藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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第2話 魂という存在

2020年11月07日 19時13分49秒 | 思想的な事を書留めてみる頁
世の中の数多のニュースを見ながら、
何故こんなにも理不尽がまかり通るのだろうか?
と思った事はありませんか?
或いは自分自身に起っている事について。
よくニュースで事件や事故の犠牲者の遺族が、
「何も悪い事していないのに、
何でこんな目に遭わなければならなかったのか?」
そういう事を異口同音に発言しているのを聞いた事があるでしょう。
(具体的な例は示さない方が良いでしょう。)
気持ちは解らないでもないけれど、
事はそう単純なものではないのです。
これを説明する前に多くの事を説明しなければならないので、
今回は説明しませんが、
こういう事を全てひっくるめて人はこれを「運命」と呼んでいます。
この「運命」というのは、そこで終わりではなく、
そこが始まりでもありません。
延々と続く時間の流れの一瞬を切り取って見たに過ぎません。
しかし、こういう理不尽な状況を見て昔の人はこう言いました。
「神も仏も無い」

神や仏が本当に存在しているのなら、
「苦しんでいる人を見て救いの手を差し伸べないのは何故なのか!」
「神や仏なんていうのは、所詮人間の想像の産物でしかない」
これが無神論者の主張の主立った考え方です。
生まれてから死ぬまで苦しい辛い事ばかりだった人がいる一方、
生まれてから死ぬまで恵まれた環境で一生過ごす人がいる。
悪党が死ぬまで罰を受ける事なく人生を終える事もある。
こんな理不尽がまかり通るのは、神仏等というものが存在しない証拠だ。
そういう理屈に論理的に答えた人は今迄いなかったと思います。
宗教の勧誘に来た人に何時間も食い下がって問い詰めたり、
宗教施設に出向いて議論したりもしましたが、
少なくとも踏み込んで明確に答えられた人を知りません。

今の段階では説明しませんが、
結論だけ云えば反論の余地がある様に見える様な話になってしまいます。
人の生死は朝起きて夜寝るくらいの出来事でしかない為、
神仏は、その様な事にいちいち介入する事はない。
但、死んでもまだ終わりではない。
その事の意味はかなり重い。
この段階ではその様に云って於きます。

これに加えて現代では唯物論という考え方も影響しています。
つまり「あの世」の存在を否定する考え方です。
これには先程の「神も仏も無い」の根本にある、
知識が無い為に今現在の事しか考えられない消極的否定と、
次に述べる積極的否定があります。
積極的否定は科学者に多いですが、
医療関係者の場合は、唯物論では説明出来ない体験が多く報告され、
あの世の存在を肯定する人が一定数存在します。
あの世の存在を否定する理由は、
あの世の存在を確認、証明が出来ないという事から来ています。
人が死ぬ瞬間に白い影が体から出ていく瞬間を見たという事例や、
死んだ瞬間に体重が微妙に減少したといった事例も聞きますが、
誰もが再現出来る形で確認するのは難しいので、証明にはなりません。
そうすると後残っているのは、論理的に導き出す事だけ。

映画「ターミネーター2」で最新型のロボットの体が流体金属になって
変体しながら主人公を暗殺しようとする。そういう話だった。
金属の分子が結合し、自ら意志を持って思考判断して行動する事が出来るか。
分子が結合していく内に生命体が誕生し、
それが進化、突然変異等によって人類が誕生した。
この様に唯物論的進化説もまた同様の話であるが、
物質が結合するだけでは進化はしないでしょう。
意志の無い物質が意志を持って偶然変化するなどというのは
荒唐無稽が過ぎるというもの。
唯物論で人類の生死を語るということは、
この程度の事であると断じて於きましょう。

扨、上記の理由で人を動かしている意志というものが、
脳の働きではないと云えば、話が飛び過ぎてしまっているでしょうか。
分子が結合していく過程で偶然に生命体が誕生するという事はあるのか。
無機質のモノが結合していっても、
そこに何らかの意志が存在しなければ無機質なママのはずですね。
動物の脳が意志を発するのではなく、
意志を発する事で有機物が誕生し、
結果的に動物が誕生するのだという理屈です。
従って意志というのは脳が考えるのではないと云えます。
この意志を別の言葉で「魂」と読んでいます。
因みに、「魂」の廻りに人型のボワッとしたものがあり、
これを「幽体」といいます。
「魂」と「幽体」をセットにして「霊体」といいます。
普通は見えない筈なのに、たまに見える事があると、
これを「幽霊」と云うのはこの為です。

今回強く云いたいのは、
自分自身だと思っている自分の肉体は、
魂を収納する容器でしかないと云うことです。
自分自身は、この肉体を制御している「魂」の方なのだという事に
気付かなければなりません。
類似の例えで仏像では有名な言葉があります。
「仏を作って魂入れず」
魂が入っていなければ、ただの人形だという事は、
人間にも当てはまるわけです。
「人間の脳」と脳を使う「魂」の関係は、
「PC、タブレット、スマホ等」を使う「人」に例える事が出来るでしょう。
つまり、そこにあるだけではダメで、使いこなす存在が必要なのです。

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