忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」

2008年03月26日 | 過去記事
■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」1

愛妻弁当を開ける。

レンコンのきんぴらに卵焼きに・・・鶏肉の串揚げに・・・めざしが5匹・・あと、煮物が少々・・・ふむ。あっさりしとるな。では、いただきます。うほうほ。

そういえば最近、家で喰う飯もずいぶん前から「十穀米」なんぞになっておる。せっかくの貴重な「白い米」は「ふみとさん」とこの彼女の「まゆこちゃん」と「工作員2号」が、先日の「憂国談義in我が家」で全部食べてしまった。お蔭で我が家は今年の冬を越せないだろう。というか、もう春かぁ♪

そういえば、野生のあねごが生息する「あねごの里」にも春の訪れがあったそうな。もうすぐ行くから、スピッツのコンサートでハッスルして風邪ひいている場合ではないぞwwあねごん。ゆきごん。

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ところでこの「十穀米」、私は好きなのだが、どうも倅が嫌がっているらしい。「らしい」というのは、私の耳に直接聞こえる「飯の文句」が、倅の生命と財産を脅かせると知っているからである。だから、こっそりと妻に伝えているのだ。それすら告げ口されている倅はもう高校生(笑)。

ともかく、扶養されとる立場で喰いもんの文句は言わせない。そのくらいの躾はちゃんとせねばなるまい。うほうほ。

しかしまあ、つい最近まで「新聞」を「親分」と書いていた倅の「ゲーム脳」でも高校生になれるとは世の中捨てたもんぢゃないと思いつつ、そんな倅に聞いてみた。

『おまいは、高校生になったわけだが・・・クラブ活動をするのか、それともアルバイトをするのか、いや、なんの、両方するとかいうのか・・・どっちだこの野郎。』

「アルバイトする。」

かぁ~~やはり貴様も「カネかね金」か。ったく、父ちゃん情けなくて涙出てくらぁ。もっと、こう、高校生なんだから、もっと、こう、さわやか3組みたいな、あるだろ、なんか。

「働くっていう経験がしたいだけやん。お金はどっちでもいいよww」

ほ、ほほぉ・・・偉そうな・・・じゃあ、なんか奢れよ。

「なんでもいいよww」

絶対焼肉。絶対に焼肉。

「わかったwww」

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と、まあ、このように・・・だ。

頭は阿呆だが「良い子」で通っている我が倅も、もう少しすれば「ゲーム脳」が本領発揮して文化包丁持ち歩いて・・・あわわ・・・「父親に焼肉代を支払わされるのが嫌だった。誰でもよかった。」・・・・あわわ・・・きゃぁ~~!!

「2」へ

■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」2

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080325/crm0803252045039-n1.htm
<「サラリーマン風なら分かりづらいだろう」とスーツ購入 土浦8人殺傷>

相変わらず、このキチガイ餓鬼の性分を喜んで報道しているようだな。家庭環境だ、フリーターだ、ゲーム脳だ、現実と妄想の世界がなんたらかんたら、バーチャルな世界との区別がうんちゃらかんちゃら・・・まったく、しゃらくさい。

<また、金川容疑者が家族から定職に就くよう促され、反発していたことも判明。捜査本部は、家庭内の日ごろの鬱積(うっせき)が、計画的な無差別殺人につながった可能性もあるとみて、調べを進めている。>

個人的主観であるが――――――

さっさと放り出さんからこんなことになるのだ。
将来性のある幼児ではなく、こういうでかくて無駄な餓鬼を虐待しろ。虐待。

学生でなく、求職活動もせず、新作ゲームを買い漁り、「働かん」なら食わせるな。なにが「目標金額になったから(貯金)辞めます。」だ?玄関のカギを替えてしまえ。侵入したらマジで警察を呼べ。ネグレクト上等だ。放り出せ。

「定職に就け」ではなく「飯を喰うな。出て行け。」が正解である。未成年ということならば、今の時代、正社員かどうかは問わんでも構わんが、こいつは24才だという。

「3」へ

■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」3

病人でなければ、とりあえず「なにか仕事をしている」ということが最低条件であろう。収入がどうとかではなく、とりあえず「働いている」という状態でなければならん。そして親は、その半分でも取り上げればいいのだ。使うまでもなく、それこそ「貯金」しておいてだ、20才になって放り出すときにくれてやれ。

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また、このような事例が特異な例であることはいうまでもない。しかしながら、そのような「おかしな環境」からは、極稀だが「無差別殺人」までしてしまうキチガイも出てくるということだ。

もし、私の倅が20才も過ぎて、正月でも盆でもないのに我が家のリビングに入り浸っていれば、私は倅にとって最悪の存在になる覚悟がある。もう、「あいつがいるから実家には近寄らない」と言わせて見せる。倅が一所懸命に仕事をしていて、週末に飯を喰いに来たりすれば、少々奮発して美味いものを用意するだろうが、仕事もせずに就職活動もせずに、自室に入り浸ってゲームしているような状況ならば、私は親としてその時間を許さない。

無論、話も聞くし、相談にも乗るだろうが、それは倅が前向きに考えている場合のみである。「なんとかしよう」と必死ならば、背中を押すくらいのことはしてあげたいと思う。しかし、「もういいよ。どうでもいい。」などと投げやりだったり、まさか「逆切れ」などしようものならば全力を持って「再教育」する。それが親として当然の義務である。

「4」へ

■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」4

そして、その「再教育」とは、今更、髭の生えた倅を座らせて、中学生のように叱咤激励することではないのだ。それはもう、社会という現実を教え込まねばならん。

つまり、放り出す。突き放す。外の社会に突き落とす。

その際は、情の延長から「ブルーシートと段ボールは買ってやる」と倅にも伝えてある。

そしてもし、それができないとき・・・・情の延長線上にある「甘さ」を克服できず、我が子を想う情が「甘さ」に支配されたとき、「突き放す覚悟」と同じ強さの「囲い込む強さ」を発揮しよう。もう、倅は重篤、且つ、原因不明の奇病であると決める。

世間が何と言おうが関係ない。私は、この身が朽ち果てるまで面倒を見よう。それこそ、目を離さず、いつも一緒にゲームをして、アニメの話をする。仕事場にも連れて行って管理する。帰りには映画館に出かけて行ってファーストフードを買う。いつまでも小学生だと思って接しよう。そしてそれも、親だからこそできるのだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080323/crm0803232046014-n1.htm
<ゲーム好き 家族との会話なく 金川容疑者>

『貧富共に家庭団欒の至楽は、他人の得て知らざるに存じて、唯だ自ら享くるのみ。人に語るべからざるものなり。』

と言ったのは福沢諭吉である。つまり、貧富に関係なく家庭団欒とはいいものであり、自分たちが楽しいことが肝要であり、そしてそれは、他人がどうこういうものでもないし、いえるものでもないのだよ。ふふん。という意味である。まあ、24にもなるゴクツブシを置いている時点で「団欒」している場合でもないのだが・・・

それに、最近は「団欒」どころか、「会話」さえもないというのだから始末が悪い。

会話するくらい簡単ではないか。自分から話せばいい。嫌がられようが、なんであろうが、心折らずに話しかけることだ。その日が無理なら次の日もある。どこかで「もういいや」とあきらめているだけの話だ。もしくは「必要ない」とでも思っているのだろうか。

無愛想にされようが、無視されようが、「うるせぇ!」とモノを投げられようが、会話してくれるまで頑張らんかい。家庭は己の責任だろうが。親の義務であろう。

「5」へ

■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」5

父親が話題を出す。妻の愚痴に頷いて、子供の話を聞く。それだけだ。それができんのは親が餓鬼だからだ。「家庭は仕事で疲れた俺様を癒してくれる場所のはずだ!」ってか?それが餓鬼だと言うのだ。「喜ぶのは餓鬼」。父親、いや、親は誰かを「喜ばせる」大人であるのだ。

「家庭サービス」という言葉は嫌いだが、それはその意味が「提供することが義務」であるという感じがするからだ。「サービス業」の意味合いで、仕方がないから、もしくはお金のためだから・・・ということが含意されている気がする。しかし、本来の「サービス業」のプロは「喜んでもらえることが喜び」というように、親もそうでなければならんと思う。

男が父となったとき、ひとりで遊べるところは限られる。
女が母となったとき、我儘を言える相手はひとりとなる。
                        by久代千代太郎

気を抜くところは限られるのだ。餓鬼はそこを家庭だと思い違うのだ。気を抜いていいのは寝ているときとトイレくらいなのだ。そして、まるで「出来の悪い長男長女と弟や妹」が暮らすような家庭に「馬鹿騒ぎ」はあっても「団欒」はない。秩序と緊張が弛緩する場所に意義などない。そこを考えんと、極稀にこのような「化け物」を生むのだろう。

<妹2人と弟1人がおり、家族との会話はほとんどなかった。部屋には100冊余りの漫画本やゲームが並んでいたという。また、近所の人がゲームセンターで遊ぶ姿をみかけていた。>

私の部屋もゲームこそないが、マンガは100冊どころかもっとある。本棚の置き場所を考えんといかんくらい本もたくさんある。倅の部屋も似たようなもんだ。ゲームもあるしな。

「6」へ

■2008/03/25 (火) ガチコメ的「焼き肉のタカリ方」6

記事は、いかにも「会話がないからゲームがある」もしくは、「ゲームがあるから会話がない」とでも言いたそうな書き方であるが、まったくもって関係ないと思う。そういう「何かの所為」にする姿勢こそがダメなのではないかと思う。

問題(原因)は、

「24にもなった息子を実家で好き放題させている環境」

なのである。

あとは状況を調べて、その割合がどうなっているのかがわかるだけであろう。親と家族、友人や異性関係、職場や学校、そして本人。個別にどうなっていたのかを知るべく、警察やマスコミは調べているのだろう。それを端的に「ゲームや漫画」とするならば、せめてその内容だけを取り上げるべきである。それでも関係ないと思うが・・

ともかく、意図は知らんが、単純に相対化することは何の解決にもならんと思う。ンなもん、あくまでも個別的、特異的な現象である。そして、その結果は重大であるのだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080323/crm0803232315019-n1.htm
<優しくて礼儀正しい青年… 死亡の山上さん>

<明雄さんはこの日、妻と日帰り旅行に参加。その途中で「高広さんが刺された」と連絡を受けた。「すぐタクシーに乗ったが『もうだめらしい』と新たな連絡が入り、妻は泣いた」。対面した遺体は「安らかな顔だった」という。>

受け入れ難い現実であろう。

こんなゴミのようなキチガイの気まぐれで奪われる命にこそ、憤りを感じるのが通常の感覚であると思う。「いきなり刺された」ならば、このキチガイも「いきなり殺してやれ」ばいいのだ。人権屋の商人口上よろしく、どういう経過で、どのような理由があってなどどうでもいい。そんなもんが再発防止に役立っていないことなど、もう明らかではないか。

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社会が壊れ始めている。

亡国の兆しである。

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