忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

スぺランカーの生き様~「段差社会」とは~

2010年01月27日 | 過去記事


竹島プロジェクト参加中です!!







会社員だったころ(泣)、私はよく新入社員や若い社員なんかとも話すタイプの管理職だったと思う。なかなか面白い話を聞けることもあるし、社内での円滑なコミュニケーション、働きやすい職場環境整備の観点からも必要だと思って、私なりにやっていた。まあ、たまには「阿呆の極み」のように厳選された、磨き抜かれた本物の阿呆にも出くわすが、それはそれで、ちゃんと社内で冷遇して、理不尽と不条理の合わせ技一本、社民や共産の耳に入れば吊るされるほどの労働差別よろしく、腐った人罪(材)は元から斬ることが肝要。ずばっと、ね♪んで、(だから)最後は会社の命運も斬っちゃった♪あははw

んで、将来の目標とか人生の目的なんか聞くのだが、聞き飽きた言葉がこれだ。

「普通でいいです」

なんともまあ、舐め腐った希望ではないか。プロ野球選手が開幕前の抱負を聞かれて「一軍定着ですかね・・」とはわけが違う。これはもう、ドラフト外で拾ってもらった草野球レベルの選手が、たまたま通りかかった新聞記者の気まぐれで、んで、どうなの?とインタビューされた際、「優勝でいいです。MVPでも結構です」と言い放つに等しい。みんなが必死で掴み取ろうとしているものを、ああ、じゃあ、それでいいです、みたいな感覚だから、想像力も覚悟も「その下」を予想せんのである。でもー!!!

ともあれ、普通とは何か。

ここにも何度か書いたが、まだ、1月だし、もう一度書いておく。

「普通」とは「普く(あまねく)」「通(ツウ)」のことである。広く広く、深く深く生きるということだ。人生のレベルで言えば、艱難辛苦を味わいながらも、そこに生きる意義を見つけ、寒風酷暑に耐えつつも、今日を生きる喜びで胸が満たされるような、嗚呼ぁ!なんて美味い水なんだと五臓六腑に沁みわたる生き方を「普通の生き方」という。これは究極、且つ、頂点なのである。簡単にてれっと言うもんぢゃないのだ。


しかし、ま、簡単に言うと、死んでなければ良い(かんたん♪)。


でもー、これがまあ、なんとも大変らしい。2009年の自殺者も3万人を超えたと新聞でやっている。連続12年達成!10万人当たりの自殺者は世界第10位!先進国ではトップクラス!支那にGDPは抜かれても、自殺者では負けませんよと、大阪はついに「犯罪ワースト記録」を名古屋に譲り渡したが、なんのどっこい、日本の自殺者は「過去5番目の多さ」だとか。しかしながら、この大阪に犯罪発生率で勝つとは、いったい名古屋は一体どうなて・・・はっ!・・・ひろっちゃんが大阪から名古屋に引っ越してからか・・・あわわ・・

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/suicide/?1264471235
<昨年の自殺者、5番目の多さ=504人増の3万2753人-9月以降は4カ月連続減>

私はこの見出しを見て、時事通信のあまりの優しさに自殺しそうになった。

<9月以降は4カ月連続減>・・・・あれか?自殺しようと思ってたけれども、なんか、民主党が埋蔵金とか子供手当とか、なんか、ともかく金くれて助けてくれるらしいぞ?友愛・・・?なんていい言葉なんだ・・もう少し、もう少しだけ生きてみよう・・・この政権交代にかけてみよう・・というアレか?年明けて増えたら、今度は何て言うんだ?

また、この時事通信の記者は「自殺者が減ったのは政権交代かも?」と書きたいのかも知れんが、ならば、自殺者が3万人を初めて超えた1998年の4月に「民政党」と「新党友愛」と「民主改革連合」が合流して、今の民主党が出来たことも書いておけばどうか。ま、どっちも関係ないがね。


ところで、この「3万人ちょっと」というのは、よく「交通事故死の5倍!」とか言われる。そう聞くと、うわぁぁぁ!!そんなに多いんだぁぁ!!とかなる。しかし、他にも「3万人」という数字ならある。しかも、この数字も平成15年から増大しているのだ。

それは「捜索願が出された行方不明者」のうち「特異家出人」に分類される人数、平成19年度の警察白書にある「33752人」という数字だ。「特異家出人」とは「事件に巻き込まれたか、自殺の恐れあり」とされる家出人(行方不明者)のことだ。ちなみに、同年の「捜索願」が出された人数は「88489人」とある。しかし、これは平成15年度では「101855人」だったから、それでも減少傾向にあるわけだ。しかも、興味深いのは、先ほどの「特異家出人」である。捜索願の総数が10万人を超えた平成15年度の「特異家出人」は「30107人」となっている。つまり、この5年間で捜索願の総数が「13366人」も減少しているのに、そのうちの「特異家出人」は「3645人」も増えているのである。奇妙な逆転現象である。しかし、ま、これはひとまず措く。



言うまでもなく、日本での自殺者が1万人ほど上乗せされたのは、先ほども書いたが「新生民主党」が「国民の生活が第一」と言い出した1998年だ。それからずっと3万人を超えているとマスコミでもやっている。よく語られる理由は、民主党ではなく(笑)、やはり「バブル崩壊」である。1998年の日経平均株価を見てみると、1万3842円17銭とある。バブル崩壊後、最安値を出した年だった。

企業の倒産件数は、もう少しで2万件に届くところだった。大きな証券会社や銀行がぶっ飛んだ。いわゆる「バブルの崩壊の底の底」であった。テレビでも「その後の推移」などとして、企業の倒産や失業者の増減などと「自殺者の数」を並べたグラフをみせることがあるが、それをみれば「失業者が増えると自殺者が増える」ということに間違いはなさそうだ。たしかに、同調しながら推移していると思われる。

また、これも有名な話だが、日本の自殺者の動機は1位が健康問題で2位は経済問題というのは変わらない。そして、その年齢層は圧倒的に中高年が多いのも「日本的な特徴」といえる。例えば、アメリカなんかだと「75歳~84歳」の老人が最も多い。動機はもちろん、健康問題である。ちなみに、日本の警察庁が統計する「自殺者」の最年少単位は「10歳~14歳」であるが、これがアメリカだと「5歳~14歳」になっているところが恐ろしい。5歳で自殺とか、どうしても考えられん。さすがは個人主義の自己責任の国、怖い国だ。



これは私の主観だが――――

要するに「バブル崩壊」は「きっかけ」だったのではなかろうか。それ以前も2万程度は自殺していたわけだし、そもそも、日本は世界一の長寿国である。「高齢者の自殺率」がトップである諸外国のデータを見る限り、ならば日本はある意味、ダントツで自殺者が多くなければおかしいのである。例えば、世界の自殺率の上位にロシアがある。(1位はリトアニアだが、これも旧ソ連邦内の共和国であった。)ロシアの自殺率は男性が女性の数倍である。そして、ロシアの平均寿命は女性が72.1歳前後なのに対して、男性は58.4歳ととても低い。原因は言うまでもなく、酒の飲み過ぎである。だから、ロシアでは、日本でいうところの「還暦」を過ぎても健康を維持している人が極端に少ないであろうことは想像に容易い。で、あれば、これは世界共通、自殺の動機トップは「健康問題」であるから、ロシアの自殺率が高くなるのも自明の理となる。

また、オーストラリアやニュージランド、ノルウェーやタイなどは「20歳~34歳」の自殺が最も多い。無論、これらの国は自殺率そのものが低い。老後を悠々自適に過ごすことが出来る国なのかもしれない。今まで頑張ってきて、今更死ぬなんてもったいない、さあ、これからは若いモンが働けよ!いえー!とか思っているなら結構なことだ。

つまり、世界のどの国でも、自殺の動機は「健康問題」がトップだ。ならば、健康を害しやすい高齢者ほど自殺率が高くなるのも理解できる。もちろん、日本も高齢化社会とか言われて久しいし、少子化も問題となっているし、医療の問題や介護の問題が騒がれるのだが、存外、年寄りは死なない(笑)。

世界最高の長寿国・日本の自殺者で最も多い年齢層は、75歳以上の高齢者ではなく、いわゆる「働き盛り」の中高年(50歳~64歳)である。これは矛盾しているし、だからこそ日本の自殺率は先進国と比して高くなってしまうと思われる。死なない層が死ぬのだから、必然的に数値は伸びることになってしまう。これに対して、なんでだろう?とか思っていたら、やはり、外人がこんなことを言っている。

WHO精神保健部のホセ・ベルトロテ博士という人は「自殺は日本の文化的な問題」と言っている。「名誉を守る。責任をとる、などの倫理規範として自殺する」と述べている。イギリスの雑誌に「日本人の自殺-死は誇らしいか」というタイトルで、


<日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。サムライは自殺を気高いものと見なす(たとえ、それが捕虜となってとんでもない扱いを受けないための利己心からだとはいえ)。仏教や神道といった日本の中心宗教は明確に自殺を禁じていたアブラハム系信仰と異なって、自殺に対して中立的である。」日本政府は9年間に自殺率20%減を目標にカウンセリングなどの自殺対策に昨年乗り出したが、重要なのは社会の態度であると結論づけている。「一生の恥と思わせずにセカンドチャンスを許すよう社会が変われば、自殺は普通のことではなくなるであろう>


と書いているものもある。すなわち、切腹だと言いたいわけだ。特攻隊だと言いたいわけだ。これはいかにも浅薄な「日本像」からなる大間違いである。イギリス人が大皿に山盛りの料理を取りながらガツガツ喰っていても、それをみて「バイキングの子孫だから、やはり、食事はバイキング方式だな♪」など言わないのと同じだ。それに、外人がわからないのは無理もないが、切腹や特攻と自殺を同列で語るところからして間違えている。当たり前すぎる話だが、特攻隊は自殺ではない。「die」とか「kill」しかない外人には難しいかも知れんが、この場合は「散華(さんげ)」という。3万歩譲っても「戦死」であろう。決して自殺ではない。この博士は日本を語るなら、ちゃんと勉強するように。



そして、これは内緒だが、1998年からの日本の自殺者増における要因に、私はそんな「潔い」ものはないと思っている。外人、ちょっと日本を良い方に勘違いしているのである。



私は先ほど、1998年の「バブル崩壊」は日本の自殺者急増における「きっかけ」ではないかと書いた。それからずっと12年間も3万人オーバーで推移していることも事実であり、政権交代の実感も虚しく、2010年、それと近い数字が出るのかもしれない。もしかすると、民主党政権に絶望して、もっと増えるかもしれない。


そのヒントが、先ほどの「特異家出人」の数字である。捜索願の総数は減少しているのに、自殺や事件に関連する可能性のある行方不明者は増えている。これが何を意味するかというと、「ど左翼」が喜ぶ言い方でいえば「社会が悪い」であり、「朝鮮人は出ていけー」が喜ぶ言い方で言えば「個人が弱い」なのである。私は無念がら(笑)、後者の方だと思う。


良いか悪いかを別として、日本の社会は戦後から豊かになってきた。便利になり、豊富になり、清潔になり、安価になり、出来るだけ平等に、可能な限り公平に生きていけるようになった。もちろん、統計があるかどうかを問題にしなければ、戦中や戦後も自殺者はあっただろうし、もしかすると、その自殺率はすごいことになっていたかもしれないと、私は思う。それでも、1998年からの日本の自殺者3万人が「異常な数字」だとするならば、やはり、その原因は「落差」ではないかと思う。「格差」ではない。


はっきり書くと、平和ボケだ。「無くて当たり前」と考えることからスタートするのではなく、「無いのはおかしい」から思考スタートすれば、それはもう、とても弱くて軽いものになる。まるで「スぺランカーの主人公」のように、それって段差なのか?という躓きで死んでしまうほどの弱さであり、そんなんなら冒険に出るなよwwということだ。

「落差」に耐えられないから、ちょっと何かあれば姿を消してしまう。不安定な状態のまま、自暴自棄になって、社会から乖離したいと錯覚し、誰にでも起こりうる程度のことを思い詰めて、悩みや問題を手の届かない深淵に突き落とす。

これもひとつの「平和ボケ」なのである。


例えば、「はぶて師匠」が書いていたが、「mixi」で参加者を募り、ハイチの被災地に「千羽鶴」を折って贈ろうというグループに「バカなことは止めろ」と怒ってらっしゃる。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=336766&log=20100126
<究極の平和バカ!>

もう「平和ボケ」ではなく「平和バカ」と書いているところが、よほど呆れているのだとわかるが、全くその通りで、ハイチでは犠牲者15万人の被害が出ており、未だ回復のメドどころか救難物資を暴力で奪い合う状態であり、町のあちこちで死体を運んで燃やしている。家がない、食糧がないどころではないのだ。産経新聞の記事を見ると、この「心優しいアクセサリー作家さん」の写真が載っているが、子供を胸に抱えて幸せそうな顔で、コタツに入って折り紙で鶴を折っている姿を見て、これはもう、なんというか「やらない善意よりやる偽善」という言葉もいかがなものかと思いながら、この悲惨極まりない被災地に、腹いっぱいのコタツの中から「千羽鶴」が届くのだと想像するに、これはもう、ふざけるな!と言われて国際問題になるのではないかと冗談抜きで冗談みたいな話だと思う。

この作家さんの子供が「鶴の折り方」を覚えて、お母さんに褒められている間も、ハイチの孤児は人身売買の恐怖に曝され、いつ喰えるかもわからぬ空腹を抱えて、病気になっても助けてもらえない街で、濁った水を分け合って飲み、今日も身を寄せながら不安の夜を過ごすのだ。そこに日本から贈られた「千羽鶴」が何の役に立つのかと問いたい。

ま、しかし、産経新聞が書いていないだけで、この作家さんはちゃんと現金でも募金しているに決まっている。あまり、こんなこと書きたくはないが、私は千羽鶴を折らないけれども、パチンコに負けたつもりで、飲みに行ったつもりで、それくらいの金額はネットで募金した。スマートにカード払いだ。コンビニで小銭も全部入れてきた。ま、このアクセサリー作家さんも、まさか、そんな、あんた「紙で折った鶴」などが屁の役にも立たんくらいはわかってらっしゃるだろう。喰えるわけでもないんだし。こういうときこそ、人類が開発した奇跡の道具「金」を使わんでどうするのか。どうするの!どうするのである!


つまり、話が逸れかけたが、実は逸れてない。こういう感覚のことなのである。

「ある」の規定水準が高くなりすぎている。それは「金や物の豊かさ」だけではなく、腐れ日教組や朝日新聞など「ど左翼」の所為で、それは「心ですら」満たされていないと「おかしい」と感じるようになった。なんでもないのにバタバタ死んでいくのは戦後日本人の「平和ボケ」の当然の帰結なのである。

「ある」が当たり前となるとき、「ない」は現実ではなくなる。リアルでなくなる。だから、この作家さんはハイチに折り鶴を送ろうと思い立つ。だから、日本の中高年は経済的な理由で死ぬのである。現実でないなら、もう、対応できないからだ。



それに、先ず、本気で自殺を減らしたいと思うならば「自死」などという妙な言い回しを止めるところからだ。自殺は自殺だ。「自死」としたいのは、遺族感情に配慮してのことかもしれんが、それはいわば「本人の責任ではない」と言いたいのであろう。だから、根本的な問題がするりと後ろに回り込んで見えにくくなる。いつものことだ。

「事故死」「病死」などは、本人に原因があっても不可抗力の部分も考えられる。しかし、この「他殺」という言葉は、報道でも「自殺と他殺、両方での捜査が~」とかやるから、気に入らんのだ。この「殺」という文字が「自分を殺した」という罪悪感、あるいは自己都合の部分が強調されるから敬遠したいのかもしれない。しかし、そんなことでは何ら解決しないと断じておく。他人を殺すから他殺、自分を殺すから自殺、このくらいの基本を押さえておかないと、何ら話にならんのである。

ならば、自分を殺したいときとはどんなときか。




これは絶望ではなく、失望ではなかろうか。

「こんなことじゃ、この先、生きていてもどうせ・・・」
「何もかもが嫌になった。もう、死んでしまおう。もう、どうでもいい」
「もうダメだ、もう死ぬしかない・・・」

と失望してしまうレベルがあまりにも低い(高い?)。私からすれば、何様かと思う。どこのだれが己ごときに、なんの、どんな期待をしているのかということだ。別に地べた這ってでも勝手に生きていればよいものを、なにが、どんな失敗をしたというのか。

誰でも、それほど、大した人間でもあるまい。

要するに「殺人」と同じなのだ。自分勝手な価値観で、自分勝手な理由で「命を奪う」ことは同罪である。それが自分のなのか、人のなのかの差異があるだけだ。みっともなくとも、悲惨であろうとも、それを理由に人を殺してはならないのと同じく、そんな理由で自分を殺してよいはずもないのである。ただ、加害者と被害者が同じ人間だから、逮捕、起訴することは不可能であるも、宗教観念を持ち出さずとも、道徳観念の範疇で罪は罪だと知れるわけだ。私はこう思っている。

だから、私はどんなに辛くとも、誰も殺さないし、自分も殺さないできた。これからも、出来るだけそうありたいと願う。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。