利を奪う行為だ。知ったことかと、荷物を取りに現場に戻ると、やっぱり「どうだった?」「なんだった?」「なんて言ったの?」とくる。
退屈な人生。窮屈な生活。鬱屈した日常。そこに降って湧いたお好みの揉め事。相手もいるし、敵も味方もいる。しばらくはコレだけでごはんが御代わり出来る。ならば彼女らが興奮しないはずがない。女性というモノは元来、感情の共有を求める生き物だ。「ね?面白いでしょ?」に対して「うぅ~ん、まあまあ」というオスは相手にされなくなる。相手にされなくなったら、一応、困る。だから、こういうときはテキトーに合わせておくに限る。
それも相手のレベルに合わせて共感、あるいは共有するのが好ましい。
孫の「そーちゃん」の弟になる「ひーちゃん」は私がゴリラの真似をすると発作みたいに笑う。「ゴリラじーじ」だ。そこは「じーじゴリラ」じゃないと、基本、そのベースはゴリラじゃないかとか言ってはいけない。「ひーちゃん」からすれば、じーじがゴリラなのか、ゴリラがじーじなのかはどうでもいいことだ。私もよくわからなくなることがある。つまり、相手の理解が及ぶ範疇で対応することが肝要、だから彼女らには「虐めとかないって言いましたよ。あんなの常識ですよって言いました」だけでよろしい。あまり説明するとしらけるし、どうせ理解してくれないんだから、夜勤明けにまで付き合う必要はない。
しかし、その必要はないが、この「ある種の期待」には応えておかねばならない。私が大きく溜息を吐き、それから彼女はですね、と絶妙の間で話し出すと、虐めの主犯・お局も吸い寄せられるように真剣に聞いていた。
「なんでもやらされてる、って思うから被害妄想が膨らむんです。妄想が膨らむから性根が曲がるんです。性根が曲がるから嫌われるんです。嫌われるから相手を嫌うんです。嫌うから争うんです。だから世界は戦争が無くならないんです。いいですか?ゴリラが胸を叩く、いわゆる“ドラミング”は胸の下にある空気を指で叩いてるんです。だから打楽器みたいに響くわけです。拳で叩いているわけじゃないんです。ここが重要なんです。つまりね、私は今日の夜、孫にゴリラじーじをするんです。ということで、それではお先に失礼いたしますウホウホ・・・・」
と胸を叩きながら立ち去った。あとには奇妙な沈黙があった。たぶん、彼女らは理解した。
最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事