少し前の産経新聞のベタ記事で、68歳のお婆ちゃんが「スーパーで割引きシールを貼り替えて捕まった」というのがあった。何かしらの商品に貼ってあった「3割引き」のシールを勝手に剥がし、その日はウナギが喰いたかったのか、1500円ほどのウナギのパックに貼り付けてレジに並んだところ捕まった。被害額は数百円というところだろうが、もちろん、これも明確な犯罪であることに違いはない。
しかし、だ。私はこの記事を読んで、産経新聞は他にネタがないのかと心配になった。新聞の紙面は白紙にするわけにはいかないから、何かしらの文字で埋めることになっている。私も何度か投稿した駄文を載せてもらったことがあるが、このような高齢者の軽犯罪をわざわざ載せる理由はなんなのかと考えてみた。しかも、ちゃんと実名報道だ。
しかしながら、この「事件」が他の事件と関連するわけでもない。何かのテーマにすらなっていない。まあ本来、新聞というものは事実を淡々と書くのが仕事であるから、ウソばっかり書く新聞よりはマシなのであるが、それにしてもショボイではないか。
このお婆ちゃんの「実名」で検索したりすれば、もしかすると、どこぞの「ど左翼」の人間だったりすれば面白いのだろうが、それはもう知らない(笑)。
また、その手の団体の幹部などがショボイ犯罪で捕まると、その支持者などから「なんでだ?」という声が上がるのも面白い。「ど左翼」の反対側にいる人らもちょくちょくやられているのだが、ネットなどでは「これが在日だったら捕まえないくせに!」のような声も聞こえている。つまり、少し前に流行った(?)「国策捜査だ!」というやつである。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/110112/crm1101121954033-n1.htm
<在特会の元支部長逮捕 休業損害金の詐取容疑>
書いていいかどうかわからんので詳細は避けるが、私はこの御仁を何度か見た。台湾から「とある要人」が来日されたときも、大阪で有名な「鍋の店」で凄い顔ぶれが集まり、その方を歓迎する会が催されたことがあるのだが、なぜだか私もその末席に座っていて、その歓迎会が終了した際、この御仁が遅れてやってきたことがある。ジャージで、だ(笑)。
ンで、この御仁、2009年には兵庫県の小学校校長を脅して、2010年には車庫飛ばしで、そして今年は休業損害金の搾取容疑で、なんやかんやとずっと捕まっている。
もちろん、私も「日教組は解体すべき」だと強く感じている。日教組の様々な問題については目にあまり過ぎる。民主党やらマスコミやらの前に、何とかすべき害毒であることに異論はない。しかし、動機が正しいからということで手段は正当化できない。
それに世間にモノ申すなら、そこはやはり気を付けねばならないところだ。これは二代目弥右衛門氏の言葉だが「何を言うかも大切だが、誰が言うかも大切である」ということだ。。私がいくら偉そうに何かを書いたり話したりしても、その帰りのスーパーで万引きしたのがバレたら、次の日からは誰も相手をしてくれなくなる。当然だ。色々と「人間性」を疑われることになろう。また、これの典型が「ど左翼」である。旧聞ながら「みのお9条の会」の呼びかけ人が道路で口論しただけの相手を刃物で刺す、という事件もあった。現在の政権与党が「クリーンな政治」という冗談を言うのと同じことだ。つまり「言っているだけ」だとわかる。
まったく私の主観だが、例えば「酒飲んで喧嘩して捕まった」は人格までを否定しない。「立ち小便」も歴然たる犯罪行為だが、これでお巡りさんに叱られて「ごめんなさい」も恥ずかしいだけだ。駐車違反やシートベルトの非着用など、あるいは一時停止無視や一方通行逆走なども、完全なる道路交通法違反であるも、その場合をして「人間の屑」とまで言うのは言い過ぎである。これらはうっかりしていたり、ちょっと「ま、いいや」と思っただけの「出来心」の範疇で収めてあげてもいい。もちろん、何事も「常習」となればダメだが、人間はなかなか真っ直ぐに歩き続けることも大変じゃないか。
しかし、だ。
あまり不細工なことはダメだ。とくに小銭と色ボケに関する犯罪はカッコ悪い。保守を標榜するなら、犯罪するときもカッコ良くしなければならない。政治家も横領するなら西郷従道と山本権兵衛のように戦艦・三笠を買うなどの「国のため」になることをせよ。西郷従道は「私と貴方、共に二重橋で腹を切りましょう」と言って公金を横領したのだ。この話と権力維持だけのために公金をロンダリングする小悪党を比す気は毛頭ないが、あまりショボイことで世間を騒がすと、何を言っているか、よりも誰が言っているか、の法則でマトモな意見が小さくなるから勘弁してもらいたい。
また――――
これも私の嫌いな言葉であるが、いわゆる「魔が差す」という言い抜けだ。
「あんなに立派な人がなんで・・・チカンなんか・・魔が差したとしか言いようがない」みたいなアレだ。この「魔が差す」という言葉は「誰にでも起こり得ること」だとして語られることが多い。「同じ人間だし、人は魔が差す、ということがあるから、我々も気をつけよう」という人は、ならば「私は万引きする可能性がある」と言えばいいし、「チカンだってするかもしれない」と言ったほうがいい。私なら付き合いを止める。
だから私はあの「人間だもの」があまり好きではないのだ(笑)。あのポスターやカレンダーを見つけたら、いつかこっそりと「人間だから」にすり替えておきたいものだ。
昔の人はだからこそ「小人閑居して不善をなす」と言った。要するに、やるべきことを懸命にやらぬから、いつもヒマでやることがないのだ。例えば、売れっ子芸能人で「殺人者」はいるだろうか。これを「金持ちだから」とか「有名だから」というのが無理なのは言うまでもあるまい。犯罪とは有名人でも、金持ちでも行うことがある。麻薬で捕まるのも「落ち目」になってからが圧倒的なのもその所為だ。売れている間は猛烈に忙しいから、犯罪を行っている時間がない。あくまでも物理的な理由だ。なかなかここに「魔」は差さない。
つまり「魔が差す」というのならば、その「魔」とやらは「どこ」を差すのかと考えねばならないということだ。なんとなく過ごしている日常に、ぽっかりと空いたエアポケットのようなところを狙って「魔」は差す、というイメージがあるかもしれないが、ならば、そのエアポケットに「何を詰め込んでいるか」は非常に大切なことではなかろうか。
人間のこういう「スキマ」をみつけたら、どこからともなく、笑っているセールスマンがやって来て「どーん!」とかされるのが「魔」を差されることだとすれば、その「穴」を塞ぐ作業はとても重要だ。「心の隙間をお埋めいたします」→「結構です」が理想なのだ。
この「穴」とは先ず「不満」だ。それと「(個人的な)欲」などだ。これらのネガティブな思考は「自分のことだけ考える」という超個人主義が根本要因としてある。いわゆる「カラスの勝手主義」である。実に隙だらけの人生、である。
ところで、テレビドラマで「リセットしますか?」とかいうのがあった。人生における様々な「分岐点」での選択を「やり直すことが出来る」というドラマだ。あれを「おもしろい!」と言って見ている妻に、これね、リセットした本人はともかく、周囲にいる「リセットされる人」の視点から考えればどうなんだろうね、と質問したらリビングから追い出された。
私はここにひとつ定義を立てることが出来ると思う。それは、
くだらん犯罪を行う馬鹿は自分のことだけしか考えない
ということだ。それなりの立場や職位にある者が、あるいは世間様に対して真上から「啓蒙」するような弁士が、クソつまらん犯罪でぱくられたりすることを「魔が差した」と擁護することは勝手にすればいいが、明確なことは「そういう人間は結局、自分のことだけしか考えていない」ということだ。つまり、結果に伴う影響や迷惑などがぶっ飛んでいるのだ。
自省の念を込めて言うが、自分の言動を思い出すに、犯罪までとはいかなくとも、それなりに周囲に迷惑かけてしまったりしたこともあろう。それこそ「人間だもの」だ。しかしながら、そういうときには必ずと言ってよいほど「自分勝手」が根本的要因として寝そべってはいないだろうか。人は「自分のこと」を全面的に押し出し、優先順位を高めるときこそ、人様と衝突する。無論、日本の戦後外交じゃないんだから、これは「全て譲れ」と言っているのではない。私が言いたいのは自分の「利」でなく「理」を強調するとき、人は戦ってもよいと思われる。「理」というのは「自分勝手の反対側」にあるからだ。
また、私が思う「閑居」とは物理的なことだけではなく、どちらかと言えば「モノの考え方」によるところが大きい。分刻みのスケジュールで生きている人は、なかなか「自分勝手」なことを考える余裕がないが、人格はどうであれ、その瞬間とは必然的に「他者のこと」を考えながら生きていることになるからだ。だから「不満」やら「欲」を感じることも物理的に不可能だったりする。
しかし、これまた当然ながら、人生とはそれほど「ずっと忙しい」わけでもない。24時間365日忙しくされているのは、地球全体で天皇陛下だけだ。つまり、物理的に人はヒマになることがある。時間に追われる生活であっても、それが「体だけ」ということになる場合がある。思考はどこかでヒマを持て余している。心の手持無沙汰だ。
このとき「自分のことばかり」を考える人は、笑っているセールスマンの侵入を防げない。リセットしますか?→・・・します、となる。「魔が差す」のはこの状態のことだ。
もちろん、自分のことを考えぬ人間はいない。しかしながら、これまた人間とはすばらしいモノで、人間とは「他者を介した(社会を介した)自分のこと」を考えることが可能だ。縦と横のつながりを意識してからの「自分」という存在を考えるわけだ。地球にはまだ、そっちの人が多いから、なんとかなっている。
子供の頃の「将来の夢」などでも「何になりたいか」と「何をしたいか」がセットになっている子供は素晴らしい。この具体性こそが、人生における指針となろう。支那人の子供が「警察官になりたい」と「汚職が出来るから」がセットになっているが如く、医者になりたい人は命を救いたいわけであり、警察官になりたい人は治安を護りたいわけだ。
タレントになりたい子供は、人を楽しませたい。なぜ?と問えば、それはテレビを見た人が明るく元気に過ごして欲しいから、などと答えることになっている。タレントになって「有名になりたい」とか「金持ちになりたい」などと答えるずる賢い子もいるだろうが、とはいえ、それは「人を楽しませたい」を否定することにはならない。
それなりの立場や職責にある立派な御仁が、つまらぬ犯罪行為でそれらを全て失うことがあるのは、つまるところ、その立場や職位の意義を失念しているからに他ならない。もしくは、最初からそんなものが「ない」か、だ。ほとんどの職業的立場や社会的立場で名声や地位、あるいは財産を築くのは単なる付帯要素のひとつに過ぎない。また、当然のことながら、それらを伴わぬ歴然たる成功もある。それがわかっている人に「魔」は差さない。
真顔で「俺だってお前だって犯罪者になる可能性はある」という人がいる。それはもちろん否定しない。私は暴力を否定しないスタンスであるから、私の妻に何かあれば、私は容赦なく暴力を使う。つまり、私は傷害罪や殺人罪に問われる可能性は「ある」と言っておく。しかし、私が私である限り「痴漢」で捕まることは理論的にあり得ないと言い切ることは出来る。また、私は万引きをしないし、頭の悪い詐欺で小銭をちょろまかしたりもしない。これらは理論的に導き出される結論なのだ。
例えば、靖国神社参拝し、遊就館を見学し、先人に対する感謝の念で胸がいっぱいになった人は、帰りの電車で痴漢をしないと言い切ってもよい。護国神社に参拝し、賽銭とは別に1万円寄付させていただいた帰り道、立ち寄ったスーパーで万引きする人はいないと断じてよい。つまり、魔が差す隙間がない。同じく、家族のことを愛し、社会のことに興味を持ち、人はなぜ生きて死ぬのかと哲学をし、どんな仕事であれ「人様の役に立っている」と実感しながら感謝の念を抱き、不満を抱く己を恥じ、欲を使いこなし、お天道様の下を堂々と歩ける人に魔は差さない。「魔が差す」ということは免罪符にならない。むしろ、魔が差すような状態に甘んじていた、という恥ずべき精神状態のことをいう。
だから、現在の政府与党は、魔が差しまくりなのだ。
コメント一覧
久代千代太郎
karasu
karasu
最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事