「仏教は宗教では無い」と云ったら、どう思うだろうか。
今では葬式仏教と揶揄される仏教ですが、
釈迦が亡くなった時、弟子達は釈迦の葬儀をしていません。
葬儀をしたのはヒンズー教徒達でした。
それは釈迦が自らの葬儀を禁じたからですが、
その理由はおそらく、
「死んだ後の事を心配するより、生きている間に自分磨きをしなさい」
というメッセージが込められていたのではないかと思います。
第三話で述べた様に、今どういう生き方をするかが来世(あの世)、
来々世(この世)に影響するという事に通ずるモノがあります。
とはいっても世間での死への恐怖は収まるものではなく、
需要に応える為に葬儀も行う様になり、
やがて仏教といえば葬儀と法要のイメージになってしまいました。
では元々の仏教とは何なのか。
釈迦は人生に於ける様々な苦しみの意味を求めて出家するわけです。
最初は身体に負荷が掛かる様な苦行をしていたものの、
そこでは求めていた答は得られず、
静かに瞑想して悟ったとされていますが・・・。
私は世の中に起きる事をひとつづつ論理的に繋いでいって、
「作用・反作用の法則」を導き出したのではないかと考えます。
この法則はこの世だけでは完結しない事が多いので、
当然、あの世の存在に行き着いたはずです。
勿論、或一定の方法に依って霊道を開き、
この世ならざる存在とコンタクトを取る能力を身につける事は可能です。
この世ならざる存在と心で会話して得るモノは大きいですが、
自己制御に失敗して精神科のお世話になっている人を実際に知っているので、
安易に手を出す事はお勧めしません。
「無記の教え」といって、あの世に関する事は語らなかったとされています。
安易に手を出すと危険な世界である事を身を以て知っているからこそ、
誰もが足を踏み入れる事が出来るものでは無いと考え、
触れたがらなかったのだと考えます。
仏教というのは、
哲学的な面があり、
自己啓発的な面があり、
スピリチュアルな面もあるので、
バラモン教やヒンドゥ教等の影響を受けて宗教化していったと考えます。
釈迦はソクラテスや孔子と同じ様な存在だと思っています。
因みにソクラテスはこの世ならざる存在(ダイモン)と
コンタクトを取っていた事が記述されて残っています。
次回からは仏教理論に入っていこうと思います。
今回のお勧め書籍(自分は読んでいませんが)