我が家の「りーちゃん&むーちゃん」はシーズーである。最新の「ペット犬人気ベストテン」では惜しくも7位に甘んじている。1位はトイプードル。2位はチワワで3位はミニチュアダックスフンド。妻の姉の家にいるのがコレだ。あとはポメラニアンやらヨークシャテリアなどが奮闘、6位にはパピヨンが急浮上だ。将来、私が十数頭入手して訓練を施し、イザというときのための「犬軍隊」を組織しようと企てているジャーマン・ワイアーヘアード・ポインターは141位だが、上位の人気犬は全てが小型犬だとわかる。
これらは室内犬ともいうが、お座敷犬とか玩具犬ともいわれる。アニメなどで子供と戯れて遊んだり、教会で主人公と一緒に死んだりするのは大型犬が多いが、我が家の「りーちゃん&むーちゃん」などは悪の大王が膝に載せてなでなでするような犬なのである。
最近、妻と真面目に語り合った。我が家の「りーちゃん&むーちゃん」は可愛過ぎるのではなかろうか。いや、しかし可愛いにもほどがあろう。この愛らしさ、身内という欲目抜きにしても尋常ではない。妻も不思議がっている。たしかに散歩途中ですれ違う小型犬、あるいは「りーちゃん&むーちゃん」と同じシーズーでありながら、何やら顔面がマルチーズの出来そこないのようなのもいる。また、妻が不思議がるのは「ハゲが多い」ということだ。顔やら体やら皮膚が赤くなって毛が生えていない、ということだが、おそらく、それは治療のため毛を剃っている。脂漏症だ。
ハゲの原因はいろいろあるが、とりあえずは散歩。この回数と量の問題だ。シーズーのような小型犬は一日10分ほどで十分(駄洒落ていない)。これを「喜ぶから」という理由で、または「飼い主の義務」などとして朝夕引っ張り倒すと、シーズーの遺伝的疾患でもある脂漏症になるリスクは高まる。ノミもいるし、不衛生な場所もあるお外は危険なのだ。草むらに入り込んで、家に戻れば真っ赤っかということもある。だから我が家の場合は週に数回、いまの季節なら日中となる。ぶらりと軽く近所を一回りする。少し遠出するときは、なんと、車を出す。「りーちゃん」はドライブ大好きなのだ。
飼い主がヒマで朝夕、1時間近くもかけて散歩するような家ならば、これまた結構な頻度でシャンプーもされる。脂分が常に洗い流されてしまって、脂の補充のため皮脂腺が過剰に働くことになる。「お肌のトラブル」である。「りーちゃん」のように、家では基本的に自由。いらぬ干渉をせず、快適なベッド、清潔なトイレ、きれいな水だけを用意しておいて、自分から「おい、ヒマだぞ。かまえよ、ほら」と来るまでは放っておくに限る。倅などは未だに「抱っこさせて」と頼んでから抱き上げている。そうしないと噛まれるからだ。
また、シーズーは喜怒哀楽を表現する。その「人間っぽさ」は他の犬種と一線を画する。話しかけると、なんと、聞くのだ。じっと目を見て小首を傾げながら、必死に理解しようとするのが伝わる。夕方に帰宅すると、妻も倅もまだいないことが多いのだが、私が淋しくないのはこういう理由だ(病気ではない)。私が映画を見て涙すると「りーちゃん」は必ず隣に来て手(前足とも言う)を添えてくる。そして心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。コレに癒される。でも、調子に乗って「り、りーちゃん!!」と襲いかかると、鼻先をかじられる。百獣の王を自認する「りーちゃん」に怖いモノはない。
「りーちゃん」が怖いのは妻だけだ。何かといろいろ通じない、と知っているからだ。先日も妻が「いま、りーちゃんとケンカ中。今日一日、なんにもしゃべってない」と無茶を言う。犬に張り紙をする妻のことだ。相手が犬でも手加減しない。その日も「りーちゃん」は妻のバッグを「開けて」から、中のきんちゃく袋を取り出し、さらに「紐を解いて」中身の飴玉を喰った、という容疑をかけられていた。「りーちゃん」は過去、瓶の蓋を開けて飴玉を喰う、という犬とは思えぬ悪行も犯していた。
私がやられたのはハンバーガーだった。朝方、何かと空腹を覚えた私は朝マックを買いに走った。買ったのはフィレオフィッシュとソーセージマフィンのセット。それをテーブルの上に置いたまま、あとで喰おうっと、とかでシャワーを浴びに行った。出てくるとソーセージマフィンがない。いや、袋はあった。包装紙だ。それは「人間がたたんだように」置かれていた。つまり、綺麗に中身だけがすっぽりとなかった。問答無用で人間の所業だった。私は倅を叩き起こした。おまえ、喰っただろと。
倅は寝惚けながら「しらない。りーちゃんじゃないの?」を繰り返す。しかし、おまえな、犬が袋をたたむか?普通、犬なら喰いついて袋を噛み破り、もう、紙ごとぐちゃぐちゃと食い散らかすものではないかと言った。「むーちゃん」も頷いていた。オレならそうするね、と言っていた。それでも倅は認めない。この野郎、育ててもらった恩も忘れ、我が父のソーセージマフィンを盗み食い、それを知らぬ存ぜぬで押し切れると思うか、いまからその根性叩き直してやる、貴様、こら布団から出てこんかいとやっていたら、妻が「りーちゃん」の口周りをチェック、あきらかに「マフィンの粉」っぽいのがあると発見する。
実際はこうだ。先ず、フィレオフィッシュの袋にも「開けようとした跡」はあった。しかし「りーちゃん」はタルタルソースがちょっとアレだ。ハッシュドポテトもあまり、なんかアレなのである。だからソーセージマフィンをやった。しかも、である。マフィンの部分は「むーちゃん」に喰わせた可能性が高い。「りーちゃん」は「ハンバーガー1個」は喰えない。つまり「りーちゃん」はテーブルの上でそれら一連の選別作業をさっと行い、更にソーセージマフィンを分解、中身の肉だけを喰いながら、同時に、証拠隠滅のためにテーブルの上からマフィン部分を落下、それを「むーちゃん」に喰わせた。テーブルの下にも粉があった。鑑識によると「マフィンの粉」と確認された。物証が出たわけだ。
「りーちゃん」はそのあいだに包装紙を綺麗にたたみ、且つ、その罪を人間である倅に擦り付けるという偽装工作まで行っていた。それでも「りーちゃん」は罪を認めず、うるるんとした瞳でこちらをみつめ、わたしじゃないよ、おとうさん、あっちの鼻の大きなニンゲンだよ、ハナニンゲンだよ、と訴え続けている。この状態では逮捕は不可能。同時に倅のコンプレックスまで攻撃し始めている。つまり、悪魔である。犬悪魔である。
まあ、しかし、だ。キツネやタヌキならわかるが、私はシーズーに引っかけられていたのである。現在、我が家では常識だが「りーちゃん」は「手(前足とも言う)を使って袋を開けたり、瓶の蓋を外したりする」となっている。
そんな賢いシーズーはペキニーズとラサ・アプソの交配で出来たとされる。元来から室内、というか王宮で愛でられてきた犬だ。原産国はチベット。性格は自尊心が強く強情。気位が高く、決して人間がいいように出来る性格ではない。生まれ故郷のチベット人の性質がそのまま引き継がれている、と感じる。誇り高いのである。
もう少し、我が家の「りーちゃん」の自慢を書くと、いま我が家で流行っているのは「どっちどっちゲーム」だということだ。もちろん、これは「りーちゃん」に限定される。「むーちゃん」の知能ではちょっと、というわけだが、先ず、私がどちらかの手(前足とは言わない)の中にチクワなどを隠し持つ。それを交互に動かして「どっちどっち♪」と歌い踊る。それから「はい!」と両拳を差し出すと、なんと「りーちゃん」はチクワが入ったほうの拳をちょんちょんと叩く。稀に外す。正解率は9割と少しか。それでも妻は喜ぶ。
実はコレには仕掛けがある。そのとき「りーちゃん」は「はい!どっち!」と差し出した両手ではなく、私の目を見る。もちろん、私はチクワが入ったほうの手を見ている。犬は鼻も利くが、そのコミュニケーション力は侮れない。飼い主の意図を理解しようとする能力は高い。二つの箱を並べて「餌の入った箱」を当てる実験ではチンパンジーに勝る、という実験結果もある。テレビで「天才犬」が「足し算や引き算をする」のは見たことがあろう。あれのタネも同じだ。犬は飼い主の目線、手の先をみる。「そこに行けばいいのだな」と察する能力がある。また、同じく「いま、これをするつもりだな」と先を読むこともする。リードが入っている「散歩用紙袋」をさわっただけで尻尾を振りながら喜ぶ理由だ。
犬は群れで暮らしてきたから共同体の概念がある。共有する、という意志がある。私は先ほど「シーズーは喜怒哀楽を表現する」と書いたが、実はこれを共有することもできる。簡単に書くと、私が喜べば犬も喜ぶ。私が妻に「次の休み、吉本新喜劇に行く」と告げれば、妻は「やった!」と短く高い声で喜ぶ。コレにしっかりと反応する。「りーちゃん&むーちゃん」は吉本新喜劇に興味はないが、我が妻に対する興味は私のそれを凌駕するから、本人と同じ、もしくは本人以上に喜びを表現する。
しかし、私が仕事から帰り、風呂に入ってリビングに座るとき、つい気を許して「ふぅ~」と溜息をつくと「りーちゃん&むーちゃん」は近くに「おすわり」して様子を窺う。そのあと、そっと顔を乗せてきたり、腕や足を舐めたりしてくる。同じように元気がなく、また、私の態度を心配しているのだとわかる。
「嬉しい」とか「悲しい」という感情のことを「情動」と呼ぶ。脳の反応のことだ。群れで暮らしてきた動物は犬に限らずこの感覚を有している。無論、人間もそうだ。仲間が異性に振られて泣いていれば、同じように悲しくなったりすることがある。その逆もある。生理反応も同じ。欠伸がうつるのも有名だ。また、尾籠な話で恐縮だが「もらいゲロ」というのもある。「同じモノ」を食べた可能性があるから、と脳が判断する。「ツレション」もある。誰かが食事をしていると、さっき食べたでしょ、と言われながらも喰いたくなるのもそうかもしれない。だから「りーちゃん&むーちゃん」も、私が晩酌していると喰いたくなるわけだ。チクワも炒めるしな。
私は思うことがある。家に犬がいる人も思い浮かべてほしい。私は犬の「共有」とか「共感」については人間よりも濃いのではないか、と信じるときがある。私がアル中になり、毎日、何かと暴力を振るい、仕事もせずに暴言吐きまくっておれば、いつかはあの妻ですら「一緒にはおれない」として去っていく可能性はあるし、去っていくべきだと私も思う。しかし、犬は絶対に去って行かない。私がどのような人間であろうが、経済状況がどうであろうが、健康状態がどうであろうが、犬にはまったく関係がない。まさに命尽きるまで、どこでも一緒にいるという関係を構築する。ちょっと前「星守る犬」という映画があったが、アレがまさにそうだった。まだ観ていない犬好きは観るべし、だ。絶対、泣く。
いつだったか忘れたが、以前、ネットの動画で「片足を切られても尻尾を振る犬」をみたことがある。場所は韓国だったと思う。飼い主は犬鍋屋の主人か何かだろう、片手に包丁を持っていた。犬はその主人から片足を切断されたわけだが、その包丁を持った主人に、まだ、尻尾を振ってすり寄っていた。悲しいまでの従順、忠誠だ。
いま、りーちゃんが膝の上にいる。私がりーちゃんを見ながらパソコンの前に座っているからだ。「もう、おとうさん、わたしのこと書いてるでしょ」と瞳で訴えている。むーちゃんは「チェッカーズみたいな髪型(モヒカンが伸びた)」を気にもせず、私の布団でぐーすか寝ている。今日は久しぶりにブログを連続アップしたので(ストレスが溜まっている)、まだ、散歩には行けていない。いまから、ちょっと行ってくる。ふう。
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