生まれは父の仕事の都合で親戚誰一人いない関西、まだ歩く前には造成地一番乗りなところ、父、岐阜に単身赴任先から、私すでに6才頃のとき一時戻りでは、長女の私ですら生まれて初めて会う人な感じで迎えた・・・。
つまり、母の存在、影響というのは、より絶大だったわけで・・。
・・まあ、いろいろあった・・
基本母は、なんでもかんでも文句なし優秀だし、長女 つまりまっ先にかわいくなくなる私にも公平になるようにしてくれているなって思ったりもしたし、ちょっと厳しすぎる…も、いたしかたなかったし・・
そういう意味では、なにも心配の要らない純粋な基盤から人生スタートをきれたような。
後になってより分かってきた、その他の(一大外的)要素が、私には区別しやすかったと言えるかも。
話がどっちつかずになりそうだけれど、クラシックは母を通じてだろう。
ラジオでは音楽の泉、のちテレビの音楽の広場(芥川さんと黒柳さん)のようなものは私の日常。
自分でも興味がある と、母の好みに合わせたい は、どっちもどっちな感覚。
母はとにかく、私と違って声質がとっても良い。
私が食欲なくなるなんてよっぽど・・って以上に、
母はかなり体調が悪くても声には張りがあった。(今回の前にサインはあったのだけど、なにしろ!うまく関われなくて・・)
は、さておき、
まぎれもなく、世界中で一番、母の子守歌を聞いたのは私だ。
妹らはワンフレーズかそこらでもう眠っているが、私は何曲も歌い終わるまで全部聞いた。(寝やしない)
昔はテレビでオペラを上映していたが、それでも夜中。にも関わらず、子どもの私も起きて母と見たりした。今は子供も夜遅くまで塾に行くようだけど、当時は子供はそんな時刻に起きていない・・ってところ。
のちに、テレビでショパンのピアノ演奏があるから見たらと母から言われ、見たことも無いくらいかっこよしの北の国からのカタカナ文字数の多かったピアニストが印象に残り、あとをひく!?
同級生で「習い事」の多い人がたくさんいたなか、私は近所でピアノだけ。でもちょうどよかった。
弾きに通った先生に暫くぶりに会った大学のとき私だけ高価なコンサートにごいっしょさせていただいたのは、まあ、人並みのボーイフレンドごとを妨げてしまったかもしれないけど、めちゃめちゃ恵まれた経験。
リサイタル、コンサートなどは非日常の特別な場所であり、すばらしい演奏、歌の一期一会を、めいっぱい享受。
その一期一会はどれも、極上、満足の上を堪能できた。その大切さを誰もが尊んだ。
・・・
あの頃は、のちに起こるコンサートテロのようなものは、まったく考えられなかった。
どんな場でも同様だが、いろんな事故、危害、いがみが起こるなんて、尋常ではないのだ。
今世紀に入ってからというべきかその後、何もかも台無しにされる事件に巻き込まれる確率がだだ上がりした。。。種類もひととおりではない。
母が亡くなる前、「幸太さん関係のとか、コンサートを楽しんできたら?」 と勧めてくれていたが、それが嬉しい反面、もう気持ち的にも難しいことになってる。
高校のときだったか、母がなにをちまよったか、バークリー音楽院(アメリカ)のパンフレットを私に渡し、やってみたらなぞ言い放っていったことがあった。(◎_◎;)
「・・・・・・無理に決まってるやろ・・ パラ・・・」× 数回
いわば一般的、本格的音楽教育を受けたことも無きゃ、なにより自分でも特に才能が無いのをヨクわかってる。意外に母は思いつき発言が多かったのかも。
その頃は、もしかして、今日3/25が誕生日らしい日本人ピアニストが、その
バークリーを首席で卒業された頃なのか
と、そんなことが書きたくて、こんなにだらだら。
夜も遅いから、おしまい。 あと、明日ね・・、 。
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