忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

年の終わりのぶたまんじゅう ~さようなら2010~

2010年12月31日 | 過去記事

今日で2010年も終わる。昨年夏の民主党政権誕生で、日本国は内外的にもダメージを喰らったが、私個人としては悪くない年であった。「大殺界」は来年も続くが(笑)、なぁにモノは考えようだ。人生はいろいろあるから面白いのだ。その次の年は「前厄」とかも気にしない(泣)。それに来年はいよいよ不惑である。この私が40歳になるなど、いったい、誰が予想でき得たであろうか。私的にはついさっきまで17歳だった記憶しかない。それに、このような幼稚な40歳というのは許されるのだろうか。私は今、ファイアーエムブレムの新作がいつ出るのかと考えているのである。あとは、正月だし、就職決まらないけど、酒飲もうっと♪などとも考えているのである。我ながら、何とも幼い。



ま、しかし、だ。来るものは仕方がないし、無いものは仕方がない。それに40歳になるということは50歳にもなる可能性がある。ならば備えねばなるまい。50歳までにせねばならぬことは就職だけではない。ファイアーエムブレムの新作も2~3本は出るだろうし、私も負けてはいられない。40歳にもなって「ゲームの夢」とかみている場合ではないのだ。それでも44歳にもなって、自分の人生がLOSTしそうなのに、自宅に籠ってアメリカドラマの「LOST」シリーズを観ているよりは大丈夫だ。メールアドレスは、いやいやほんま、いやほんま@ne.jpである。ちなみに歯もLOSTしたらしいが、今度の正月、彼はちょっと高い国産牛の上ロースを300グラムだけ買って、フライパンにサラダ油をひき、塩コショウでさっと焼いて喰うのだろうか。ちょっと高い鮭の切り身を塩で焼き、220mlの大吟醸酒をちびりと飲りながら、正月番組の再放送を観ることが出来ているのだろうか。茶碗蒸しは買えたのだろうか。鯛入りかまぼこは・・・いやいやほんま、いやほんま。



そういえば、私が30歳になってびっくりしていたとき、オカンが「あんた、40になったら体力は落ちるし、病気は出るし、今までみたいな無茶苦茶はしたらアカンで!」と言っていた。そのときは、なぁに、そんなもん、私と普通の人間を一緒にしないでもらいたい、と自信満々、他人事のように聞いていたのだが、正直、チカンアカンオカンすまん。



私が間違っていたようだ。あいたたた・・・最近は妻にも「おとしゃん、食べへんなったなぁ~(泣)」と心配される。以前、家で肉を焼いて喰うとなれば、アレも買えコレも買っとけと大盤振る舞いの私だったが、最近はもう、300グラムも喰えば「あのね、もう、食べられないの」となる。トンカツやらハンバーグも「一人前」を喰ったらもう十分、それ以上喰ったら胃がムカムカしてきて調子を崩す。年である(笑)。



深酒もしなくなった。飲みに行っても飲めない。日本酒がキツく感じるから、先日も途中で瓶ビールを頼んだほどだ。今までは立ち飲み屋なんぞでビールを飲んでいる人生の先輩を見るに、なんでビールばっかりなんだ?と思っていたが、なんか妙に納得した。人はこうやって老いさらばえていくのだ。老兵は死せず、ただウロウロするのみ、だ。



よく「10年ひと昔」なんて言い方もする。私も「ひと昔前」は29歳だ。ちょうどパチンコ屋の入り口に足を入れた頃だ。その頃、パチンコ屋には「不景気はない」と言われていたし、どんな稚拙な営業形態であれ「潰れる店」というのは、何かほかの理由を詮索されたりもした。つまり「経営不振」など考え難かった。シャッターを開けて電源を入れれば、お客さんが勝手に金を持ってきてくれる、というわけだ。ションベン臭い営業マンがサイドビジネスで店を出したり、ハナクソみたいな幹部ですらキタやミナミで豪遊していた。一戸建ての自宅や高級車など珍しくもなかった。中卒であれ、馬鹿であれ、それなりに長年勤めていれば、そこらの部長さんクラス以上の生活をすることが出来ていた。もちろん、そこには大なり小なりの不正もあった。そのレベルの人間がたくさんいた。



まさに「パチンコドリーム」だったが、それは、私が知り得た限りでは10年持たなかった。しかも、これを予想していた人は少ない。私と一緒に仕事していた人間は思い出してほしい。私は常に「イベントなどによる過剰な出玉演出、爆裂機の到来は業界の首を絞める」と言ってきた。その当時のレポートなどもあるが、毎週のような新機種入れ替えに「客も店も息が切れる」と書いている。また当時「スロプー」と呼ばれた「イベントプロ」などの存在にも懸念し、不労収支を与えるだけの企業が社会から必要とされるはずもない、と言い続けていた。それでなくとも依存症やらゴトグループやら脱税NO1やら在日企業やら北朝鮮の資金調達やらと悪名高い業界である。そんな業界が金儲けオンリーで突き進む愚を見逃してくれるはずもない。エコやら募金やらでお茶を濁しても無駄だと知っていた。



「スーパーの特売品だけを摘まんでいく客」として「チェリーピッカー」という俗称があるが、私はこの俗称をして「商品の安売り合戦」の如き戦略なき経営方針の限界を訴えたが誰も相手にしてくれなかった。私が会議などでこのような発言をすると、居並ぶ幹部からは鼻で笑われた。社長マンからは「理想主義者」だと言われた。私は私ほどの現実主義者を知らないので不愉快だったが、彼はこの言葉を「偽善者」という意味で使っていることもわかった。



今生き残っている遊技企業は「単価を下げた営業」で息を続けている。私はこの方針にも大反対であるが、まあ、一部「そういうコーナー」があってもいいとは思っている。あくまでも多様化の一環として、だ。ただし、この方針が業界を再興させることにはならない、と今でも確信している。



ま、ともかく、10年前から業界の中には私のように「このままでは危ない。理由は~~」という人もいた。ただ、聞く人が少なかった。聞いて理解出来る人も少なかった。「そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない」という安息から抜け出すことが出来なかった。しかし現実はバタバタと遊技業界は潰れて行く。私に「パチンコ屋は不景気にこそ強い」と十数年前と変わらぬ理論を展開する人もいた。化石かと思った。









―――――今日は大晦日である。2010年最後の日だ。その今朝、こういうニュースがあった。だから私は先述の「パチンコ屋の10年前」の話を思い出したのだ。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101231-00000510-san-pol

<中国原潜、第1列島線突破 日米警戒網の穴を突く>



我が家の玄関にも「しめ縄」を飾った。リビングの横には可愛らしい鏡餅と、なぜだか「ガーデンシクラメン」が添えられている。なぜだか妻が買ってきて飾っている。シクラメンの花言葉は「内気、はにかみ、嫉妬」とのことで愛らしいのだが、なぜに正月の鏡餅の横に、和名で「ブタ饅頭」という花を置く必要があるのか。すごく遠回しな皮肉なのか。



ま、まあ、いい。ところで、もうそろそろ日本の家庭が正月気分の中、支那の原子力潜水艦が日米の監視網をノーマークで突破した。支那海軍は民主党と違って「言ったことを守った」わけだ。↓



<第1列島線は中国海軍が有事の対米防衛ラインとして設定した。2010年までに第1列島線内の制海権を確保し、2020年までに伊豆諸島-グアム、サイパンを結ぶ第2列島線までの防衛ライン拡大を狙う。中国は沖縄本島~宮古島間の海域を押さえ、宮古島以西の日本領土分断を狙うとの指摘もある>



支那が「戦略的国境線」と言い出したのは1987年だ。このときに今日、2010年の大晦日までに「第一列島線を突破する」と予告している。ギリギリ間に合わせた感じだ。そして、支那のいう「戦略的国境線」とは東シナ海や南シナ海は当然ながら、これはそのまま「日本列島を包み込む形」で太平洋に広がる三百万平方キロのことをいう。支那がこれを言ったとき、日本のマスコミやら評論家やらは「荒唐無稽」だとして相手にしなかった。一部、常識的な言論人が「支那脅威論」を論じると「反中」やら「右翼」のレッテルを貼付して馬鹿にした。数年前からは「ネット右翼」などという造語も手伝い、如何にも日本の将来を案じる人らが「中国が攻めてくるぞーww」と馬鹿みたいに煽っているとしたい輩も跋扈し始める。支那というのは民主党と違い、自らが定めたことは、それこそ「人民を大虐殺をしてでもやる」と周知であるはずだが、平和依存症の「ど左翼」にはわからなかった。



支那は着々と「有言実行」を進めてきた。1985年には支那海軍は沿岸警備から近海防御戦略に切り替えた。これは民主党みたいに隠れて黙ってやったのではなく、ちゃんと「解放軍報」という機関誌に書いている。政治家ならば読んでくれていないと困る。



1990年代に入ると、日本近海で支那のフリーゲート船やらミサイル哨戒艇などの「軍艦」が珍しくなくなった。海底油田の試掘が始まったのもこのあたりだ。そして10年前、2000年には支那共産党軍の情報収集艦「海氷723」が日本列島の周りを舐めたようにぐるりと一周した。もちろん、のんびり遊覧していたわけではない。アンテナはくるくる回り、海中にも調査機材が放り込まれている。ゆっくりと仕事を果たした「海氷723」は三陸沖を南下、四国の南の海へと手を振りながら去って行った。日本は支那の原子力潜水艦が動き回るための調査を繰り返し許したのである。もちろん、このすぐあと、今度はミサイル観測をする情報収集艦「東調232」がやってきた。これに日本もアメリカも何もできず、また、支那の軍艦は日本の近海を我が物顔で調査して帰った。



翌年、当時の日本の外務大臣が支那と協議した。そのときの外相は「河野洋平」だ。この腐れ外道が約束してきたのは「事前通告」だけだった。「互いの排他的経済水域に入るときは、事前にお知らせするようにしましょうね」というのが精一杯だった。もちろん、支那はこれを逆手に取る。つまり「事前に通告すればいつでもなんでもいい」となる。結果、当然だが支那の調査船は激増する。ここに世界史上類を見ない「事前通告されてから領海侵犯させる国・日本」が誕生した。友愛の塊である。



ちょうどその年、2000年の9月にはアメリカの調査船「ボウディッチ」が支那のEEZに入って海流などを調査した。支那は直ちに艦艇を派遣、航空機も接近させて厳重警備することになった。支那は「米軍が海流や海水濃度を調べていたことは明白。潜水艦の航行に必要な情報を収集した」と猛烈に抗議した。これが日本以外の国からなる国際社会のルールである。こうやってひとつずつ、支那は日本という国を理解し始める。



2002年5月8日、支那の瀋陽というところにある日本領事館に5名の北朝鮮家族が逃げ込んできたことがあった。韓国の支援者らがビデオを撮っていたから、この映像は日本で何度も流された。現在の仙谷内閣ならば、その「ビデオ映像」はネットでしか見られない可能性もあったが、幸いにもビデオの管理は韓国のNGOが行っていた。



尖閣の映像は日本人を憤らせたが、この瀋陽における「北朝鮮家族の亡命失敗映像」は日本人に失望感と無力感を与えた。ちょっと思い出してみよう。



2002年5月8日昼過ぎ、支那武装警官数人の間を駆け抜けた男性2名は、日本の総領事館の中に逃げ込んだ。男性2名はそのまま、領事館の建物へと消えて行く。後方には残された女性2名と小さな女の子がいた。当時2歳のハンミちゃんだ。支那武装警官はひとり目の女性を捕らえると同時に、ハンミちゃんをおんぶしている女性を引きずり倒した。母親が屈強な武装警察に木の葉のように扱われていたのをハンミちゃんは目前で見たのだ。



そこに出てきたのが日本総領事館の査証担当副領事だ。男性2名は既に建物の中だったが、副領事の目の前では女性2名が泣き叫んでいる。その横には小さな女の子が立っていた。副領事は黙って立っているだけではなく、日本総領事館内に落ちていた武装警官の帽子を拾って手渡した。これがある意味で象徴的なシーンとなった。



「日本側が何も言わない」と判断した支那武装警察は、既に建物の中にいる男性2名も連れ出し、領事館正門の脇にあった詰所に押し込んでしまう。警官であれ兵隊であれ、武装した外国人が日本の総領事館にズカズカと入り、一ミリも日本の都合なども確認せず、自国の事情を優先させて行動した。この映像を見た世界の反応は、失われた日本の国家意識が云々というより、単純に「目の前で女性や子供が人権被害に遭っている現状を黙って見過ごした日本」という評価が下された。副領事が支那人警官に「お帽子を拾って差し上げた」様子が何度も流された。国辱である。また、これは蛇足だが、その当時「スマップ」がなんかの番組で「大使館に向かって走り、警備に取り押さえられ、誰かが帽子を拾って渡す」という明らかに瀋陽事件をパロディにしたコントをやって苦情が殺到したらしい。ウソかホントか知らないが、これ本当だったら相当な阿呆である。「今現在の日本人」とは世界でどう思われているのか、保守の人らも考えを改める必要があるかもしれない。



こういうことを繰り返すと、国際社会は「日本は与しやすい、どーにでもなる国」という評価だけではなく、さらのその下の評価で「何か疾しいことでもあるのか?」という疑念を持たざるを得なくなる。そしてちゃんと、その「疾しいこと」も支那朝鮮やらアメリカやらロシアやらが一致団結して用意してくれている。「過去の戦争犯罪」だ。



瀋陽事件に戻ろう。事件発生後、支那は臆面もなく「(立ち入り許可を得ずに敷地内に入ったことは)日本の公館を守るための措置だった」と言い抜けした。なんとも「火災などの場合は同意を必要としない」というウィーン条約31条第2項を挙げた。また「現場の警察官が使命を全うしただけだ」と強弁した。日本の川口外相(当時)は「女性や子供が門にしがみついて泣いていた。明らかにテロリストなどではないではないか」と反論したが、これも「映像があったから」できた反論だ。



しかしながらこの2日後、支那の言い分がおかしなことになったのは周知の通りだ。



つまり、



「同意は得ていたし、その証拠に副領事は謝意を示した」



と言い出した。理由はわからないが、その場にいた副領事は「酷く落ち込んでいる」とのことで、また、警備担当の副領事は支那武装警官20名の前に、両手を広げて立ちはだかったらしい。北京にいる日本公使からの指示を待っていた、と調査報告書などには記載されていたとのことだが、問題はこの指示が「無理せず引き渡せ」だったことがわかり、支那は態度を豹変させたのかもしれない。しかし、だ。



結果的には5名とも韓国に亡命した。翌年の2003年にはハンミちゃん一家が来日して、日本国民からの支援に対する感謝と、日中の外交関係に影響を及ぼしてしまったことを謝罪した。支那は5名を北朝鮮に送り返さず、亡命させるしかなかった。これも「映像が公開されていた」からであろう。「ハンミちゃんが母親の涙をぬぐう姿」が同情を引いたこともあろうが、何よりも「誰が見てもすぐにわかる映像」というモノを公開していたからだと自明である。



また、無論、このときの小泉政権も批判された。当時の駐中大使だったチャイナスクールの阿南惟茂も叩かれた。もちろん、叩かれて然るべき部分はあろうと思う。しかし、だ。小泉内閣は一貫して支那に「北朝鮮の5名を日本に渡せ」とやった。「中国は日本に謝罪せよ」も譲らなかった。今から思えば、この程度の当たり前が、どれほど頼もしく感じるのか。まったく情けない限りだ。



同年5月10日に行われた衆議院本会議で川口外相は、



「中国側の対応は関係の国際法及び人道上の観点から極めて問題であり、非常に遺憾と考えている。特に中国の武装警察が我が方の同意を得ることなく総領事館内部に立ち入ったことは、いかなる理由があれ、日本として到底受け入れられるものではない」



と明言している。日本はまだ、今と比して「普通の国だった」とわかる。もちろん、平和依存症の呆けたような安全保障だったかもしれんが、まだ、なんとか、今よりはずいぶんマシだったと実感できる。私はそれが怖い。



http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101230/plc1012300800002-n1.htm

<尖閣事件 中国側「海保が船長殴打」と言いがかり 政府は公表せず>



<9月の沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐり、中国外務省が丹羽宇一郎駐中国大使に対し、「海上保安官が船長らを殴った」と主張していたことが分かった。複数の日中外交筋が29日までに明らかにした。海上保安庁は事件当時、国際問題に発展することを念頭に穏便な対応を取っており、日中双方にけが人も出ていない。中国側の主張は事実無根の「言いがかり」だが、政府は世間の反中感情の高まりなどを憂慮し、船長らを拘束する際の映像を公表しなかった



<衝突当時の映像はその後インターネットで流出し、「海保の巡視船が衝突してきた」とする中国側の主張は覆された。しかし、日本政府は拘束時の映像について「今後の取り締まり活動に支障を来す恐れがある」などとして今後も公表しない方針だという>



一色氏などの海上保安庁の人らが、自らの職を賭してまで「映像公開」した理由がここにある。仙谷などの民主党一味がひた隠しにする理由もここにある。理由は明白だ。「支那にとって不都合は自分にも不都合」なのだ。利害関係が一致しているのだ。



日本国を憂う人らは10年前どころではなく、もっと前から心配していたのかもしれないが、それでも10年前に「このままでは支那海軍は脅威になる」と言っていた人や「尖閣諸島などの領有権を奪いに来る。このままでは実効支配される」と危惧していた人らは今、口を揃えて「沖縄も危ない」と言い続けている。これに対しても「ンなわけないw」とする論調はマスメディアの主流だ。このままでは、また、やられるし、いま、やられている。



軍事力と経済力の両方から、そして人口侵略は止められぬ勢いとなっている。資源も資本も買い尽くされ、それでもまだ、多くの日本人は「自分のことしか興味がない」と気付きもしない。それがまさに「自分のところ」まで来た時には遅きに失するでは済まない。









――――私は今、自分の足場が崩れているから、とりあえず、これを直す。それが「虹の会」の決まりでもある。どうせ、来年は準備期間だ。それは以前から決まっていたことだ。バッタもカエルも跳ぶときはしゃがむ、のだ。さてさて、来年もがんばる、か。


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