仏教を考える上でもう一つ大事な事は、
”中道 ”(ちゅうどう)という事です。
簡単に云えば「両極端を避ける」という事です。
釈迦は生まれた時に実母を亡くしており、
母親の愛情を感じる事無く育っています。
勿論、大事に愛情を持って育てられていないという事ではありませんが、
母親の愛情を受けられるかどうかというのは、
大人になっても影響を受ける可能性の大きな要素です。
釈迦はシャカ族の王子ですから、何不自由ない生活を送っていたわけですが、
唯一物足りないと感じたのが実母の愛情であったのではないかと思います。
これだけは余人を以て代え難いものである事を実感しています。
扨、或時思い悩んでいる様子の息子を見た父王から、
「城外を散策して来たらどうか」と提案されます。
そこで民衆が様々な理由で苦しむ姿を見て、
更に思い悩むわけですが、
修行者の姿を見て、
自分も出家して修行すれば何か得られるかもしれないと考えたのか、
出家を決意する事になります。
当時、苦行を通じて超能力、神通力を得る事を求める風潮が有ったようです。
釈迦は”断食"の修行をしたものの、何も得られる事がなく、
ガリガリに痩せ細った体になってしまっていたところ、
スジャータ-という女がミルク粥を供し、
その女の姿に、
宮廷での贅沢な暮らしの中にも、出家苦行の中にも
悟りの要因が見つけられなかったが、
普通の暮らしの中にその答があるのではないかと考える様になります。
瞑想によって悟ったとされていますが、
実際には哲学的アプローチで、
是迄見聞してきた様々な事象を検証していたのではないかと考えます。
これを続ける内に不思議な現象が起こる瞬間が来ます。
精神集中して心境が安定してくると、
異世界とコンタクトが取れる人がいます。
基本的には守護霊と呼ばれる者です。
但、程なくして邪悪な霊の介入が始まります。
この世と近い世界とは、
比較的簡単にコンタクトが取れる(と自分では思っている)ものの、
電話やメール等で詐欺が横行している様な事が、
この場合にもあって、言葉巧みに乗っ取りを企んできます。
それに負けて精神科にお世話になり、一生病院から出られなくなる人や、
肉体を乗っ取られてしまって、犯罪を犯してしまう者等がいます。
余り一つの事に固執して集中すると危険です。
ニュースで時々、「殺せという声が聞こえた」とか云っているのを聞くと、
「嗚呼遣られたな」という事です。
或いは多重人格になる人も同様に乗っ取られたという事です。
医学的には脳の異常障害か何かだと思われているみたいですが。
安易にこの世界に踏み込むのをお勧めしないのは、
こうなったらほぼ、
どんな方法でも救出する事が出来ないと思うからです。
もし除霊が出来たとしても、
霊を受け入れやすい体質は変わらないのです。
話が脱線しましたが、
釈迦も守護霊との対話をした後、
悪魔との対決を経て悟りに至ったとされています。
古代インドに於ける一般的な悟りの定義を仏典から読み解けば、
細分化された一つひとつの問題を対象にして、
これを理解出来たという事を指しているのではないかと思われます。
しかし乍ら本当に悟ったと言えるには条件があります。
今、或事を理解したとして、
それが本当に理解出来たかどうかを確かめるには、
某かの実体験を通した実践が必要です。
そこで合格すれば、本当に理解したと認定されますが、
更に来世(あの世)を経て来々世(未来のこの世)で
応用課題を受けて合格する必要がある場合もあります。
例えば「阿羅漢」になるというのは、
悟りの世界では一応”仮免”乍ら一定のレベルと認定された状況です。
これには予備試験と本試験があると考えると理解しやすいでしょう。
生きていく事に必死な時代には、
精神性の高みには意識が向き難い面がありますが、
現代日本の様な先進国に於いては、
社会が複雑化し過ぎて、単純で素朴な社会より悟り難い環境です。
従って現代で「阿羅漢」になるのは本当に”狭き門”といえます。
尤も、釈迦の悟りは「大悟」(たいご)といって、
この世に居ながらにして仏になるという、総合的な悟りを意味します。
しかし、実は釈迦の悟りはこの世に生まれてから悟ったわけではなく、
元々魂が持っていた悟りの引き出しの鍵を開けて引き出してきただけです。
「三身」という言葉があります。
ウィキペディアの説明ではちょっと違っているように思いますが、
”法身仏”(宇宙の真理、法則)が便宜上、如来や菩薩として指導的立場の人格を以てあの世で人々を導く姿を”報身仏”といい、
実際にこの世に生まれて悟りを開示する存在を”応身仏”というので、
釈迦の場合は、この世に生まれてから初めて悟ったわけではなく、
”法身仏”の一部が人格を以て、更に地上で修行をして悟ったという体裁で、
「皆、着いて来なさい」と導いてくださった存在という事になります。
普通にこの世で一回修行しただけで
一気に悟りを開くという事はあり得ない事です。
普通の人は何度も本当に悟ったのか、確認の為に課題が与えられるので、
何度も輪廻転生してから認定されるのです。
どんな場合でも、下地があっての悟りなのだという事は云えます。
扨、何故「阿羅漢」を目指すのか。
誰でも「幸せになりたい」という気持ちは持っているものですが、
仏教では「如来」、「菩薩」、「阿羅漢」というのが、
一応大まかな悟りの段階として挙げられていますが、
上に行く程幸福感が増すからです。
「いやいや、私は今のままで充分です」という人も居るかと思いますが、
その認識自体が間違いです。
幸福感というのは、気付いていないかもしれませんが、
次から次へと連鎖しつつ、発展変化していくから続くのであって、
現状維持の状態というのは何れ衰退していく事になります。
現状維持だけでは幸福を感じなくなってしまうのです。
「三法印」のひとつ、”諸行無常”です。
幸福感を持続させるには、発展させる必要があります。
その為の努力が必要で、これを仏教としては「菩薩行」といいます。
「菩薩」という本免許を得る為に、「阿羅漢」という仮免許を取得する。
そういえば、修行という話になりますが、
悟りの世界を日常生活で表現するなら、「幸福の追求」です。
「幸福の追求」には作法があり、
自分が得するなら何でも良いのではなく、
一定のルールがある。
それを一言で言うなら”中道”です。
別の云い方をするなら、「良い塩梅(あんばい)」
バランス感覚が大事という事です。
釈迦が追い求めていたのは、
「幸福の追求」に必要なバランス感覚を知る事で、
それを学ぶ事が出来るのが「仏教理論」です。
*守護霊とは
守護霊というと、TVで見る様な霊能者がよく言います。
「あなたのお爺さんが守ってくれています」
「あなたのご先祖様が~」
「あなたが飼っていたペットが~」
そういうのは間違いです。
その霊はほぼ、天国の最下層(幽界)の住人と見て良いでしょう。
縁がある霊が近くに寄ってきているだけなので、
見間違い易いのですが、守護霊ではありません。
守護霊というのはこの世の本人の分身なので、
守護霊は本人の持っている情報を全て共有しています。
守護霊も本人と同じレベルなので、
本人が意識低めの人物なら守護霊も出来ることは余り無い、
という問題もあります。
逆に意識高い系の人物の場合、
インスピレーションという形等で援護してくれる場合があります。
後は、受け取る側が上手くキャッチしきれるかどうかが
鍵となる場合も多いです。
*便宜的に仏教用語を使っていますが、
仏教用語自体が矛盾を含んだ説明がされている事が多く、
解釈が一葉ではない場合も多いので、
”ここではこういう解釈で使っているんだな”と
推測していただけると有り難いです。
今回のお勧め書籍
これはなかなかに難しいので、マンガで読むのもアリかな。