新年会のシーズン。もう、だから、年末から胃腸の調子が――――――良い。
そして、タクシー代が馬鹿にならん。私も管理職なんだから、タクシーチケットくらい出せ。この会社め!!えいえい!!にゃー!!
まあでも、そんなに使ってない。というか、白状すると、「虹の会」が発足してからというもの、いわゆる「浪費」が激減した。飲みに行く回数もそうだが、なにより、つまらん店(※高いだけの店)に顔を出さなくなった。仕事上の付き合いはともかく、絶対的に回数が激減した。それでも仕事上の不具合はない。おかあしゃんは喜んでいる。
ちょいと前までは「虹の会」での集まりなんかにも「もぉ!!」と不満を隠さなかったし、終には「虹の会を潰す会」をひとりで発足したと、夕食時に発表する始末であったが、最近は怒るどころか自分も来ているではないか。今日もニュースで「支那の圧力に屈した日本の売国企業がつくった地球儀に“台湾島”と書いてあること」にキレていたしな。
倅は赤い学校の宿題レポートに「靖国研究」と題したレポートを提出し、「日本国の首相は靖国神社に参拝すべし!」と結んだその結果、生まれて初めての「評価A」を取り、体育館に掲示されたと鼻息荒く威張り散らしていた。
最近のおかあしゃんは「虹の女性陣」との連携をもって、「虹の野郎ども」を牛耳ろうとする一大勢力となりつつあり、そのセクト派閥化によって虹の会が内部分裂する可能性も――――――ない(笑)。ますます「濃い」味を出した「虹の会」をどうぞよろすく。
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「車で来てらっしゃる人は、帰り道に気をつけてください。」
忘年会のあと、総務部長の挨拶がこうだったのは一昨年になる。この阿呆ズラ下げたオヤジどもが、このあと「また、車で飲みに行く」か「最終的には車で帰宅する」ということを前提とした挨拶であった。今年は、我が社の忘年会とかぶったので不参加だったから知らない。まあ、さすがにこのご時世、年末の会議なんかでは、
「くれぐれも飲んだら車に乗らないように」
ということも呼びかけていたがな。しかし、当然ながら、そんなものは“一応”にすぎない。言ってるだけ。事実、何人かは地下駐車場から下品な車を出していたし、立つこともおぼつかない幹部社員は、しれっと「ちょっと休憩して帰りますよぉ~~」とほざいていた。タクシーで帰るなら休憩する必要はあるまい。こいつらから免許を取り上げて欲しい。
「2」へ
■2008/01/10 (木) 飲酒運転はなぜなくならないのか。2
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080108/dst0801081324019-n1.htm
<「感想うまく言えない」 「宝物」の子供失った夫婦>
もう私は妥協しない。
飲酒運転する奴とは付き合わない。
もう決めた。
<夫妻は3児がほほ笑む遺影を抱いて傍聴。「奪った命がどんなものだったのか、被告に分かってほしかった」と、かおりさんは話した。だが望んでいた危険運転罪の適用は見送られ、険しい表情を崩さなかった。>
「飲んでいたか」ではなく「酔っていたか」が判断基準とされた。ふざけた弁護が繰り広げられていた。この人殺しは、その橋に向かう途中、細いカーブも事故らずに曲がり、あまつさえ「ナンパしよう」と考えていたほどであるから「運転が不可能なほどは酩酊していなかった」ということらしい。で、危険運転致死傷罪には適用しないと。
これから飲酒運転で事故を起こしたら、先ず逃げるのだ。周知の通り、時間が空けば空くほどアルコールは抜けていく。そこそこ逃げて、コンビニで水を買ってがぶ飲みすればいい。腹が裂けるほど飲めばいい。嘔吐しながら飲めばいい。それで懲役の年数が変わるならば、少々、腹を壊そうがどうでもいいではないか。そして、しれっと戻ってこい。「すいませんでしたぁ・・でへへ・・」と頭を下げろ。ならば、どこぞの人権弁護士が罪を軽くしてくれる。人を殺すならば車に限る。
「3」へ
■2008/01/10 (木) 飲酒運転はなぜなくならないのか。3
酒飲んで100キロ以上でぶつかって、子供3人を溺死させ、助けるどころか「証拠隠滅を図っていた」というこの人殺しに適用されない危険運転致死傷罪とは絵に描いた餅よりも使えない。こいつが何年で出てくるのか知らんが、私が親なら絶対に許さない。
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厳罰化されて飲酒運転は減ったという。
でもなくならない。今のままではなくならない。
なぜに罰金を1億円にしない?なぜに懲役50年にしないのだ?
だれに、どこに遠慮しているのだ?
犯罪を防ぐには「厳罰」しかない。キレイごとで何の罪もない人が殺されるほうが人権問題ではないのか?どこぞの阿呆のように「死んだ人間に人権はない」ということのほうが、この国では正論なのか?「犯罪を防ぐ」ことと「犯罪者を更生させること」のどちらに比重を置くことが正しいのか?被害者に聞けばいい。愛する家族を失ってしまった被害者に、加害者の今後について相談すればいい。そして、「もういいから、反省して、罪を償って、また、社会に出て頑張ってください」と言える仏様のような人に許された場合のみを「特例」として判断すればいい。決めるのは被害者だろう。許すのも被害者である。
これを暴論だと思うのは勝手だが、明日は我が身である。想像力を持って考えたい。当たり前の話だが、他人事ではない。如何なる理由があろうと、私は私の家族を傷つけるようなことを座視するわけにはいかんのだ。繰り返すが、明日は我が身なのだ。
「4」へ
■2008/01/10 (木) 飲酒運転はなぜなくならないのか。4
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帰宅途中、正月で道が空いていた。そのとき、信号待ちしている私の真横を猛スピードで走り去る「ちゃら車」があった。酒飲んでるかどうかは知らん。その後に5台ほどの「ちゃら車」が続く。レース映画でも見て影響された阿呆ども。天下の公道を信号無視で、猛スピードで突っ走る。爆音もものすごい。よく知らんが、あきらかな「改造車」であろう。
そのまま崖から転落して死ねばいいのだが、その前に歩行者や自転車は驚いてこけそうになっていた。横断歩道を渡ろうとした人は、慌てふためいていた。数人が走り去る「ちゃら車」のテールランプを睨んでいた。そして、なんと、対向車線にはパトカーがいた。
パトランプを無音で回していた。鳴らして追いかけるのかと思ったが、なんと、スルーだった。考えられん。たしかにUターンして追いかけても逃げられたかもしれない。無線で連絡したのかもしれない。しかし、「サイレン鳴らして追いかける」ことは仕事であろう?危険だと判断したのかなんかしらんが、私は著しい不安感に襲われた。
以前に体験した「歩道を走る原付バイク」もスルーであった。コンビニから出た私は接触しそうになったのだ。そこそこの速度だったと記憶している。ぶつかったらただでは済まんだろう。私も相手もな。
「5」へ
■2008/01/10 (木) 飲酒運転はなぜなくならないのか。5
ともかく、通常の交通違反と危険運転は全く違う問題である。
「うっかり」と「酒飲んでスピード出す奴」はいない。
「うっかり」と「公道とレース場を間違える奴」もいないのだ。
駐車違反やシートベルトも大切だが、そのまえに「危険行為」の厳罰化が必要である。ローソンで缶ビール買って、当たり前に飲みながら運転するおっさんがいる。缶チューハイを咥えながら運転する阿呆はいるのだ。18才を過ぎていようと、自動車というものを「おもちゃ」だと思って、阿呆みたいにレーサーのマネをする奴はめずらしくない。
私の愛車も「180キロ」までメーターがある。もちろん、私はそこまで踏んだことはない。高速道路を走っていても、100キロに近くなると、冗談抜きで私は怖い。衝撃を想像する。それに、そんなリスクを背負う必要はどこにもない。そんなにスピードを出す理由が、いくら考えてもわからない。いっそのこと、日本のメーカーが「70キロまでしか出ない車」をつくったら、私はそれを買うだろう。どんなに急いでも、それくらいで十分だ。
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この現代社会において、自動車は欠かせない。非常に便利、いや、便利で快適過ぎる乗り物だ。そして、そのあまりの利便性から「負の部分」が隠されている。「危険である」というキャンペーンが足りない。そして、それでも危険な運転をする阿呆も減らないのが現実ではないか。原因はわかっている。わかっているのに目を背けているのだろう。
豊かさと引き換えに失ったモノはたくさんある。
豊かなまま、いくつ取り戻せるのか。もしくは――――――
失っても取り戻さねばならぬ価値観はあると思う。
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