TV等で散々話題になって皆知っていると思っていたが、
いまだに「的を得る」と書く人が居る。
しかも、その辺の若者ではなく、学問的な話題を好みそうな人が。
ATOKという日本語入力ソフトを使っていると、
「的を得る《「当を得る/的を射る」の誤用》」と注意喚起され、
「enter」を押すと、「的を得る」が入力される。
長らく、それが常識とされてきたが、
最近、状況が変化しつつあるという情報がある。
「的を得る」が誤用だと指摘したのは【三省堂国語辞典】第三版で、
第七版では誤用との指摘を削除して正しい表現としたという。
辞典で誤用だと指摘すると誤用との認識が常識になり、
誤用ではないとすれば、正しいとの認識に変わるというのでは、
辞典って何なのだろうか?という疑問が生じる。
ただ、私は辞典字典類が絶対だとは思えない前例
を根拠に、やっぱり誤用だと指摘しておきたい。
詳しく述べ過ぎて難しくなってしまったが、
ここでは数学の零は「インド数学の空」なのか、
「有無の無」なのかを論じた。
答えは「無」=「零」である。
人間の本質は肉体ではなく魂なので、
一人の人体を見て、
生きていれば一人だが、
死体ならゼロ人なのだ。
そういう云い方をするのが本来の空の理論であるので、
この世(物質界)の数の数え方の実態とは違ってしまう。
なので数学上のゼロは「有無」に属する数え方の筈だ。
岩波仏教辞典の説明は違うのではないか?というブログ
前例の【岩波仏教辞典】の場合は、
著者及び参考書籍の著者の理解度、
宗教的認識力が大きく作用する為、
仕方ない部分もあるかという見方も出来なくは無い。
しかし、
「的を得る」の場合は思想的背景に関係なく、
事実を客観的に見て表すものでなくてはならない。
即ち素直に読むなら、
「的を入手する」という意味になる筈。
例えば「鹿狩り」に行って「的を得た」と言えば、
「的になる鹿が目の前に顕れたのだな」と理解するべき。
対して「的を射た」と言えば、
鹿を仕留めたのだなと理解出来る筈。
両者には大きな隔たりがあるのに、
同じ様な意味で使ってしまって良いのか?
又、「本当は誤用であっても一般に普及したら間違いではなくなる」
という日本語の悪しき慣用に含めてしまって良いのか?
「的を得た」は「的を入手した」(ロックオン)には使えないのか?
では、どうやって使い分けるのか?
三省堂はそういう事をどう解決したのだろうか?
誰かが誤用したものを、
使用実績があるから間違いでは無くなると云ってしまえば、
何でもありになり、増々解釈がややこしくなっていくばかり。
同志社女子大学のコラムには、
「名誉挽回」、「不名誉挽回」の例が挙げられているが、
是などは、「ポジティブ語+挽回」、「ネガティブ語+返上」
という定型(数学でいう公式)を定着させれば良いだけのこと。
例えば公式文書に使うべき用語の形式として
学校教育できちんと教えれば、言葉の乱れは少なくなるはず。
そこを曖昧にしているから解り難い日本語が増えてしまうのではないか?
国語教育の問題でもある。
「的を得る」、「当を得る」、「的を射る」の意味は
夫々違ったものにならなくては
オカシイのではないかと思わないだろうか?
「的を得る」=目標を得る
「的を射る」=目標に当てる。的確に要点をとらえる。
「当を得る」=道理にかなっている。 適当である。 妥当である。
結論
「的を得る」という言葉自体はあっても間違いないが、
本来「的を射る」と同じ目的で使うモノではない筈なので、
「的を射る」を「的を得る」と同様に使うのは誤用とするべきだ。
誤用の注意喚起する事が必要だと思う。
正確に云うなら、
《「当を得る/的を射る」の誤用では?》
と注意喚起すべき。