<「枯れ葉剤 北谷に埋めた」 元米軍人証言>
<米国在住の元在沖米軍人男性(61)が、1969年に55ガロン(約208リットル)容量のドラム缶数十本に入った猛毒ダイオキシンを含む枯れ葉剤を米軍が北谷町海沿いの返還地に埋めたと証言していることが、13日分かった。在沖米軍基地の枯れ葉剤をめぐっては、60~70年代に県内の広範囲にわたる施設で散布、貯蔵、運搬された影響で健康被害を受けたとして、100人以上の元軍人らが退役軍人省に因果関係の認定を求める申請をしていることが明らかになっているが、埋却に関する証言は初めて。
英字紙ジャパンタイムズが同日、68~70年に米陸軍補給部隊で物資の運搬に携わった元軍人が、枯れ葉剤が北谷町内に埋められたと証言したと報じた。
70年に泡瀬通信施設で勤務した際に枯れ葉剤との接触で健康被害を受けたと訴え、沖縄の枯れ葉剤に関する情報を集めている元米空軍所属のジョー・シパラ氏(61)=米ノースカロライナ州=は13日、琉球新報の取材に、今回証言した元米軍人と今年7月に面会し「枯れ葉剤が埋められた場所はハンビー地域」だと地図を描いて説明されたと話した。
シパラ氏が得た証言によると元米軍人は69年、枯れ葉剤を含む物資を運ぶ米軍の貨物船が座礁した際に、船上から積み荷を降ろす作業に従事した。その際、枯れ葉剤が入ったオレンジのしま模様があるドラム缶も取り扱い、その割れ目から漏れた枯れ葉剤を浴びたという。その後、米軍が枯れ葉剤入りのドラム缶数十本を北谷町内に掘った全長46メートルほどの大きな穴にクレーンを使って埋め、土をかぶせたのを目撃したと話している。
北谷町幹部は81年のハンビー地域返還後に土地を再開発した時点では、地中からドラム缶は発見されなかったとしている。2002年には付近にある同町美浜の米軍返還地で油状の物質が入った大量のドラム缶が地中から発見されている>
「枯葉剤」といえば、日本では「ベトちゃんドクちゃん」が思い出される。沖縄県北谷町の海沿いに埋められた、と証言しているのは208リットル程度であるが、ベトナム戦争のとき、アメリカは確認できているだけでも8万3600キロリットルの枯葉剤を散布した。枯葉剤は400万人のベトナム人にも降り注がれたが、米軍の兵士もかぶったり吸い込んだりした。帰国後、訴えを起こしたベトナム帰還兵は4万人。臆病で卑怯な白人はすぐ、艦砲射撃やら火炎放射気やら、枯葉剤やら原爆を使うが、それはアメリカにまだ「徴兵制」があったからだ。つまり、多くの白人も戦争に参加する。なるべく白人は死なないように戦争をしなければならない。
イラク戦争でも空爆をしたのち、米軍は陸軍を展開させて戦争行為よりも多くの兵隊をテロリストに殺されたが、これはヒスパニックやら黒人が多く「軍隊に就職」していたからだ。アメリカ全土に黒人は12%しかいないが、軍人となると22%に跳ね上がるのがそれだ。
ところで、イラク戦争が始まってすぐ、アメリカ兵最初の捕虜が出た。その映像はアラブ系のテレビ局から世界に配信される。イラク兵は「なぜ、イラクに来たんだ?」と質問するのだが、コレに対して若きアメリカ兵は「フセインの独裁を倒すためだ。自由と民主主義のために戦いに来た!」とは言わず、なぜって、それは行けと言われたからさ、と正直に答えてしまう。不景気の底が抜けているアメリカで、給料はマシだし、家族の医療費は減額、学費も免除、なによりアメリカは戦争ばかりするから「仕事」がなくならない。
「徴兵制がある頃のアメリカ」はそれほどゲリラやテロが苦手だった。「テロとの戦い」など怖くて言えなかった。だから敵国は焦土にしないと怖くて上陸もできなかった。そんなベトナム戦争が終わって1年後、ベトナム中部高原のコントゥム省で、妊娠中の「フエ」という女性が井戸の水を飲んだ。生まれてきたのは「結合双生児」だった。「ベトちゃんドクちゃん」だ。
西側のボス・アメリカの残虐非道を共産主義は放っておくわけないから、この子供はすぐハノイの「ベトナム・東ドイツ友好病院」に移された。名前はそこから「ベト(越)ドク(徳・東ドイツ)」となった。
日本でもマスコミが喧伝した。日本中が「ベトちゃんドクちゃん」の大ブームだ。「枯葉剤」という言葉も有名になった。多額の支援金も集まり、日本赤十字社は「分離手術」の支援もした。御蔭で生き残ったほう、グエン・ドク氏は親日となり、結婚して生まれた双子の子供に「グエン・フー・シー」「グエン・アイン・ダオ」と名付けた。富士山と桜だ。今回の東日本大震災にしてもベトナムで募金活動を行い、来日までして日本赤十字社に寄付をしてくれた。彼は日本を「第二の故郷」と呼んだ。
しかしながら当時、共産主義者らの意に反して、日本国内で反米は盛り上がらない。「ベトちゃんドクちゃん」を生み出したのはアメリカ、ということは知っていても、それはそのまま「アメリカの非道」ではなく「戦争は悲惨」で思考停止する始末だった。GHQの洗脳はそれほど強力だったが、アメリカ人も支那人と同じく、具合の悪いモノを土に埋めて知らぬ顔をする。1969年といえば、米軍がベトナムからの撤退と削減を強いられている頃だ(パリ協定は1973年1月)。ソ連の後押しを受けた北ベトナム軍の勢いは強く、米軍関係者やらが逃げる際も、船の上に次のヘリコプターを着陸させるために、今着陸したヘリコプターを海に捨てる、ほどの慌てぶりだった。
ベトナム戦争の物資の多くは沖縄経由で送られた。使い残しの枯葉剤を好きなようにしても咎められない他国の地、沖縄県に埋めることくらいはなんでもない。しかも、アメリカ本国では「使用禁止」されている危険なモノだ。植民地に捨てて何が悪い、ということか。
「枯葉剤」には種類があって、これがわかりやすく「オレンジ剤・ブルー剤・ホワイト剤」などと色分けされていた。もっとも強力な毒性を持つのはエージェント・オレンジ(オレンジ剤)だ。証言では<枯れ葉剤が入ったオレンジのしま模様があるドラム缶>とある。間違いなく2,4-ジクロロフェノキシ酢酸(2,4-D)と2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)の混合剤にジベンゾ-パラ-ダイオキシン類を使用した枯葉剤、つまりベトナムで散布されたモノだ。米軍は沖縄で基地の中を除草もしたが、何より怖い「ハブ」も出なくなった。当時の沖縄の人も使っていて「アメリカの除草剤は10倍効く」と言っていた。
もちろん、健康被害は出ただろうが、アメリカの退役軍人ですら裁判を起こさねばならないわけだ。アメリカが沖縄県民のことなど気にするはずもない。また、動物実験では面白いほどの催奇性を発揮したエージェント・オレンジであるが、当時のアメリカ政府はどこかの国の原発保安院のように「人体での影響は不明」とした。理由は「人体実験を行っていないから」に過ぎないのだが、アメリカはコレをベトナムと沖縄でやったから、その後、ちゃんと日本にも「使用禁止にしたほうがいい」と教えてくれた。
地中深く埋めたはずの「大国のエゴ」は掘り返されて衆目に晒される。支那はコレが2日でバレるが、アメリカの「罪」はまだまだ世界中に埋められている。今日は大東亜戦争に負けて66年目だ。戦勝国の身勝手なエゴが掘り返される度に、一緒に埋められたはずの「日本の財宝」も掘り起こされる。メディアは馬鹿な餓鬼を用意して「今の若者は日本とアメリカが戦争したこと自体を知りません」と嬉しそうにするが、反面、ものすごく勉強している若者も出現し始めている。
今日、靖国神社には日本人の若者が集っていることだろう。英霊が残してくれた財産とは、地中に埋めてコンクリートを敷いたくらいでは隠せない。
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久代千代太郎
からす
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