絵本作家の「ときたひろし」氏の「9番目の戦車」が買えない。「お父さんの千羽鶴」は買えた。小さいころから英霊のお話をすることはとても重要だ。政治で解決することばかりでもない。不況やなんやとだらしのない大人の姿ばかり見せるから、小さな子供はがっかりするのである。日本にもカッコイイ大人はたくさんいる。また、現在でも警察官や消防士だけではなく、映画の「海猿」からもう少し頑張って自衛隊を描いて欲しいものだ。
そういえば、私が子供の頃、こんな歌があった。ちょっと歌詞を貼ってみよう。
のりもの あつまれ いろんな くるま
どんどん でてこい はたらく くるま
はがきやおてがみ あつめる ゆうびんしゃ ゆうびんしゃ!
まちじゅうきれいに おそうじ せいそうしゃ せいそうしゃ!
けがにんびょうにん(注) いそいで きゅうきゅうしゃ きゅうきゅうしゃ!
ビルのかじには はしごしょうぼうしゃ はしごしょうぼうしゃ!
いろんな くるまが あるんだなあ
いろんな おしごと あるんだなあ
はしる! はしる! はたらくくるま!
じどうしゃいっぱい はこべる カーキャリア カーキャリア!
ひっこしにもつは おまかせ パネルバン パネルバン!
こわれたくるまを うごかす レッカーしゃ レッカーしゃ!
ガソリンまんたん はいたつ タンクローリー タンクローリー!
いろんな くるまが あるんだなあ!
いろんな おしごと あるんだなあ
はしる! はしる! はたらくくるま!
のりもの あつまれ いろんな くるま
どんどん でてこい はたらく くるま
おもたいにもつを あげさげ フォークリフト フォークリフト!
じめんのでこぼこ たいらに ブルドーザ ブルドーザ!
おおきないしでも らくらく ショベルカー ショベルカー!
ジャリをいっぱい つみこむ ダンプカー ダンプカー!
いろんな くるまが あるんだなあ
いろんな おしごと あるんだなあ
はしる! はしる! はたらくくるま!
うむ。悪くはないのだが、やはり、何かが足らない。しかも、この歌には「パート2」みたいなのがあって、そこには「テレビ屋の車」が紹介されていたりする。駐車違反も気にせず、路上を灰皿にする輩を子供らに紹介するのはいかがなものか。
ま、しかし、だ。「いろんな おしごと あるんだなあ♪」と歌うのは結構だが、やはり、ここには安全保障の観点が抜け落ちている。そこ!右翼とか言わない!ンなもん、普通のことだ。だから、私が勝手に「4番」の歌詞を作った。これでも20年前は金もらって歌っていた元ボーカリストだ。作詞もしていたのだ。それでは歌ってみよう。
「のりものあつまれ」4番:作詞 久代千代太郎
のりもの あつまれ いろんな くるま
どんどん でてこい はたらく くるま
れーざーしょうじゅん はっしゃだ ななじゅうよん ひゃくごみりだん!
きょくちのぼうくう おまかせ はちじゅうななしき すかいしゅーたー!
じょうりくしてきた ちゃんころみなごろし ごっどはんまー!
じどうでぼかぼか ちゃんころうちまくる さんだーぼると!
いろんな せんしゃが あるんだなあ
いろんな へいきが あるんだなあ
うちてし! やまぬ! たたかうせんしゃ!
う~む、満足だ(じぃ~ん)。誰か続き頼む。10番までいこう。
ま、ということで、だ。
我々大人は「子供たちへの影響」というものを考慮して、いろんなことを考えねばならない。喜ぶモノでもダメなものはダメだし、嫌がることでも必要ならば必要なわけだ。
ンで、これも子供に大人気のイベントだったが、なんでも「ただの支那人の遺体だった」とかで京都府警が捜査している。これ、我が妻もすごく行きたいというアレだった。色々とタイミングが合えば行くつもりでもあった。嗚呼ぁ、怖い。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110119/crm11011902010026-n1.htm
<人体展の標本は「遺体」 厚労省見解、京都府警捜査へ>
私の拙い経験からで申し訳ないが、自分で「グロは大丈夫さ!」と言っている人でも「本物」は凄まじいから気をつけたい。私もそうだった。右手を裂傷して手術したとき、患者の私はその経過を詳細に書いたカルテを見ることが出来る。興味本位で見せてくれと頼むと、主治医は「グロいですよ?本当に見ます?」と念を押してきた。そう言われて黙って引っ込むわけにもいくまい。それに私は「グロに強い」と自負していた。2ちゃんの「グロ画像」も見ることが出来るのだ。しかも、自分の右手である。その手術の様子を写真で見るだけのことを・・・・すいませんでした。勘弁して下さいうっぷ。
どれほど良くできた特殊メイクであれ、どれほど完成度の高いCGであれ、これは絶対に「ホンモノ」には敵わないと断じておきたい。お医者さんってすごい。尊敬する。うんこなんかどうでもいい感じだ(笑)。私の場合は絶対に「下の世話」よりも「メスで切る」ほうがダメだ。今でも「自分の手の中」の写真が頭の中から消えない。うっぷ。
子供は「怖いもの見たさ」という好奇心の塊だ。また、親が見れば失神するほどの危険なことも隠れてやる。これも「本能」だ。子供は大人のように「生きてる」とか「死んでいる」ということを頭で理解しようとしない。子供の頃は誰でも「んじゃ、生きてるとは何か」という哲学者でもある。だから体験を試みることもある。ビルの屋上から身を乗り出して、金玉が縮む思いをしてから「落ちたら死ぬんだろうなぁ」というリアルを確認する。
コレは私の想像であるが、例えば、この死体展示会をスラム街があるようなところでやっても客は来ない。というか、そのスラム街が「産地」だったりもするが、要するに「死ぬ」とか「死体」とかが日常の風景にあるところで生まれ育つ子供らからすれば、その展示物に人が群がる理由がわからない。死体を並べて客が入るのは限られた国でこそ可能なのだろう。また、それは人体に関する研究だから、という建前も、これほどの商業的なイベントの前には白々しい。学術的な意味でキーホルダーを売る理由はない。
あるかないかわからない日当数百円の仕事を探し、小さな子供までが廃品回収で家計を助ける国では「道端にゴミを捨てるな」としてホテルに持ち帰れば、結果としてその子らの「糧」を奪うことになる。また旧聞だが、ナイキ社がパキスタンで「子供を使ってサッカーボールを作らせていた」ことが問題とされたことがある。もちろん、賃金は支払っていたし、子供らも大好きなサッカーボールを作れるから興味を持って働いていたのではないかと思う。しかし、これを人権屋は「児童労働は問題。人権侵害だ」とやった。
キラキラ光る慈善からサッカーボールを子供らにくれてやるのは結構だが、サッカーボールもラグビーボールも喰えないのだと人権屋は知らない。人権屋は「子供が可哀そう」だとして、働かずに援助をもらえと子供らに言う。日本の子供らと同じように学校に通い、自宅でテレビゲームでもして、携帯電話で友人らと繋がって、大学に入って就職に苦労しろと言いたいのだ。これはアメリカ人が大好きな「価値観の押し売り」である。
また、廃品を集めて売りに行ける子供、サッカーボールを作る工場で働ける子供というのは、日本で言えば上流家庭だ。私はスラム街を取材したことはないが、ちゃんとプロのジャーナリストが取材して書いてくれている本がたくさんある。それらをさらっと読むだけで「児童労働は人権侵害」などという浅薄は防げる。支那人の死体を切り刻んで日本で見せれば商売になる、と見込んでも踏みとどまる良識というものが得られる。
地球には日本のように子供手当がもらえる国もあれば、レンタル・チャイルドが横行する国もある。これは物乞いが子供を借りるシステムだ。旅行者などにカネをもらう場合、女性が赤子を寝かせて座っているほうがカネを多くもらえるからだ。そして、その子供は障害児が望まれる。そのほうが同情を得られる。ならば、それらの国ではどうするか。
「障害児を作る」のである。いちばん人気は「両手両足がない赤ちゃん」だ。次は「顔面にケロイドがある赤ちゃん」で、その次は「鼻や耳、唇などを切り取った赤ちゃん」だそうだ。いちばん人気は、インドのムンバイで一日当たり800円もする。それで得られる喜捨は200円ほど増えるのだという。また、ここで「目を潰された赤ちゃん」がいないと気付く。いないことはないのだが、それはあまり人気がないそうだ。理由は「珍しくないから」である。
闇組織はスラム街で赤子を買う。そして両手両足を鉈などで切断し、闇医者へ連れて行く。「顔面を焼く」場合は熱した油をかける。鼻や耳を削ぎ落とすのは剃刀でやる。「子供は天使」とか「子供は国の宝」などという価値観が全く通じぬ国もある。
件の「人体の不思議展」も「死の尊厳」などが言われている。標本なのか遺体なのか、あるいは保存なのか展示なのかと揉めてはいるが、支那臭い団体や後援会の人らに「人の死には尊厳がある」と説いてもわからぬだろう。支那人が鳥籠に子供を入れて街で売っていたのは古の話じゃない。売って儲かるなら死体でも何でも売るのが支那人だ。
冒頭の「はたらくくるま」という歌も通じる国は限られる。日本が贈った消防車とは必ずしも消火活動をしないし、バスなどはゲリラの移動手段になっている場合もある。日本では普通に活躍する大型トラックも、北朝鮮ではミサイルを運ばされている。
このように世界には「いろんなくに」があるのだが、とくに日本の教育現場やマスコミなどは、あまり詳しく教えてはいけないことになっている。その理由はいろいろあろうが、問題なのは「他国のキツイ部分」を紹介すると、なんとなくテレビを見ているだけで「日本に生まれてよかったねぇ」という実感を抱いてしまったり、また、教育現場で「貧しい国があります。食べれなくて死ぬ子供もいるんですよ」と教えるまではよいのだが、そのあと「んじゃ、なんで?」は教えてはいけないか、もしくは「戦争の所為」にせねばならないことになっている。日教組などはそこから「日本は憲法9条が出来てから戦争をしていないから、いま、みなさんが美味しいご飯を食べられるのです」とウソ丸出しを教える。
そういう子供らが大人になって、死生観やら死の尊厳やらがわからないから、このような人体の不思議を好奇心丸出しで観に行く。原爆記念館を見て「うわぁ」とか「グロい」という感想しかないのと同じく、子供のようなレベルの「うわぁ気持ち悪いぃ~」を言うために遺体を観に行くのだ。だから日本に限ってはこれも商売となるのだろう。
日本も戦争で焼かれた。欧米列強の植民地にされたところも悲惨な目に遭った。教えねばならないことは「それでも驚異的に復興した日本」である。北朝鮮で餓死者が出るのは戦争の所為ではない。半世紀も独裁政治を許しているからだ。南アフリカが今でも喰い物に困るのは為政者の程度が低いからだ。合わせて、気候が良いと余るほどの作物が採れる恵まれた環境も手伝う。国が豊かになるには国民が働くしかない。日本のように「くるま」までが「はたらく」と表される勤勉こそが国を豊かにすることは自明である。
世界には「大国」と呼ばれる国がいくつかあるが、それでも「国内にあるモノを売っているだけ」の国はずっと不安定となる。テレビで「日本はモノツクリの幻想から脱して世界を見なければダメだ」という頭の良い人がいるが、私などはやはり首を傾げざるを得ない。日本の海域から豊かな資源が採れるのは結構だが、それはそれ、これはこれとして考えねば、国などすぐにダメになる。ロシアや支那をみるまでもなく、技術がない、というのがどれほど危険かは言うまでもない。「モノを作れない」ということは、仕事の絶対量が減少することをいう。自活できる要素が無くなることを意味する。例えば先日、テレビでやっていたが、「ど左翼」どもは「ナウル共和国」などのことを子供に教えるとき、どのようにして語るのかと不思議に思う。まあ、都合の悪いことは言わないにこしたことはないが、無税で教育も医療も無料、年金など積み立てなくとも、全年齢層に支給されていた「夢の国」は労働意欲が低下して、いま、ナウルの学校では「働き方」という不思議な授業を行うはめになっている。国を潤い満たしたリン鉱石が減少しただけで破綻したのだ。つまるところ「働かないで暮らせる」ということが、人類にとってどれほどの毒なのかは共産主義者にはわからない。
自由経済の利点とは「豊かに暮らせる」ことではなく「働けること」である。民度の高さとは勤労意欲の高さでもある。且つ、主権国家の恩恵とは、それらの権利が(国家がある限り)保障されることを言う。だから普通、それらを護るためには国民が主権者となって立たねばならない。理由はもちろん、その恩恵を次の世代に残すためだ。
子供らには「結果としての豊かさ」を教えたい。絵本でも動揺でもいい。以前の日本には優れた教材があったはずだ。「はたらくくるま」に戦車を入れるのは冗談だが、それでも「教えねばならないこと」はあるはずだ。そこからしか、本当の慈愛精神も作れないし、世界平和も作れないはずだ。気味の悪いことだけ「ホンモノ」を使って、不気味な商売をする悪趣味はよろしくない。「ど左翼」にとって都合の悪いところも「本物」でいきたいものだ。
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