2020年12月1日追記(下に追記あり)
本来の”仏教”は宗教ではなく、哲学・思想的理論です。
扨、「三法印」は
”諸行無常”,”諸法無我”,”涅槃寂静”です。
仏教には”無”という概念が多用されますが、
これと並び”空”という概念も多用されます。
では”無”,”空”,”虚”の違いを説明出来るでしょうか。
これが解っていないと、
今後の説明が難しくて理解出来なくなってしまいます。
哲学・思想の世界では小難しい説明をし勝ちですが、
この場合、理屈を捏ねる事が目的では無いので、
簡単な説明が出来ないと意味がありません。
①「無」・・・無い
或対象が存在しない事。
(例:林檎が無い)
②「空」・・・固定した実態が無い事。インド数学の”ゼロ”
或対象の存在を設定した状況に於いて、その対象が存在しない事。
(例:林檎がゼロ個)
③「虚」・・・嘘、いつわり、実態が無い
仮に設定した理論上の存在。
(例:虚数・・・現実には存在しない理論値)
有無・・・あるなし(有るか無いか)
空無・・・中身を欠いている事。
空有・・・物事の実態が有るという概念と無いという概念
空虚(虚空)・・・空無に同じ
虚無・・・むなしい(虚無感)、何も存在しない事。(虚数・虚勢など)
「仏教辞典」に書いてある事、
又、単語の意味を要約すると上の様になりますが、
これでは全然解らないだろうと思います。
*時代や地域で様々な解釈が為された結果、
意味が重複する解釈があり、
解り難くなってしまっている事も影響しているでしょう。
そこで、もっと解り易く私流に解説します。
”無”・・・無い、存在しない、数学上のゼロ
・単純に実態の有無を区別するものです。
”空”・・・有る様に認識している対象は本質的存在ではない。
・風(かぜ)に例えてみます。
「風が有る」、「風が無い」と言います。
風は認識出来ますが、風という存在があるのではない。
風は「空気の流動」ですが、空気も間接的に確認は出来ても、
直接確認出来るわけではない。これも又本質ではない。
そういう事を”空”と云いますが、
「”風”が無い」と云えば、”無”ではないかという考え方も出来ます。
”無”との違いは、
風は現象であって風という物質が存在するわけではない事。
空気が流動する事で相対的に風を確認出来る。
空気は直接確認出来ないが、
間接的な方法で存在が確認出来る。
これは相対理論といわれています。
”人”も同じで、
人の存在は目で見て判るでしょうが、
整形手術をして、
見た目が別人の様に全く変わってしまったらどうでしょう?
「まるで別人の様だ」と言うかもしれませんが、
姿形が変わってもAさんはAさんである事は変わりません。
つまり、姿形はAさんの本質ではないという事です。
狭義ではAさんの本質は霊というか、
”輪廻転生”の世界では”魂”と云いますが、
広義では更に先があって、
”魂”は物質的な姿が無いので「性質の出方の個性」で区別し、
輪廻転生の過程で様々な経験を積んで進化するなり、
退化するなり変化するので、
これも究極では本質ではないという理屈になります。
その本質を仏教では”仏性”と云います。
”虚”・・・実際には存在しないが、便宜的に仮定した理論的存在。
・数学で”虚数”は二乗してもゼロ以下になる数値を指します。
本当は臆病なのに「虚勢」を張るとか、
失意に沈んで「虚無感」に陥るとか、
実態が無く、相対的根拠も無いのに、
有ると仮定した上で無い事を示す場合に多く使われています。
ここまで説明した上で、
”三法印”を再び説明します。
”諸行無常”の主たる意味は、「固定された現象というモノは無い」です。
・「全ての現象は変化し続ける」という事です。
「平家物語」では、「平家の栄華が永遠に続くものではなかった」
という意味で使われている”空の時間論”です。
”諸法無我”の意味は、「宇宙の真理の下で我は存在しない」です。
・「宇宙の真理(法)というものが大本の本質であり、
その”諸法”の一部を受け継いで個性を発揮する。
これを「仏性」(法の性質)といいます。
前出の”空”のところで説明した様に、
宇宙の真理(法)を部分的にチョイスする事で、
魂の個性が出来ているので、
人間の本質は魂、魂の本質は宇宙の真理、
従って、我と認識しているものは、
我ではなく「仏性」という(宇宙の真理=法)の一部であるという意味。
これは”空の概念”そのものだと思います。
ややこしいのは、
「この世(物質界)の空」と「あの世(霊界)の空」で
それぞれ理論の適用があるからです。
勿論、「三法印」全ては、どの世界でも適用される法則です。
”涅槃寂静”は「煩悩の火を消し去って心が穏やかに静まった情態」。
つまり何事にも動じず、精神状態が常に安定しているという事です。
もし、心が穏やかならざる情況ならば、
心が荒んで行動に顕れるでしょう。
すると周りの人にも影響を与えて空間的に広がっていくでしょう。
逆に心が穏やかに静まっていると、周囲にも安心感が生まれるでしょう。
つまり、「風」を「煩悩」に置き換えて、
「煩悩という苦しみ」を消し去れば、
心の世界は安定するでしょう。
それは自分がわざわざ作っている情態であって、
本来そんなものは存在しないのだという事です。
これは”空の空間論”と云えます。
建付としては、
「(諸行無常)固定されて変化しないモノなど無く、
(諸法無我)そこに我なる実態はない。
(涅槃寂静)我が我がという煩悩・執着を捨てれば、
全て実態の無いモノに怯え苦しんでいた事に気付くだろう。」
という事になるでしょう。
この様に”無”,”空”,”虚”の違いを理解すると、
以前より踏み込んで理解が出来る様になるのです。
2020年12月1日追記
ややこしくなるから書かなかった事があります。
”無”,”空",”虚”の説明に於いて、
岩波書店の仏教辞典の説明と
自分の説明に大きな違いがある事についてです。
例えば数字のゼロは”空”に含まれていましたが、
私は”無”に含めました。
その理由はインド数学に於いては、
「有ったモノが無くなる(固定した実態がない)から”ゼロ”は空」
という発想なのかもしれませんが、
「無い!」と言えば、普通は「何が?」となる筈で、
無い事はその対象が何であるかを知って初めて共通認識が出来ます。
別のモノで例えるなら、”闇”はどうでしょうか。
”闇”というのは、それ単独では認識出来ません。
”光”という対象が有って初めて”闇”が認識出来るのです。
”林檎”なら、「林檎が何個有るか?」「林檎は無い」(ゼロ個)となるので、
これは「有無」の話であって「空」の話では無いと考えます。
ですから、私は”ゼロ”を無の概念として区分するのです。
これに対して、”空”とは
「其処に見えているモノはそのモノの実態ではない。」
という風に、普通に認識出来ているモノとその本質に乖離がある事を示す
概念を表すものであって、「一個の林檎を食べたからゼロ個になった」
という時間経過で変化するという事自体を言っているのでは無い
という事です。
そこで、解り易くする為に「人が整形して姿形を変えたとしても、
別人になるわけではない。だから姿形は本質では無い」
これを”空”というのだと説明したのです。
2500年の間に様々な地域で様々な人が解釈を加えて
意味がゴチャゴチャになってしまったので、
キチンと整理した方が良いと思います。