忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「でもデモやねん~2010~」

2010年01月26日 | 過去記事


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久しぶりに、三面記事を読んで泣けた。成人の日であった今月の10日、青森県であった火災である。翌日の新聞報道によると、自宅が燃え上がり、ようやく脱出したのは母親と7歳の長男と5歳の次男であったのだが、この兄弟が「おとうさんのところへいく」と言い、燃えさかる玄関から自宅に入り、結局、父親と共に死体で見つかったということだ。

もしかすると、この父親が遠のく意識の中、絶命を覚悟した瞬間に目に飛び込んできたのが、己の子供たちだったとすれば、その父親は、己の消えゆく命に絶望するよりも、我が子らの想いを目の当たりにし、幼い命ながらも共に死なねばならない運命を呪い、何ともやり切れない気持ちで最期を迎えたのではないかと察するに、なんとも胸が詰まるのである。

また、この父を想う幼き兄弟が、ようやく、這うようにして逃げ出した母親の安全を確認した後、どちらからともなく「あとは、お父さんだ!よし!ゆくぞ!」と勇気を振り絞って火炎の中に飛び込んだ純粋さに、我ら兄弟は男子であるという幼き覚悟に、なんとも崇高な魂をみるのである。幼き兄弟よ、どうか、どうか、安らかに、お父さんと共に眠って欲しい。心からご冥福をお祈りする。




そして、その横の記事に目をやれば、今年も「新成人3名逮捕」とか書いてある。次の日の産経新聞でも「ハタチの無自覚」として、近畿各地の成人式の「様子」が書かれている。また、この主催者側は、毎年毎年、躾のなっていない「野生の猿以下」の行儀の悪い餓鬼どもに手をあまし、今度はまさに、先ほどの兄弟の年齢である小中学生を使って「彼らも後輩からマナーを指摘されると恥ずかしいに違いない」という恥ずかしい責任転換から、小学生から新成人に「携帯電話の電源はお切りください。会場での私語は止めてください」とか言わせている。

新成人の羞恥心を刺激するため小学生を使うならば、使われる側の小学生が被る「なんで、こんなのが大人なんだ?」という侮蔑するやもしれぬ心には気が回らないのだろうか。

大阪の阿倍野区でも「式典の間の30分だけは静かにしてください」と注意するも、野次や私語はともかく、指笛を吹いてほたえる阿呆もおり、更には会場整理の運営スタッフを蹴るという暴力行為もあったそうだ。この「新成人」は注意されただけらしいが、その運営スタッフとやらは、今度、私にも蹴らせてほしい。注意されれば止めるから。

しかも、せっかく阿倍野でやるのだったら、阿倍野の職安の2階でやればいい。寝転んでいる運営スタッフもおろう(笑)。カラスとハトも祝ってくれるだろう。猿以下の糞餓鬼どもに社会を教えるには最も適した場所だと思うのだが?


ま――――

ところで、今年の成人式会場も「黙りなさい」「座りなさい」「人の話を聞きなさい」と注意する声が後を絶たなかったみたいだが、昨日の国会なんぞをみていると、同じようなもんだと呆れ果てた。一国の大臣が「座りなさい」と注意される国の餓鬼が「大人しく座って話を聞く」ということが出来ないのも道理である。マスコミが「荒れた成人式」と書くのは1月の半ばまでだが「荒れた国会」ならば、国会開催中は珍しくもない。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100125/plc1001252028014-n1.htm
<前原国交相、自民・町村氏に逆ギレ「さっきから聞いていたが…」>

何とも情けないが、言い分はこうだ。

<さっきから話を聞いていたが財政赤字を膨れ上がらせて、バラマキの公共事業をやってきたのはどの政党、政権か!ダム、空港、港の維持管理だけでも大変だ。これ、どうするんですか」>

これを言っていい場合というのは、誰かに無理矢理、胸倉を掴まれて、辻本清美のようにヤダヤダと断り続けながらも「やれ!」と言われて脅されて、しぶしぶやっている場合に限られる。語尾に「だから、イヤだと言ったんだ!」と言えないだけで、言っている内容は同じことである。

あれほど「ヤラせろ!」と言い、あれほど「交代させろ!」と言いながら、ダメ出しされたら「誰がやったんだ?」ならば、黙って家で新聞でも読んでろということだ。こんな単純な理屈が、現政権与党の、しかも国務大臣がわからない。しかも、マジギレである。なんともみっともない。嗚呼ぁ、みっともない。


それに、ちょっと調べるまでもなく、それをやったのは、おまえのところの「裏金大王」ではないか。「どの政権、どの政党だ!」とキレる前に、その政権でも幹事長をしていた不動産屋がいるではないか。また、お前の左横で他人の顔をしている友愛も含めて、この両者がかつて自民党にいて、決して弱くは無い影響力を持っていたことすら、このキレキレ大臣は知らんのか。世に溢れている小沢関連の書籍を読んだことすらないのか。

雑誌でも右も左も関係なく、小沢ネタは「今が旬」じゃないか。嘘もあるだろうが、本当もあるのではないか。「バラマキ公共事業」を馬鹿にするのもいいが、雇用にも経済にも関係しないと知れている「票を買うだけのバラマキ」に問題はないのか。しかも、お前らがばら撒こうとしているのは金だけですらない。皇室という日本の伝統文化も支那朝鮮にバラマキ、戦後補償という日本の誇りも支那朝鮮にバラマキ、参政権という日本国民としての主権すら、支那朝鮮にバラマクつもりではないか。もう、とっくにキレているのは「マトモな日本人」である。日本人ではなく「日本国」という国家を観ている日本人である。


http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100125/plc1001252042015-n1.htm
<外国人参政権反対集会 地方議員1万人の署名目指す>

是非とも応援したい。協力したい。この集会には石平(せき・へい)氏や金美齢女史など、日本国籍に帰化された人も参加している。実に説得力が増す。

また、このような具体性のある反対集会や、多くの人を賛同させる可能性を含むデモ行進などには奮って参加したいところであるが、そうでなければ、やはり、こういうことになる。だから、私はこのような「無用なリスクを増すやり方」に問題ありというのである。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100124/crm1001242343015-n1.htm
<「外国人参政権反対」のデモに催涙スプレー 新宿で高校生逮捕>

感情でけしかけると、感情で応えてくる者が少なからず出る。これがもし、催涙スプレーではなく、硫酸だったらどうか、これがもしサリンだったらどうだったのか。もしくは、散弾銃でデモ隊の真ん中に向けて発砲したらどうだったか。捕まったのは高校生だというが、それよりも簡単に、刃物を振り回して突っ込んでくる可能性もあろう。

これを「デモに参加するならば当然のリスク」というのは違う。これを「相手がキチガイだから」も、それこそ「みましたか?みなさん!支那朝鮮人はこれほど危険なんです!」も違うと、最初に言っておく。いや、むしろ、こんな高校生程度の単独犯で済んで、本当によかったと思う。さすがに、次からは警戒が厳しくなるだろうし、参加者にも「こういうこともある」と周知できたことは幸運ですらあった。被害者も軽症で済んだとあるし、犯人は未成年ながらも捕まった。

しかし、これが万が一、朝鮮学校の卒業生などが組織的に集まり、武装しながら市民を装い、同時に「誰でも参加できるデモ隊」に加わり、合図とともに中から外から武器を持って襲い掛かり、号令と共に四散するようなことであれば、現場はもっと悲惨を極めたはずだ。それはもう、計画的なテロ事件である。


そもそも、この犯人は「外国人地方参政権賛成!」ということで襲いかかったのかどうかだ。無論、スタンスは賛成だったかもしれない。もしくは高校生ということだから、個人的には「どちらでもいい」という感覚だったかもしれない。しかし、私は実のところ、この高校生は「反対」だったのではないかと想像する。

理由は、耐え難い支那人への差別的、且つ、侮蔑的なシュプレヒコールに対し、催涙スプレーを噴射するほどの憤りを感じたわけだから、心の底から支那共産党にどっぷりと心酔し、自宅の部屋にはアイドルのポスターの上に毛沢東の肖像画のコピーが飾られ、毎朝、五星紅旗に忠誠を誓うほどの愛国少年だったかもしれない。

何故、小日本なんぞの参政権をもらわねばならんのか。チベットや新疆ウイグルを「解放」した際も、我が支那共産党は参政権など言わず、ただ、世界最強の人民解放軍を投入し、資本主義者に搾取される哀れな人民を「解放」したのではなかったか。過去の反省もせず、我が大中華を差し置いて「アジアの雄」であるかのような立ち振る舞いをする日本鬼子を許すまじ。参政権など恵んでもらわんでも、実力行使で小日本は大中華の一部にしてやる、と思っていたかもしれない。つまり、外国人地方参政権反対のスタンスである。

そして、この高校生の供述であるが、

<同署によると、男子生徒は容疑を認め、「声をかけられてかっとなり、もみ合いになった。催涙スプレーは護身用に持っていた」と話している>

無論、高校生が「護身用」であれ、ここは日本であるから、催涙スプレーを持ち歩くのはどうかと思う。私が気になったのは<声をかけられてかっとなった>という部分だ。「彼ら」のデモ行進を見たことがない人は、ネットの動画なんぞ、すぐみつかるから見てほしい。

下品なシュプレヒコールばかりが目立つが、それよりも危険だと判断するのは、沿道の中に「反論していると思しき人」などを見つけたときの、彼らの反応である。各々が挑発するのはもちろん、特定することができればメガホンでもやる。その内なる「攻撃性」を発散させ、それは「集団性」の中で抑止力を失い、ある種の集団ヒステリー状態となって町を練り歩く。これを私は、以前から危険だと言ってきた。主催者は、相手を「キレさせる」ことで事件を起こし、話題性を集めようという魂胆なのかとも訝った。

今回の事件、催涙スプレーは予想外だっただろうが「掴みかかってくる」くらいは予想の範疇だったのではなかろうか。それに、明らかに怒っている相手を、更に挑発するとどうなるのかは子供でもわかる。また、平和ボケの「ど左翼」じゃないんだから、よもや「言葉には言葉で」などとは言わないと信じて書くが「言葉の暴力」の延長線上には「物理的な暴力」が厳然としてあるわけだ。相手に「死ね」という言葉を投げることは、相手次第ではあるも、実際に相手が自分を「殺しに来る」可能性を包含する。言葉というものはそういうものではなかろうか。

これは国と国との外交における失敗、すなわち戦争でもそうだ。

国と国が、口頭で文書で「戦争をする」という確認を行う。攻撃する側も「攻撃しますね」と言葉で伝える。される側も「わかりました。じゃ、なんとか、やれるだけやるしかないっすね・・」とか言う。宣戦布告である。

また、戦争中であっても言葉は交わされる。勝ってる方は「どうです?もう、参ったします?」と聞き、負けてる方は「う~む。これはなかなかキツイですなぁ。でも、もうちょっと粘ってみますかね・・」と返す。そして、戦争が終わるときは、相手が「参った!もうやめて!飢えた国民も喰わせてほしいし、とりあえず、被害状況なんだけどさ・・」と言えば「ふう。ご苦労さん。だから言ったじゃんwわかった、んで、どこから?なにがいる?」と言葉を返し、それから先は、誰も殺してはならないことになっている。



つまり――――

簡単に「これは戦争なんだ!」とか「宣戦布告だ!」とか「戦争になってもいいぞ!」とかやるということは、デモ行進中に催涙スプレーかけられるくらいは覚悟せねばならないし、参加者も同じく、言うなれば「志願兵」なわけだから、当然、殺されることもあると自覚せねばならない。まさか普段、支那朝鮮の犬だと罵る警察に訴えるような真似はせず、いやいや、どうぞ、お構いなく、我々はこのくらいの覚悟はできておりますから、と取り下げるに決まっているが、戦争だというならば、次からは雑談しながら笑いながらではなく、もう少し緊張感を持って気をつけて歩いたほうが良いし、女性や年配の方は参加をお断りする配慮も一考してほしいところだ。危ないョ。


デモとは「デモンストレーション」のことであり戦争行為ではない。すなわち「非暴力」が大前提のルールであり、また、これも常識的に「言葉の暴力」もご法度なのである。デモを起こすということは、必ず、国家であれ企業であれ、団体であれ組織であれ、非難する相手がいるということだ。また、非難するということは、なんかしらの要求があり、それを可及的速やかに履行させるという目的があるはずだ。それを然るべき機関、然るべき相手に訴え、自らの「目的の正当性」を市井に問いかけ、多くの賛同者を得て、そこから「世論の声」として盛り上がるから、個人では話が通じない相手でも「聞いてみるより他ない」という状況に追い詰めることが、デモンストレーションの効果である。

「デモンストレーション」という言葉をyahoo辞書で引けば、


デモンストレーション【demonstration】
1 抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。デモ。2 宣伝のために実演すること。3 競技大会で、正式の競技種目以外に公開される競技・演技。公開演技。


と書いてある。「戦争」とか「宣戦布告」と書いてないばかりか、宣伝のための実演とまで書いてある。私はすぐに「プレゼンテーション」という言葉が浮かんだ。よく似ていると思う。「多くの人を共感、賛同させて目的の達成を計る」という意味では同じだからだ。



ま、

少なくとも、だ。


新成人であれ、国務大臣であれ、大の大人が「静かにしなさい」とか「座りなさい」とか言われたり、運営スタッフさんの手を煩わせたり、抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すだけなのに、警察官に抑えられたり、服を掴まれたりしながら行うデモというのは、何を言っても説得力がないということだ。

そんな彼らには、こんな接続詞をつけてみよう。yahoo辞書からだ。




で‐も[接]
[接]《「それでも」の略》1 前の事柄を一応肯定しながら、それがふつう結果として予想されるものに反する内容を導くときに用いる語。にもかかわらず。それでも。しかし。




口語ではよく使う。「でも」だ。

これを用いれば、なんとなく、意味もわかる。

「でもデモやねん」

うむ。しっくりくる。反省もできるぞ。

「昨日のデモはあれでもデモだったとでも?それでもデモはデモでもあるが、」


でもー!!


それでも、あれでも、これでも、どれでも、でもー!


ま、前原はとりあえず、椅子にでも座って水でも飲め。

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