忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

未来の未に、希望の希

2011年03月29日 | 過去記事

産経新聞だ。先ず、記事を読んでほしい。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110329/lcl11032913240000-n1.htm
<命の限り叫び続けた 防災放送の女性職員、結婚式控え安否不明 母「頑張ったね」>


<大きな揺れの後、津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。東日本大震災で、津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)。いまだ安否が分からない。「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。いたわりと無念さに揺れる母親。秋に結婚式を控え、準備を進めていた。
 
「ないよね」。避難所に張り出された身元不明者、死亡者の特徴を書いた紙を指で追いながら、母親の美恵子さん(53)がつぶやいた。震災から2週間以上が経過し、更新される情報も日に日に少なくなっていく。
 
震災翌日から2日間はがれきの中を歩き続けた。「見つけられなかった。自分たちの手ではどうしようもなかった」。隣に寄り添う父親の清喜さん(56)はうなだれた。
 
3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ、赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くす。
 11日、未希さんは2階で放送していた。「6メートルの津波が来ます。避難してください」。冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。海岸にいた両親にもその声は届いた。
 
庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。

未希さんは勤続4年目の昨年4月、危機管理課に配属された。介護の仕事に就くことを考えていたが、両親の希望を聞き入れ、町職員を選んだ。
 
昨年7月に婚姻届を出し、今年9月の披露宴に向け楽しそうに準備していた。景勝地・松島のホテルを早々と予約。昨年12月、初めて衣装合わせをしてみた。「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。お母さん一緒に見に行こうね」。そう約束していた。
 
美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。最後の方は声が震えていたという。「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。実際は怖かったと思う。母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」
 
町は人口約1万7千人。約8千人の所在が分からず、被害の全容はまだ把握できていない。それでも避難所へ逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」と清喜さんは涙ぐんだ。
 
「未来の未に、希望の希」。美恵子さんは娘の名前をそう説明した。壊滅した町には新しい電柱が立ち、がれきの間に道が通るようになった。少しずつだが、未来に向けて動き始めている>







「ど左翼」以外の人はみな同じことを思い出したはずだ。

そう。昭和20年8月20日の眞岡郵便局にて、最後まで本国との電話と電信を途絶えさせなかった「九人の乙女」である。また、私はこの記事を読んで延髄に電流が走った。

今回、宮城県南三陸町にて防災対策宿舎に逃げ出さずに残り、津波の危険を町民に訴え続けたのは遠藤未希さんという女性で24歳だった。そして、あの当時の眞岡、今は勝手にロシアが「ホルムスク」と呼んでいるところで残留募集に応じ、最後の最後まで本土との通信維持に務めていた女性交換手の班長、電話主事補の女性の名は「高石ミキ」さんだ。享年24歳。なんとも年まで同じだ。

遠藤未希さんは、もうすぐ幸せな新婦になる。どうか、どこかで生きていて欲しい。助かっていてほしい。65年前の眞岡で、あなたと同じ名で同じ年の日本人女性が最後の最後まで頑張った。でも、あなたは違う。みんなを助けて、尚、あなたも助かるのだ。

どうか天国の「高石ミキ」さんよ、あなたと同じ名の同じ年のこの日本人女性を救ってくれ。ウェディングドレスを着させてあげてくれ。どうか、たのむ。

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