<『戊辰役戦史』の説明>
早朝から前日と同じく敵襲があり、官軍は陣地にて防御したが、因州・芸州両兵共、辛うじて陣地を保持する状況であった。だが、この急報によって久ノ浜ないし四ツ倉付近にいたと覚しき長州2中隊と岩国1中隊が、正午頃広野に到着した。戦闘の岩国兵は中央、長州は左右に展開して直ちに攻撃前進。
長州兵は強い。戦勢有利に気をよくしていた同盟軍に対し、陣地から踊り出した長州兵は何の猶予も無く、いきなり敵陣に突っ込んだ為、同盟軍は仰天して敗走した。これに追従して因州・芸州兵も突撃した為、攻守急転、そのまま下北迫付近の同盟軍陣地まで追尾した。
官軍に不意を突かれて退走する同盟軍は、手近の自己陣地止まり得ず、更に後方に向かう。同盟軍の諸隊長が兵を弁天坂付近の陣地につかせようとするも、逃足のついた廃兵はただ一図に退走する。従って、同盟軍はここで踏み止まった多くの高級将校を失った。仙台藩参謀中村権十郎以下、隊長2名戦死、相馬藩上級指揮官相馬胤真は重傷、春日陸軍隊隊長1名戦死という有様だった。
これらの隊長の死傷によって更に敗退度を増し、弁天坂の陣地にも止まり得ず、その前進根拠地たる木戸駅にも止まり得ず自焼して北走。上繁岡北方高地帯にも止まり得ず、富岡を過ぎ、相馬領内の熊ノ町付近でようやく停止し、兵を集合して隊伍を整頓した。($①P532)
相馬2小隊と仙台兵(兵力不明)の右翼隊は丘陵の通過に手間取り、正午過ぎに広野訳西北90メートル高地付近に達したが、ここに官軍の小陣地があって銃撃を受けた。同盟軍がこの陣地を攻撃中、午後2時頃に長州1中隊が到着し、直ちに攻撃移転され、仙台・相馬兵は敗走。だが、丘陵帯のおかげで急追を免れ、後退することができた。($①P533)
その日、相馬兵は大阪(木戸西南西3Km山中)にも1部隊(詳細不明)を出していた。
右側支援の部隊が大阪から南下して七曲(木戸駅南西3Km山中)に出たが積極性が無く、退却してきた友軍右翼隊の一部を吸収しただけで大阪から更に後方の大谷(木戸駅北北西3Km)まで後退宿営した。
芸州・因州の諸隊は木戸まで追撃したが、夕方広野駅付近の陣地に帰って宿営。
長州・岩国兵は木戸駅が丸焼けなので、その付近に宿営した。($1P533)
この日の戦闘で岩国兵は戦死1・戦傷10を出したに過ぎなかったが、長時間陣地戦をした因州兵は戦死6・戦傷31を出し、芸州兵も戦死4・戦傷40を出した。
同盟軍は仙台兵が戦死6・戦傷18、相馬兵は戦死7・戦傷16を出した。
何故因州・芸州兵に多数の傷者を出したのか原因は判らない。($①P534)
<芸藩志第18巻>
〇七月廿六日朝賊軍は大挙して来り広野を克復せんと謀り本道及ひ駅の左右両側面より迫り恰も本駅を合図したるの姿にして其勢ひ猛烈なり是に於て直に正面へは藤田次郎加藤種之助等と共に若干隊を以て駅口ヘ仮胸壁を造り之に当り又左側へは槗本素助等別に一隊を以て之を防く而して賊は漸次兵を増加して其勢ひ益猖獗なり是に於て我兵は殊死して激戦す日午に至れとも勝敗未た決せす因州藩士某兵を以て来り曰く尊藩の兵死傷頗る多し而して勝敗未た決せさるは如何と藤田次郎怒り之に答て曰く我兵の部署進退皆其宜きを得さるに非す只駅の左右は深林にして兵を進むへからす畢竟地利其宜を得されはなり足下試に其兵をして向戦せしむへしと某曰く諾と兵を麾て進む而して其兵死傷多し某来り我兵の之に代る事を請ふ我之れに謂て曰く弊藩は殊死して此駅を守る兵士皆死するに非されは賊をして之に拠らしめさるなりと此時我兵死傷益々多しと雖士気は益々振ひ奮戦激闘す遂に賊勢少しく衰ふ時に右側なる賊兵は長兵の為めに撃破せられて退却し又左側へ迫りしは米沢兵にして是亦我兵之れを撃退するあり茲に於て三面の賊軍皆敗れたるを以て我か正面の兵は追撃して彼か砲台に迫る駅を拒る十余丁賊兵再ひ之に拠り抗戦す偶々長州兵来り砲台の側面を攻む茲に於て我軍大に振ひ遂に砲台を取る賊兵は木戸駅に放火して退走す此時佐久間義一郎等先頭進兵せしと雖賊を進撃せすして退て広野駅を守れり蓋し督府の指揮を待てるなり此日戦の酣なるに方てや広野駅は已に合図せられたるの観ありて銃丸は四面より雨注し我か本陣の屋宇障壁を貫通し我か舎営は釜中に在るの姿にして其勢ひ抗すへからさるか如し依て輜重は浅見川へ退却せしめしに死傷者は続々廻送し来るあれとも人家寡少なるを以て之に充つへき者なく且つ官軍苦戦なるを以て浅見川も安拠すへからす依て傷病患者は尽く之を久の浜に運搬せしむるに至れり此時諸藩に在て吏員兵士とも各其職を分任し処務敏捷なり其兵士の如きも交代戦闘するを以て別に疲労の姿なしといへとも我か隊に在ては同志集合体にして且つ人少なるに依り一人にて二三事務を兼ね午前は兵隊を指揮戦闘し午後は軍夫を叱咤して運輸を督するか如きあり頗る困却を極めたり
※芸藩兵被害:死者4名、重傷者24名、軽傷者16名 計44名
(但、帰営後死亡1名…重傷者含め286名生存)