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忘憂之物

私の家庭における仮面は3枚




2005年だったか、福岡市で18歳の女の子が保護された。母親は「障害があるので恥ずかしい」を理由に11年間も自宅に軟禁していた。また、計算ドリルなどを購入、一応、親として読み書き算盤は教えていたが、二女が脱走。警察に駆け込んで母親を別件逮捕、ふたりの女児はようやく「開放」された。いま、どうなったかは知らない。

「軟禁」とはこのように自宅などで行う。「監禁」との差異は身体拘束などをせず、許された範囲では自由に行動できる。しかし、外部との接触をさせず、情報を遮断してしまうことを言う―――のだと思っていたが、最近のテレビで「子供らは学校に軟禁されている」とのコメントを聞いて驚いた。職場のテレビだったので「チラ見」であるから詳細は知らないが、例の「桜宮高校」の問題で討論番組のようなものだ。その中で学者風の男が言っていた。だれかは知らない。

「金泳三」じゃあるまいし、と笑った。子供らは下校して「帰宅」する。情報も遮断し切れていないから困っている。学校で携帯がどうの、はずいぶん前から問題にもなった。それに「欠席」も可能だ。それに軟禁なら少数の軟禁対象者に多くの監視者が必要だ。普通、クラスに先生はひとりだろう。その気になれば全員が教室から脱走できる。学生時代、私もよく脱走した。指定された軟禁場所に行かず、サウナに行ってビールを飲んだ。どこの学者馬鹿か知らないが、そんな呑気な軟禁があるか。

もうひとりも馬鹿を言った。体罰という言葉がおかしいのだと。会社で上司が部下を殴ったらどうなりますか?バイト先で「指導」と称して店長に殴られることありますか?と真面目な顔でやっていた。よくもまあ、こんな阿呆みたいなことを笑わずに言えるモノだと感心した。大人になって人を殴ったら警察だ。そんなの私のツレでも知っている。常識だろう。それにリアルな社会はドライである。シビアである。そんな「殴らねばならない」ような阿呆、雇っている人件費はない。殴る前にクビにする。そもそも「そのくらい熱心」に指導する上司や先輩は貴重だ。

論調はもう「生徒に手を出したら犯罪」となった。ビンタもダメどころか、廊下に立たせるのも御法度。叱責するにも「生徒の気持ちを尊重して」「丁寧でわかりやすい言葉で」「フォローを忘れないで」。それでも相手が学校に「これなくなった」ならば教師はおろおろ、学校はドタバタ、教育長がメディアで謝罪して改善を約束する。当該教師は処分。

教職に就く方々よ、もう「先生」は辞めて塾の講師になったらいい。というか、もう「教師」という職業はリスクしかない。生徒は「二極化」する。「せんせい、他の誰かはともかく、ボク(ワタシ)のために授業をしてください」という生徒と、人権を謳歌して「何様か」になった餓鬼だ。親に喰わせてもらいながら一人前の消費者気取り、一人前の人格者気取り、一人前の個人様の時代がやってきた。「お子様」という妙な日本語は言葉だけではなくなった。問題が生じればすべからく教師の責任、学校の責任、行政の責任、親の責任は最後の最後、あるかないかの「個別の問題」にされた。「本人の責任」はタブーになる。

「半人前はぞんざいに扱われて当然」が許されない時代になった。もはや「半人前」など存在しない。みんな同じ権利を有する「にんげん」じゃないか、それに「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」もある。「こども」は大人と同等の権利を有する、が今の「児童観」である。

児童福祉の観点からも「尊厳を守る」「無差別平等」「自己実現」の3つのポイントは抑えねばならない。これ試験に出ます。「こども」は「子ども」と朝日新聞も書いている。私のようにいつまでも「子供」と書くような差別主義者の在日は許されない。ましてや「餓鬼」などとしていれば叱られる。そのむかし、亀井静香のファンに叱られたこともある(笑。


嗚呼、我が倅は可哀そうだ。アルバイトして学費の一部を収奪され、残った自分の収入で各種資格試験を受けている。スマホも払っている。妻のアイスも買わされる。語学留学の費用も3分の1は自分で出さされた。妻とそれを茶化すと「育ててくれたから、アルバイトもできるし、大学で勉強もできる。自分のことはできるだけ自分でやる方が自分のためになる」などと堂々たる洗脳教育の結果を述べる。

中学生の頃は私の暴力に怯えながら過ごしていた。少しでも母親に反抗すると「お父さんに言う」の一言で戦戦慄慄。それはポーズではなく、泣きながらの本気で「それだけは止めてください」と懇願するほどの恐怖。倅の権利などは一瞬で吹き飛んだ。

おおぉ哀れな倅。友人には親に対して「あんた」とか「こいつ」と呼べる先進的な家庭もあるというのに、倅からすれば「阿呆じゃないの?付き合い考えるわ。親に対する言葉かそれが」と馬鹿にする始末。

暴力的な躾、教育指導もさることながら、餓鬼のくせに、男のくせに、が口癖の冷淡なレイシストが家にいる。高校生のころから毎日毎日、夕食の用意から片付け、ゴミ捨てまでさせられている。夜になると母親の布団を敷き、休みの日には買い物に付き合わされて荷物持ち、私が脱ぎ散らかした洗濯物も整理し、今日も玄関の靴を揃えている。「家の手伝いに勝る勉学など無用」との百姓丸出しの家訓のため、勉強していようが寝ていようが、親が用事を言いつけると問答無用。そこで「えぇ~いまぁ?」と言って殺されたことも数回。



私の家庭における仮面は3枚。「笑ってる」「怒ってる」「普通」だ。「怒ってる」の仮面だけ、使えばすぐに取り換える。長く使う理由はない。次の仮面は「笑ってる」だ。妻と出会って捨てた仮面は「不機嫌」。これは用途がないことに気付いた。最近は娘も倅も大きくなった。数年以上「怒ってる」の面は使っていない。埃かぶっている。

教師はもう「怒ってる」の仮面は捨てるだろうが、相手は無論、自分の子ではない。つまり他人、知り合いの大人として扱う。無差別平等ならそうなる。相手が立派な個人ならそうする他ない。本気で「授業を受けない権利」を尊重することになる。福祉関連の資格を得るには勉強もするし、学校にも通うがコレと同じ。講義に出なくても「怒られる」などあり得ない。提出せねばならないレポートや課題などもそう。別に「出さないから」という理由で説教もされない。ただ、資格をくれない。

この「体罰問題」はやはり、知らぬ間に「暴力問題」にすり替えられた。スポーツの「しごき」やら「気合を入れるため」という非合理的、相撲協会紛いの「かわいがり」的な暴力行為から、教育的指導における「体罰」にまで紛糾は及び、のび太もカツオもやらされた「廊下に立たされる」すらが、とっくに認められなくなった。左巻きの連中は祝杯をあげるがいい。「大人から叱られない」という風潮は確実に日本の子供をおかしくする。

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