あまり知らないことは黙っている方が良いのだが、南アフリカでワールドカップが開幕した(?)とか。世界でも有数の“治安の悪さ”を知りながら、参加国は厳重な警備でサッカーをしに行くらしい。私はとくにサッカーを知らないから、とりあえず、日本頑張れ、とだけ言っておくが、勝つにしても負けるにしても気をつけて帰って来て欲しい。
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20100607-638769.html
<南アは危険?韓国TVスタッフ相次ぎ襲撃>
商売をしていると、いわゆる「紋日」というものがある。元々は遊女の仕来たり、この日は絶対に客を取らねばならないとされる日だ。現代の日本においてもキャバクラやラウンジですら、クリスマスやバレンタインデーに客を呼べないと嫌味を言われたりもする。スーパーでもクリスマスは鶏肉屋が主役になる。果物屋も売れる。節分の巻き寿司の売り上げにも驚いたりするし、魚屋のメインの陳列台にはイワシが並ぶ。パチンコ屋なら正月だ。「初勝負!」とか「初打ち!」と言われれば、出ないとわかっていても足が向く。
南アフリカの強盗屋さんの「紋日」は、この「ワールドカップ」だろう。サッカーどころではない。この機を逃してなるものかと、いつもよりも綿密に計画を立て、用意周到、準備万端、凶器の手入れも念入りに、この場合は殺す、この場合は攫う、様々なルールが策定され、いつもは敵同士のグループであれ、この時ばかりは稼ぎ優先、1年分と言わず5年10年、しっかり稼ぎましょうと手を結んでいるのだろう。
<韓国でW杯全64試合の独占放送権を得ているSBSの教養局ディレクターが市内を自動車で移動中、信号待ちのスキを襲撃された。突然窓ガラスを割られが、暴漢に車内の荷物を奪われる前に急発進。車を破損された以外の被害はなかった。また、MBCの本格派社会ドキュメンンタリー番組「W(ダブリュー)」のディレクターも襲われた。現地ガイドと夜間の同市内を取材していた。同ディレクターが公衆トイレに入った直後に首を絞められ、短時間失神。数分後に意識が戻ったが、パスポートと現金はなくなっていた>
「外国人を殺せば、明日から警備が厳重になる」ことくらい、向こうでは10歳の子供でも知っているのだろう。警備もつけない自動車が信号で止まるなど、普段では考えられぬ簡単な仕事、相手が持ってないなら銃もいらない。観光気分の外国人など、まさに濡れ手で粟、入れ食い状態の釣り堀よろしく、南アフリカでは子供のお遣い程度の感覚なのかもしれない。これからワールドカップ閉幕まで、それが大勢やってくる。
「仕事が無いからゲリラになった」という子供がいる土地で、政府軍に入って初めて「肉の乗った飯を喰った」という子供がいるところでサッカーするなら、それすら無理な子供は「強盗しかない」ということは誰でもわかる。腐った芋虫を奪い合って生き抜く子供がいる国で、10歳に満たぬ女児が数百円で売春する国で行わねばならないことは、サッカー以外にもあろうと思う。日本人が学校をつくり、そこでプロサッカー選手だった人がサッカー教室をつくる美談とは違う。そんな民間交流はあって良い。やればよいと思う。
しかし、各国が「国名で競う盛大なイベント」を行うとなれば、その国の民は腹いっぱいでなければならない。安心して眠れる家が無ければならない。今日も明日も急に死なずに済む安全を確保していなければならない。町は独りで歩けねばならない。順序がおかしい。
個人の金持ちが贅沢するのは何も思わん。そのような格差を考えるのは国家であり、政治の仕事だからだ。アメリカのように「金持ちは銃を持った警備員を置く」ことが常識となっても仕方がない。人類皆兄弟、人間は全て平等とはいかないから、一部の金持ちと多数の貧乏人という構図はなくならない。それにはっきり言ってしまうと、私はそれが「人間の普通の姿」だとすら思う。ある意味、個人としての健全だとも思う。これに「なんてひどい!」と非難する人は、清潔な水が飲めて腹いっぱい喰える子供に支給される子供手当をアフリカに送れと言いたい。全額支給となった暁には五兆円を超えるらしいじゃないか。それを全額、世界の恵まれない子供に寄付すれば良い。ならば税金も払い甲斐がある。
また、支那の五輪も万博も同じく、数千万円する高級車に乗り、数億円するマンションを所有する支那人の横で、コンテナに住む支那人がゴミ箱を漁っていてもどうしようもないが、支那共産党の一党独裁国家であれ、国家プロジェクトとしてオリンピックするなら、先ず、己のとこの人民をなんとかしろと思うのみだ。国際博覧会より、上海市民の洗濯物を干すところを優先させよというだけだ。
南アフリカでワールドカップすることになり、イギリスもオランダも参加してもいいから、サッカー選手以外の何かを贈れと言いたい。お前らの所為じゃないか。資源の調達と市場の開拓、搾取搾取の植民地支配とアパルトヘイトの結果が、今の南アフリカである。そういえばイギリスはインドにもやった。インドで綿ばかり作らせて持ち出し、それを織物にして買わせる。イギリスはそれでも日本の紡績産業に負けたが、インドは疲弊しまくった。
大国が植民地支配で国を滅ぼせるならば「その逆」もできるはずだ。そしてそれはサッカーよりも優先されるべきことだと思う。最近、私は「プレシャス」(河出文庫)という本を読んだが、著者のサファイヤ氏の半生を綴った小説は壮絶の一言ではある。実にアメリカ的な格差社会、貧困と差別が複雑に絡み合う、自由経済という覆面をした人工国家の掃き溜めで生きた彼女は、実の父親から日常的にレイプされ2度の妊娠と出産を経験する。その所為で母親からは毎日のように悪罵を浴びせられ、幼年期の彼女の心はマヒしてしまう。
しかし、それでも喰えている。冷蔵庫を開ければハムがある。チーズもコーンブレッドもマーガリンもホットソースもある。実の父親から犯されて出来た子供の福祉の金でヘアバンドを買うこともできる。リーボックの靴を履いてナイキが欲しいと言うことも出来ている。生活保護も受けられる。テレビも見ている。煩わしい手続きさえすれば学校もある。万引きするファストフード店もある。これは日本と同じ、侵略されたことのない国のユルイ格差だ。近代国家における格差の底辺とは、炭水化物と脂肪分と塩分を摂り過ぎることができる。高血圧や糖尿病にはなっても餓死することはない格差のことである。
そして、いま、アフリカには支那がいる。ネオコロニアリズム、新植民地主義というやつだ。これは「武力を用いない」という条件さえクリアしていればいい。結果的に「資源の持ち出し・市場化」の流れは同じことだ。それをされた国は疲弊する。格差の底辺は喰えずに死ぬ。犯罪でしか命を繋ぐことは出来ない。
もちろん、多くの支那人はアフリカに「一攫千金」を目指して来たのではない。これもまた、国内で喰えないからだ。いま、アフリカではアンゴラであれスーダンであれ、ヨハネスブルグであれ中華料理屋が珍しくないらしい。松本仁一氏の「アフリカ・レポート」によればヨハネスブルグの市警は「中国人は銀行を使わず、現金を持ち歩く。税金対策のためだ。アフリカ人を相手に商売をするため、治安が悪い地域でも店を開ける」と支那人のたくましさに驚いているが、それだから地元のギャングに狙われないはずがない。事実、アフリカでは相当数の支那人が殺されている。親戚中から金を借り集め、ようやく辿り着いたアフリカの地で殺されていく。それでも年々、南アフリカの支那人は増え続けて2006年には三十万人を超え、現段階で七十五万人。もうすぐ百万人を超えると言われている。
南アフリカから溢れ出た支那人はナイジェリアなどの西アフリカにまで侵食する。まさに「世界を覆う」ほどの支那人には圧倒されるが、そんな状態のところに、世界中から飛行機に乗ってサッカーでも観に行きましょうという裕福な者らが集まれば、いったい、どれくらい危険なことになるかは子供でも分かろう。いや、危険なのは自業自得であるが、自国民が雨風凌げぬ家屋で暮らしているのに、サッカーを行う競技場をつくるのはどうかと思うのである。アメリカがトウモロコシで車を走らせることが非倫理的であるなら、周辺住民を強行に立ち退かせて行う北京五輪も上海万博も、南アフリカのワールドカップも同じことではないのか。合わせて治安の悪化のオマケ付きだ。
ところで、
私は日本国内における「小泉政権の負の遺産!」とする「格差社会」を言い抜けにする負け犬には辟易する。少し前の日本を思い出し、あるいは高度成長期の日本までをも持ち出して、現代の日本における無気力や不景気を政治の所為として居直る連中は大嫌いである。携帯持ってパソコン持って、週末には居酒屋で騒ぐことが出来ていながら、己自身の価値に不安を抱き、政治や社会の所為にして偉そうに文句だけ言う連中は相手にしない。「ネカフェ難民」や「年越し派遣村」など、アメリカの貧困層からすら笑われる「貧困」とは日本特有の精神的小児病であると思っている。最近ではついに「貧困ビジネス」なる意味が通らぬ言葉すら聞こえるようになった。矛盾の底が抜けている。
また、数少ない私の海外旅行経験からでも、台湾では朝まで屋台を引いて母親の誕生日にワインをごちそうしていた少年を知っている。パラオでは「仕事がなくなった」という子供がマングローブの海に潜ってカニやシャコ貝を獲り、それを空港やホテルのレストランに売って家計の足しにしていた。南アフリカでサッカーするなら、是非、台湾で開催して欲しいものだ。台北でオリンピックは十分可能だろう。盛り上がると思うぞ。私も行くしなww
もちろん、日本はワールドカップでもオリンピックでも国際博覧会でも何でもすればいいと思う。それをしてよい国だと思う。それに、だ。「昔の日本は良かった」と抜かして現在の日本にケチをつけている情けない連中は、その「昔の日本に住んでいた日本人」からは学ばんのか。遠い昔の御先祖様までは言わん。自分の親でいい。近所のおっちゃん、おばちゃんでいい。朝も早くから夜の遅くまで、なんでもやって生活していたんじゃないか?
「こんなこといいな、できたらいいな」ではなく、いま、自分には何が出来るのかだけを考え、家族のために家庭のために、おとうちゃんもおかあちゃんも、必死のパッチで働いてくれていたのではないか?よく考えると、私の周囲にいる人は「昔の日本はよかった」とは言わず「昔の日本人は凄かった」と言う人ばかりだ。これは意味が全く違う。
ま、最後、少しだけ話が逸れたが―――――
小難しい本ばかり読んで頭でっかちになってないで、もっと世間様に学ぶ姿勢を正した方が良いんじゃないか?ちゃんと喧嘩したり、恋愛したり、別れてみたり戻してみたり、仕事したり辞めたり、怒られたり叱られたり褒められたり、天下国家、政治の話や歴史の話ばかりじゃなく、昔からの友人と酒飲んで馬鹿話したり、エロ話したり、相談に乗ったり乗ってもらったり、先ずは文句ばかり言わず、あるモノに感謝できる程度の人間になってから、そうでなければ誰からも相手にされまい。誰も話を聞いてくれまい。誰もわかってくれまい。だから余計に捻じれて曲がるのだが(笑)、本来、人様に「何か分かってもらう」とは、とても難しいことだ。無理が前提である。
みんな「自分だけが正しい」と思っているなら、そここそ好機、自分は間違っていないのかを自問する謙虚さこそが、自分を少しだけ正しい方向に導いてくれる。おっと、ここで言う「正しさ」とは「伝える内容」のことではない。あくまでも姿勢、伝え方のことだ。
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久代千代太郎
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