忘憂之物

ガチコメ的「みーちゃんの話」

■2008/03/04 (火) ガチコメ的「みーちゃんの話」1

ふと食卓を見ると「キャットフード」がある。あの猫が「まっしぐら」になるというアレだ。はて・・・?我が家は犬とウサギと三田ライトと倅しか飼っていないはずだが・・・?まさか・・・押入れを開けたら「みゃーみゃー♪」ってなことになっていないことを祈りながら、私から目を逸らし続ける妻を問い詰めてみた。ええい、「ぬこ」はどこだ?

「みーちゃんのんだよ。下の角のところの・・・」

下の角??1階の角部屋のことか?

「みーみーって鳴くから買ってきただけやんかぁー」

逆切れしてもダメだ。ちゃんと説明汁。

「野良猫ちゃうもん!下の角に“おる”みーちゃんやから!」

「くさりがま」を装備してもダメだ。私の皮膚は刃物を通さない。

それに、飼い猫ならば余計だ。勝手に餌など与えたらいかんざき。こらっ!!

「飼いネコとちゃうもん!!」

さて・・・

「野良猫」でもなく「飼い猫」でもない「ぬこ」とは・・・?

私が知らないだけで、「ぬこ」の新しいカテゴリーができているのだろうか・・?

「住んでるねん。角のとこ。」

えぇい!埒が明かん!!こいっ!!

「いややぁいやぁやぁ!!みーちゃん、今、おでかけ~~!!」

とうとう、「ぬこ」が市民権を得たとでも抜かすか。自分の意志で所在地を決め、自分の責任において生活して、このコミュニティにおける存在を認められたとでも言うつもりか。その「まっしぐら」は引っ越し祝いの類であると強弁するつもりかッッッ!

嫌がる妻を引っ張って、無理矢理に案内させる。

しかし、残念ながら「お留守」だった。

「ほらっ!おらんでしょ!」

妻が威張る理由は不明であるが、たしかにいない。どうやら“お出かけ”らしい。それにしても、妻の言う「角のとこ」とは、やはり、ゴミ捨て場の角の横にある草むらだった。妻は否定し続けているが、つまり、野良猫である。なにやら、段ボールと毛布などで「なにげに偶然を装って」居心地が良さそうなスポットがあった。我が家に住民登録するまでの「仮住まい」だったのだろう。妻は否定するが、先ず、間違いなく妻の仕業である。

「2」へ

■2008/03/04 (火) ガチコメ的「みーちゃんの話」2

どことなく倅の部屋のつくりと似ているww

全体的に「あったかければ幸せ。それでいい。」という価値観をテーマにした創りになっている。「まっしぐら」の喰いカスが少し確認できた。

しかし、危ないところだった。妻が餌付けすることでなついてしまったら、間違いなく我が家の押し入れは「みゃーみゃー♪」となり果て、またもや、私の扶養家族が増えるところだった。ほんとにもう、勘弁してほしい。やめてくださいという今日この頃、もう「お父さん」というよりも「群れのボス」的な存在になってきたと思うのは、私だけではありますまい。えっしゃえっしゃ。野生のあねごは雪が積もって喜んでます。えっしぇえっしぇ。こんばんぱ。コメパンマンです。Kiel vi fartas ?

-

まあ、しかし、この「野良」というのも不思議な言葉ではある。あくまでも「野生」ではなく「野良」というところが意味ありげであるな。そういえば「野良作業」とも言う。「野良仕事」や「野良稼ぎ」とも言う。つまりは「野っ原」(のっぱら)のことなのであろう。

辞書なんか引くと「宿なし」とか書いてある。ということは、つまり「みーちゃん」は「宿なしぬこ」なわけだ。そしてこのことから「宿あり」がスタンダードであると理解できる。だが、往々にしてそれは「犬猫」に代表される「ペット」に用いられる状態であろう。例えば「カマキリ」を飼っていて捨てたら「野良カマキリ」とは言わないわけだ。何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、つまり、私が言いたいことは「ペット」という存在に成り果てた際に限定すれば、「飼ってもらう」ということが前提となってしまうということだ。捨てられたら「野生」に返るわけでもなく、単なる社会の端っこを細々と暮らす存在、守ってもらう存在から捨てられた存在、それが「野良」の語意でもあるわけだ。

さて―――――――――――――

「3」へ

■2008/03/04 (火) ガチコメ的「みーちゃんの話」3

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803041300_05.html
<「軍隊は住民守らぬ」/暴行事件通し広島の中学生>

まあ、軍隊とは単純に「住民を守るためだけ」にあるわけではなく、国民を包含した国体を護る組織であるということを、この目をキラキラさせているであろう中学生に教える前に、なんという「ペット感覚」、なんという「自主性の欠損」、なんという「当事者意識の欠如」であろうかと、今更ながら驚きを禁じ得ない。「米軍」が必要ないという議論に対しては、若干、前向きな興味も否定せんが、しかし、この中学生にこのようなクソ呑気なことを「言わせている」輩の意図はそこにはあるまい。単にこの国を「自分の足で立たせたくないだけ」という動機からは、なんの「意志」も感じられないのである。

<「この事件で確信したのは、軍隊はやはり住民を守らないということだ」「みんなを助けるために基地を置いているという理屈はまったく通りません」。沖縄戦を学んだ広島県の中学生たちが、米兵による暴行事件を本紙を通じて知り、沖縄の問題や軍隊、基地のつながりについて深く考え始めている。>

「そっとしておいてほしい」と被害者の女子中学生が起訴を取り下げた暴行事件を、お構いなしに連日報道している沖縄タイムスは、これを機にして子供たちが「深く」考えるようになったと書く。この子供じみた「屁理屈」については、ならば「警察官が不祥事を起こしたら警察はいらんのか?」という設問によって崩れ去る程度のものであるも、相変わらず「米兵」と「米軍」を混同させる悪質で扇動的な記事は不気味である。

「米軍」が不必要というには「自衛する」ための「国軍」を具備することとのバーターでなければ、議論にすらならないという国際常識を黙視したまま、甘えた反日教育、非現実的な薄ら甘い平和教育とやらで、この国の背骨を腐らせようとする勢力は、日本民族の基盤である教育の場はもちろん、マスメディアや司法の場にも跋扈し、要所を抑えることによって肥大化してきた。その圧倒的多数の専横はこの国を根底から揺るがすのだ。枝葉末節での抵抗もむなしく、その根腐れは末期的症状をみる。

「4」へ

■2008/03/04 (火) ガチコメ的「みーちゃんの話」4

<広島に戻り沖縄問題を深く考えようとしていたところで米兵暴行事件が起きた。事件後の二月十三日のロングホームルームで二年生四クラスすべてが、沖縄タイムスの号外や詳細を伝える翌日の夕刊の記事をプリントして配り担任が読み上げた。生徒たちは全国紙などの本土紙では、分からない事件の大きさと重さを知り、熱心に聞き入ったという。その後書いた沖縄学習の感想文では、約半数の生徒が事件に触れた。>

特定の思想性が顕著な新聞記事を授業に使用し、子供たちの価値観を壊すこの作業を洗脳と呼ばずして何と呼べばいいのか。この明かなる洗脳教育を看過することの意味は、まさに「日本国民・総ペット化」と呼んで差支えない危機的状況ではないか。

飼い主はアメリカにするか支那にするかの差異だけで、頭を撫ででもらうことを生甲斐とするペットに「生きる意味」など、どうして理解し得ようか。ただ「死亡していない状態」を「生きる」とするならば、この命にはどのような意味があるのかなど考えるきっかけすら失ってしまう。

沖縄では「命」のことを「ぬち」と読むらしい。読めはすれども、その意味、その語意は理解できないだろう。理解するには問題がある。深刻な問題がそのままにされているのだ。

「命は大切」というテーマには、重大な問題が隠されているのである。

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それはつまり、「なぜか?」が問われていないのだ。

「なぜ、大切なのか?」が置き去りにされたままなのである。その生命至上主義における矛盾は、そのまま「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という純然たる悪魔を生むことになる。その悪魔は、集団自決した沖縄県民をして「なぜ、死んだのか?」がわからないのだ。だから、実に安易で単純な理由を用意することになる。そして、そのほうが都合がいい勢力にとって、まさに適役の悪役が用意される。そう。「旧日本軍の命令」である。

「命は大切なはず。ならば、なぜに沖縄県民は自ら死んでいったのか?」という疑問に対する答えを捏造することにより、予想範囲を超えた弊害を生み出しているのだ。

また、「お金も大切」とするに、そこにも「なぜ?」が付きまとうはずだ。そして、その疑問に対して、今の日本の子供たちはなんと答えるのか。過半の子供たちはおそらく、短絡的な思考経路を辿り、ようやく行き着く先は「生きるために」という答えに集約されよう。

「5」へ

■2008/03/04 (火) ガチコメ的「みーちゃんの話」5

ならば、どうして「命」が大切なのかを同じく問うとき、それは「生きてるから(死んだら終わりだから)」という「答えのない答え」を彷徨い、頭ですら理解できずに心が腐り果てる。そして、終には「生きたくなければ生きなくともよい」という選択肢を可能とするのである。

「命は大切」なぜ?
「金は大切」なぜ?

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答えはある。

それらは、すべからく「全うせねばならん」からである。

それを使って「なにをするか」が大切なのだ。

それを間違えないように教え導くことこそが「教育の意義」ではないか。

<女子生徒は「沖縄に米軍基地があるのは日本を守るためと言われています。では、日本を守るための米兵が何故日本人を傷つけるのでしょう?」と疑問を投げ掛けた。>

まるで、米軍が沖縄県民を射殺しているかのようではないか。「個人的犯罪」に軍隊は関係ないと理解させろ。在日朝鮮人と在日支那人の犯罪件数を、この餓鬼に教えろ。

国軍を持てないから、仕方なく米軍がいるのだと説明しろ。じゃあ、どうすればいいのかをクラスで考えろ。「日本も軍隊を持つべき」「日本も核武装を考える時期ではないか?」という意見も出るだろう。日教組の腐れ教師がキレイごとを並べて、偽善的な美辞麗句をもって、平和だ、友好だ、軍命だと、なんと言おうが、どれほど騒ごうが、ちゃんと考える子供に対しては、納得のできる説明はできまい。

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子供を「生かされている」ペットに洗脳しようとしている。

日本を「飼い主の顔色を見ながら尻尾を振る」ペットに改造しようとしている。

「野良」ではなく、「野生」で逞しくも生き残る国とせねばならんのだ。
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