このブログで、母が泣くのを見たことがなかったと申しました。
今になって思うに、先日の御膳の並んだ会合でのこと、
席を変わったときに、正面だけど半歩引いていた母の顔が思い出されて来るに、相当複雑な表情でした。半泣きにも近いような。ほんと、後にも先にもあのような表情を見たことがありませんでしたね。顔はこちらを向きながら直視はしてない、心配、不安、辛さ、我慢、怒り…どうにも一言では表せぬ複雑な表情。
ところが、半世紀もたったからというより、そのての親戚からの情報を(母が聞かされた他の場面でも、「あの時、非常に苦しくいやな思いをした」と、聞いてない私には腑に落ちなかったりしつつ)、どうも母は早々に内容を覚えていないらしい。
父の場合も、大分の親戚と別れるとき拒否反応が見られたけど、まったく聞かされていない私でも、今はある程度そのことを推測できるのとは、また違うところから来ているらしい母の表情⋯
でもこのブログ始める前の半世紀ほどを、たいしたリスクも知らず(今も漠然ですが)、平凡に近い家庭に生まれてと思い込んでた、のほほんとした私です。
でも私より鈍く狭量な人は、わが家族(以外にもいっぱい いるかも)。
話変わって
私は かなりの食いしん坊、でした。
姉妹と一緒だと、俄然、過去の食欲が甦ったりも。
もう、中高年の高の域で嗜好異なるかもしれませんし、
油抜きを必要とした年月もかなりでしたし、
口に入る野菜等の栄養価や味わいも違ってきてるようで、
我がひっきんの関心からは薄れているところもありますが、
かねての厳しい状況は、食糧事情に注目されていたには違いありません。
その食、当然ながら、
安全な自然環境無しには 望めません⋯
敵に塩を⋯拒否られそう。。。
ときをまた昔にもっていきます⋯⋯
小6、
「戦時中の子どもはこんな事で、飢えをしのいでた」と、
畑で大きな大根をかじる写真が 教科書に掲載されていたのを
たまたま母が見ると、
「おいしそう、なんて贅沢な!こんな贅沢した人いない(半オコ)」
でした。
これ、母が正解。
畑でとれた大きな大根を惜し気もなく子供が贅沢にかじる
喜ばしい写真だったのかも。
全体においての説明 ; 第二次大戦中までに、
国が戦意高揚に染められることあっても
写真で戦時中の貧しさや悲惨さを伝えるようなことは、まず無かったのです。
パッと散るのだけがあこがれだった時代が、私も
よく分かるようになってきました。
そんな意味でも。
気持ちだけでも元気に ですとか、
とにかくつらいことは忘れて次なんとか という余裕のなさにおいて
人々が存続できるかも分からぬところでは
一般普及のない写真を、残そうなど考えもつかない。
昔の写真はワンタッチで済まず、多少時間も費やしたし
めったにちゃんと写らない。
なのに、
隠したいほどの悲惨さや貧しさを伝える写真に映像が大量に出てくるか⋯?
私は、その手の映像や写真に(も)、
番組が重なるにつれ、大いに疑問を持ってきております。
まずは、 だれがこんなところで?
が、つい前まででも発生していましたし。
何でも いくらでも変えてくる。
うろ覚えで失礼はしますが、ピューリッツァー賞の、河を渡る女性と子供達の1枚の写真;
ベトナムで日本人が写したこの写真は、戦争関連の影の側面が被写体とされたという面で、世界的にも革新性があったのです。
これは日本にすればもう、戦後と言われてからのことです。
画家のミレーが、当時までの画題の常であった着飾ったときの貴族だけでなく、農民の生活を画題としたことはセンセーショナルだった…
それと似て、その受賞の写真の被写体の登場自体と時期が歴史的意義を持ったことが大きいことだったのに、隠されてきているようです。
食糧事情に戻っちゃうと、
親の同世代が、戦時中は芋(粥)ばかりだったから見たくもない
という人ばかりだったそうですが、
父の場合、芋どころか⋯だったので、芋 大好き人間
と、
母が言ってました。
私の子どもの頃の夕飯のメニューは、父に合わせてか
結構、芋粥が食べれました♪
* * *
あらためて 最高法規の日本国憲法は、自身の ふるさと として
絶対、[制度]を存在させちゃいけない! 制度というのは
納税は 国民の発言の立場 確保のため 税金は 憲法国家の財源ではない
改竄とは、想定外に事実根底を違えられ大規模、重大な影響を受けることで
たった1つでも非常に重い言葉です
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