”われわれの自由剥奪の
理由となった行為は何か”
列強の犠牲になったポーランドの運命
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/0b/2bfb17d6ebc4f3db7991ee6d2b688c1d.jpg)
1940年1月7日付、収容所内のポーランド軍大佐の集団が戦争捕虜の待遇に関する国際規範適用を訴える声明文がある。
そのなかに、一考を迫る文がある。
I われわれはソ連政府のわれわれにたいする立場を明らかにするよう要請する。とくに、
1 われわれは少なくとも戦争捕虜とみなされているのか?
そうだとすれば、すべての国が認めている戦争捕虜にかんする規定にのっとった待遇を要請する。
(a~e省略)
2 われわれが逮捕者とみなされているのならば、われわれの自由剥奪の理由となった行為がなにか、正式告訴状を提示するよう要請する。
3 われわれが収容者とみなされているのならば、ポーランド領内で拘留された事実にも照らして、われわれの自由を制限する原因となったわれわれの行動がなにかを知らせるよう要請する。
続くⅡ~Ⅵには生活面の要請が種々なされているが省略する。
ここに上げられているのは、実に素朴な疑問だけである。それだけに突き刺さるものがある。
将校たちにしてみれば、自由剥奪の理由すらわからない。彼らの先の運命が銃殺になるなんて、到底、理解しえなかっただろう。
全体主義や共産主義の道理、戦時の道理の理不尽さと、そうした状況下にさらされた時、個人がどう振る舞ったかを追ってみる。
1. フィンランド共産党指導者アルヴォ・トゥオミネン
ソ連がポーランドへ侵攻したことで、西欧共産党(以下、コミンテルン)とソ連共産党の間に立場の違いが生じた。コミンテルンは、先にナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、ポーランドを援護する方針だった。
共産党としての目的をソ連の考えと擦り合せる必要を感じたコミンテルンはスターリンに引見した。そのなかで、スターリンはポーランドに対する考えを明らかにしている。
「‥ポーランドはファシスト国家であり、ウクライナ人やベロルシア人、その他を抑圧している。現在の情勢下でポーランド国家を破壊すれば、ファシスト国家がひとつ減ることになる!ポーランド敗北の結果、新領土と新住民にソヴィエト制度を拡大してなにが悪いのか?」
コミンテルンの方針はこれに即、従うことになった。
「ソ連の援助を拒絶し、他の民族を抑圧しているファシスト・ポーランドを、国際労働者階級はぜったいに擁護してはならない」
この方針に全共産党はただ一人の例外を除き、誰も抗議しなかった。
それは、同じくソ連の侵攻を受けたフィンランドの共産党指導者アルヴォ・トゥオミネンだ。
その公開状にこうある。
「‥あるときから、私はコミンテルンの方針に同意できなくなった。とくにコミンテルン指導者が従順な奴隷のように、内外の政策についてソ連指導者の決定を、なんであれ、コミンテルン創立の綱領と国際プロレタリアートの利益に反する決定でさえも、認めて服従する傾向には同意できなくなった。‥どんな巧妙な宣伝をしたところで、ソ連政府が帝国主義ドイツの好戦的・犯罪的政府と同じ帝国主義的政策を採用した事実を隠蔽できないだろう。」
ポーランドをファシストとみなすならば、ソ連も間違いなくファシストだろう。スターリンのとんでもない詭弁に盲従するだけの共産党。
しかし、この公開状を出すのには相当な勇気が必要だったと思われる。トゥオミネンは裏切り者と呼ばれた。
2. 共産党の「潜在的な敵対勢力」
NKVDについて認識しておく必要がある。
NKVDはこうした虐殺や粛清をソ連の定める法的権限内で実行している。その残虐な行為全て、国家に承認されているのである。
「共産主義者はその理論と実践から、自分たち以外のあらゆる階級やイデオロギーと相容れないことを知っており、そのように行動する。彼らは現実の反対勢力のみならず、潜在的な敵対勢力とも戦っている」
これはチトーに追放された、ユーゴスラビア元副大統領ミロヴァン・ジラスによる。
先のスターリンの引用にも、ソ連に何の行動も起こしていないポーランドに対して、それを潜在的な敵対勢力とみなして攻撃に及んでいる。いま、日本で集団的自衛権が言われているが、こういう危険をはらんでいると言えなくはないか。
ともかく、現在のロシアのFSB、その前身KGBにつながる秘密保安警察NKVDによって、その時代、「何らかの敵」とみなされれば死刑は必至。NKVDは裁判官であり死刑執行人、虐殺も粛清も手の内だった。ポーランド将校らは、彼らの尋問を受ける中で、相容れない思考や判断にぶつかった。まるでコントのような、こんな尋問のやりとりがあった。
あるとき私は3人の将校に尋問された(略)
私が画家としてパリで8年間仕事をしていたと知ると、彼らにはそれがきわめて怪しく思えたらしい。「君がパリへ発つとき、外務大臣からどんな指示をもらったのかね?」
外務大臣は私がパリへ行くことすら知らないと私は答えた。「よろしい、しからば外務次官は君に何を命じたか?」
「外務次官だってそんなことは知りませんよ。私はパリへスパイではなくて、画家として行ったのです」
「画家としてパリへ行ったのなら、パリの市街地図を作成してワルシャワの外務大臣へ送れたってことをわれわれが知らないとでも思うのかね?」
パリの市街地図なら、パリのどこの街角でも50サンチームで買えること、ポーランドの芸術家がパリに行くのはスパイとして秘密地図を作成するためではないことを説明したが、どうしてもわかってもらえなかった」
国内の粛清時代と同様の方式で尋問するナンセンス。しかしこの行き違いも、容赦なくクロにされるだろう。国際理解の壁は、現代でも注意せねばならない。
3. ベリヤの提案
「‥全員がソヴィエト権力の矯正不能の敵である事実に鑑み、ソ連NKVDは、
Ⅰ ソ連NKVDにつぎの案件の処理がゆだねられるべきと考える。
‥このすべての案件を特別手続きに従って検討し、収容者に対して最高刑、すなわち銃殺刑を適用することとする。‥」
戦争捕虜管理局長ベリヤのこの提案にスターリンらが署名して、処刑が実行された。
それにしても、「処理」という言葉の無味乾燥な響きには、「浄化」と変わらぬ残酷を感じる。
この提案者ベリヤは、のちにこのことを後悔したかもしれない。ポーランド将校が軍再編成に関してベリヤと話し合う。その中で将校が、
「では、どこから将校をみつけてくるのでしょうか?私としては部下の将校をスタロベルスクとコゼルスク収容所から呼びたいのですが」。
ベリヤはこう答える。
「その人たちは来られない。‥われわれはたいへんな誤りを犯した。たいへんな誤りを犯した」
当時、まだ将校たちの消息はわからないままだった。ベリヤのこの「誤り」ということばが何を暗示したか。それ以上のことはまだ、土の中にしまっておかなければならなかったのだ。
4. ヤコフ・ジュガシヴィリ
「1万や1万5000のポーランド人が殺されたくらいで、こんなに騒ぎ立てるとはいったいなにごとかね?ウクライナの集団農場化のときは300万人くらい死んだぞ!なぜポーランド軍将校のことを心配しなければならないのか‥あの連中は知識人で、われわれにとっては最大の危険分子だ。絶滅しなければならなかった」。
そう言ったヤコフ・ジュガシヴィリとは、スターリンの息子である。彼はドイツで捕虜となり、収容所で隔離されていた。ジュガシヴィリと親しくなったポーランドの陸軍中尉は、当時話題になっていたカチンのことを聞いてみたのだった。
そしてジュガシヴィリはこうも言った。「ドイツの残忍な策略とちがって、人道的な方法で」絶滅されたから安心しろ、と。
これはスターリンの息子ならではの考えというより、ソ連のトップたちの共通認識だったに違いない。あまりにもストレートな表現に度肝を抜かれるが‥。
しかし、のちにジュガシヴィリも報われぬ死に方をしたのだった。おそらくスターリンの息子だったために。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/68/c202e9558519385e9f3d51605f13076d.jpg)
スターリンとその子供
5. KGB議長より同志フルシチョフへ
以下は1959年3月、KGB議長がフルシチョフへ送った手紙である。
マイクを向けられているのがフルシチョフ
極秘
同志フルシチョフへ
ソ連閣僚会議付属国家保安委員会(KGB)は1940年来、同年に銃殺された元ブルジョワ・ポーランドの代表者である、拘禁されていた捕虜、将校、憲兵、警察官、地主にかんする個人ファイルその他の資料を保管している。‥総計2万1857の個人ファイルは封印された場所に保管されている。
どのソヴィエト機関にとってみても、この個人ファイルは工作上の利益もなければ歴史上の価値もない。‥予期せぬ事態が生じて暴露されるかもしれず、‥ましてカチンの森の銃殺にかんしては、‥委員会によって確認された公式見解が存在する。‥委員会の結論は国際世論にふかく根づいている。この見方に立てば、1940年に上記作戦で銃殺された者に関するあらゆる個人ファイルは破棄するのが適切と結論される。ソ連共産党中央委員会とソ連政府が必要とする場合に備えて、銃殺の判決を下したソ連NKVDトロイカの審判記録とトロイカ判決の執行にかんする文書を保存しておくことができる。この文書は少ない数であるから特別な書類入れで保管できる。‥
“工作上の利益もなければ歴史上の価値もない”
工作上の利益。KGBの脳内地図を占めるキーワードのようである。それと秤にかけられて、処分される個人ファイル。“工作上の利益”のために書かれた、例のお門違いな尋問による調書ではあるけれど、銃殺された一人一人の最後の情報であり、その時点で生きていた証でもある。無味乾燥なその紙切れでも、遺族にはぜひ触れたい愛おしい物にちがいない。歴史上の価値はないかもしれないが‥。暴露される可能性を論じるのはよしとしても、保管場所について言うことは蛇足だ。
フィンランドの捕虜を収容する場所が不足するために、急ぎ「処理」されることになったポーランド将校たち。彼らのファイルもまた、場所の節約を優先され、「処理」された。
この、非常に冷たいことば、“工作上の利益”と同等のことばを吐いたのは、イギリスのチャーチルである。
6. チャーチルとオマレー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/47/9a787d92cc05da28d68a4cb9498bff5c.jpg)
イギリス、フランスは自力でドイツを倒すことはできず、ソ連を巻き込む必要がどうしてもあった。実際、ドイツと主に戦って成果を上げていたのはソ連だった。人命も含め大変な物量の犠牲。ソ連でなければこんな戦い方はできなかっただろう。ドイツは強かったし、ソ連もとんでもない底力があった。イギリスとしては、勝つためにはソ連を連合国に引き留めておく必要がどうしてもあった。そのため、ソ連に関する怪しい情報は遠ざけていたかった。チャーチルは、問題になっていたカチン事件を「実際的重要性がない」「スモレンスク近くの三年経った墓を病的にうろつき回るのをつづけるべきではない」とした。
亡命ポーランド政府付イギリス大使オーウェン・オマレーが、入手した証拠からソ連の犯行であると結論される覚書を作成したが、チャーチルが封じた。オマレーは歯切れの悪い自国の指導者に目をつむることはできなかった。
「道徳的に擁護できないことはつねに政治的に実効性がない」
オマレーの正論もまた黙殺されたのだった。
7. ルーズベルト
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/a9/4652fbade67ec32ba703d6b9a3999661.jpg)
アメリカも、真実の報告を受け、実際に捕虜として見てきた士官の報告も受けていながら、ソ連に気兼ねをして、知らぬふりをした。ルーズベルト大統領は、ソ連がそんなことをするはずがないと耳を塞いだ。「ソ連に限って‥」のような発言は非常に聞き苦しい感じがする。アメリカはドイツが降伏してもまだ日本との戦争が続いていたが、日本に勝つためにはソ連に北から攻め込んでもらわねばならず、スターリンの機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだ。
アメリカとイギリスは連合国の勝利にソ連が欠かせないのは承知していた。ヤルタ会談ののちも、ソ連に気遣い続けた。戦後の情勢にも、ソ連を取り込んでおかねばならなかった。
カチンの森の事件は、むしろこうした列強によって封じられたのである。
ヤルタ会談
ヤルタ会談の行われた場所はニコライ2世が新築したリバディア宮殿
幽閉先に皇帝一家はこの地を希望したが、ニコライをシベリア送りにしたかったケレンスキーは許可しなかった
ヒトラーも引退後はここで暮らしたいと言っていたそうだ
8. ニュルンベルク裁判とソ連検察官ゾーリャ
1945年のニュルンベルク裁判において、カチンの森事件に関してを告発できるのは、戦勝国の地理的な取り決めにより、ソ連のみということになった。まだグレーな部分が多いこの事件を、ソ連側は果たして告発するのかどうか。しかしソ連は告発した。
裁判の中で初めてソ連の検事がドイツのポーランド侵攻を非難すると、ドイツ側の被告は嘲笑した。
被告席のゲーリングとヘスはヘッドフォンをはずした。なぜ聞かないのかとたずねられてゲーリングは、「連中(ソ連)がポーランドに言及するほど恥知らずとは思わなかった。連中はわれわれと同時にポーランドを攻撃したではないか」
シーラッハも、「連中がポーランドと言ったときには、死ぬほどおかしかった」と。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/73/4528548ce678ce6b37d3d42b199721ff.jpg)
ソ連はかつてのドイツの元国際調査委員のうちの数人を脅し、報告書の内容は嘘だったと証言させた。ソ連の脅しが効かない国に在住している元委員は逆に、報告書の内容の正しさを公式に表明した。
しかし、ソ連代表団のなかにこうした偽装工作に加わることを拒否した検察官がいた。
ニコライ・ゾーリャ。
彼は、ポーランド側のカチン事件の情報に接し、その後モスクワの準備した資料を読み、上司に、ソ連の立場について自分が抱く疑問とこの立場の弱点を主年検事に知らせてほしいと話した。
数日後、ゾーリャはニュルンベルクの自室で死んでいるのが発見された。ゾーリャの死を知ったスターリンは、「奴は犬並みに埋めれば良い」と言ったそうである。
正しくあろうとした検察官はあっけなく芽を摘まれてしまった。
犬。
さて、犬はどっちだろう。
ゴルバチョフのグラスノスチによる事件の情報開示(全てではなかった)、プーチンの合同慰霊祭への出席など、事件の真相へソ連(ロシア)が向き合ったこと、哀悼を表明しても許されるようになったこと(かつては禁じられていた)は、進歩だ。ただしロシアは謝罪は拒否した。
「ロシア民主主義の発展は過去との対決能力で決まる。スターリン主義の断罪とその犯罪の国民的責任の認識は、ナチ犯罪についての国民的責任感がドイツの良心の一部になったように、ロシアの新しい世代に浸透しなければ難しいだろう」
メモリアル協会会長アルセニー・ロジンスキーの言葉である。
「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり。‥」
ハンナ・アーレントによるこの言葉を、悲観的だと切り捨ててはいけない。
知った、語った、その後で何をするか。
その先のドアが最も重いはずだ。
哲学者ハンナ・アーレント
カチンの森ドキュメンタリー1 1989
カチンの森ドキュメンタリー2
カチンの森ドキュメンタリー3
参考文献
「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」
ザスラフスキー著
「消えた将校たち カチンの森虐殺事件」
ザヴォドニー著
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/66/d10661233902a62fbf5c2016584c34c4.jpg)
ポーランドボールの紹介です。
世界各国を国旗の柄のボールとし、各国間の関係などをキャラクターで表現するネット上のマンガです。キャラクター設定に若干の取り決めがありますが、その規定を守れば自由投稿できます。ただし、発案者の承認チェックがあります。
ちなみに、日本のキャラクターは〈kawaii〉文化に関連して猫耳としっぽをつけていることが多いのと、ドイツにくっつきたがる傾向があるようです。
投稿されたポーランドのものをいくつかご覧ください。また、日本語訳付きのものもネット上にあります。英語で書かれる場合は、各国の訛り風にわざとおかしな表現になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/40/6c8684659f3a6635773210241c3e714f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/c4/27ff77ca2fe2bb9fbac99e031e0cb1d5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/2f/d9224d79aa50a0167956477596cdd4ad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/75/8fc29fca7406e71c734dc2f3da9663ef.jpg)
理由となった行為は何か”
列強の犠牲になったポーランドの運命
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/0b/2bfb17d6ebc4f3db7991ee6d2b688c1d.jpg)
1940年1月7日付、収容所内のポーランド軍大佐の集団が戦争捕虜の待遇に関する国際規範適用を訴える声明文がある。
そのなかに、一考を迫る文がある。
I われわれはソ連政府のわれわれにたいする立場を明らかにするよう要請する。とくに、
1 われわれは少なくとも戦争捕虜とみなされているのか?
そうだとすれば、すべての国が認めている戦争捕虜にかんする規定にのっとった待遇を要請する。
(a~e省略)
2 われわれが逮捕者とみなされているのならば、われわれの自由剥奪の理由となった行為がなにか、正式告訴状を提示するよう要請する。
3 われわれが収容者とみなされているのならば、ポーランド領内で拘留された事実にも照らして、われわれの自由を制限する原因となったわれわれの行動がなにかを知らせるよう要請する。
続くⅡ~Ⅵには生活面の要請が種々なされているが省略する。
ここに上げられているのは、実に素朴な疑問だけである。それだけに突き刺さるものがある。
将校たちにしてみれば、自由剥奪の理由すらわからない。彼らの先の運命が銃殺になるなんて、到底、理解しえなかっただろう。
全体主義や共産主義の道理、戦時の道理の理不尽さと、そうした状況下にさらされた時、個人がどう振る舞ったかを追ってみる。
1. フィンランド共産党指導者アルヴォ・トゥオミネン
ソ連がポーランドへ侵攻したことで、西欧共産党(以下、コミンテルン)とソ連共産党の間に立場の違いが生じた。コミンテルンは、先にナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、ポーランドを援護する方針だった。
共産党としての目的をソ連の考えと擦り合せる必要を感じたコミンテルンはスターリンに引見した。そのなかで、スターリンはポーランドに対する考えを明らかにしている。
「‥ポーランドはファシスト国家であり、ウクライナ人やベロルシア人、その他を抑圧している。現在の情勢下でポーランド国家を破壊すれば、ファシスト国家がひとつ減ることになる!ポーランド敗北の結果、新領土と新住民にソヴィエト制度を拡大してなにが悪いのか?」
コミンテルンの方針はこれに即、従うことになった。
「ソ連の援助を拒絶し、他の民族を抑圧しているファシスト・ポーランドを、国際労働者階級はぜったいに擁護してはならない」
この方針に全共産党はただ一人の例外を除き、誰も抗議しなかった。
それは、同じくソ連の侵攻を受けたフィンランドの共産党指導者アルヴォ・トゥオミネンだ。
その公開状にこうある。
「‥あるときから、私はコミンテルンの方針に同意できなくなった。とくにコミンテルン指導者が従順な奴隷のように、内外の政策についてソ連指導者の決定を、なんであれ、コミンテルン創立の綱領と国際プロレタリアートの利益に反する決定でさえも、認めて服従する傾向には同意できなくなった。‥どんな巧妙な宣伝をしたところで、ソ連政府が帝国主義ドイツの好戦的・犯罪的政府と同じ帝国主義的政策を採用した事実を隠蔽できないだろう。」
ポーランドをファシストとみなすならば、ソ連も間違いなくファシストだろう。スターリンのとんでもない詭弁に盲従するだけの共産党。
しかし、この公開状を出すのには相当な勇気が必要だったと思われる。トゥオミネンは裏切り者と呼ばれた。
2. 共産党の「潜在的な敵対勢力」
NKVDについて認識しておく必要がある。
NKVDはこうした虐殺や粛清をソ連の定める法的権限内で実行している。その残虐な行為全て、国家に承認されているのである。
「共産主義者はその理論と実践から、自分たち以外のあらゆる階級やイデオロギーと相容れないことを知っており、そのように行動する。彼らは現実の反対勢力のみならず、潜在的な敵対勢力とも戦っている」
これはチトーに追放された、ユーゴスラビア元副大統領ミロヴァン・ジラスによる。
先のスターリンの引用にも、ソ連に何の行動も起こしていないポーランドに対して、それを潜在的な敵対勢力とみなして攻撃に及んでいる。いま、日本で集団的自衛権が言われているが、こういう危険をはらんでいると言えなくはないか。
ともかく、現在のロシアのFSB、その前身KGBにつながる秘密保安警察NKVDによって、その時代、「何らかの敵」とみなされれば死刑は必至。NKVDは裁判官であり死刑執行人、虐殺も粛清も手の内だった。ポーランド将校らは、彼らの尋問を受ける中で、相容れない思考や判断にぶつかった。まるでコントのような、こんな尋問のやりとりがあった。
あるとき私は3人の将校に尋問された(略)
私が画家としてパリで8年間仕事をしていたと知ると、彼らにはそれがきわめて怪しく思えたらしい。「君がパリへ発つとき、外務大臣からどんな指示をもらったのかね?」
外務大臣は私がパリへ行くことすら知らないと私は答えた。「よろしい、しからば外務次官は君に何を命じたか?」
「外務次官だってそんなことは知りませんよ。私はパリへスパイではなくて、画家として行ったのです」
「画家としてパリへ行ったのなら、パリの市街地図を作成してワルシャワの外務大臣へ送れたってことをわれわれが知らないとでも思うのかね?」
パリの市街地図なら、パリのどこの街角でも50サンチームで買えること、ポーランドの芸術家がパリに行くのはスパイとして秘密地図を作成するためではないことを説明したが、どうしてもわかってもらえなかった」
国内の粛清時代と同様の方式で尋問するナンセンス。しかしこの行き違いも、容赦なくクロにされるだろう。国際理解の壁は、現代でも注意せねばならない。
3. ベリヤの提案
「‥全員がソヴィエト権力の矯正不能の敵である事実に鑑み、ソ連NKVDは、
Ⅰ ソ連NKVDにつぎの案件の処理がゆだねられるべきと考える。
‥このすべての案件を特別手続きに従って検討し、収容者に対して最高刑、すなわち銃殺刑を適用することとする。‥」
戦争捕虜管理局長ベリヤのこの提案にスターリンらが署名して、処刑が実行された。
それにしても、「処理」という言葉の無味乾燥な響きには、「浄化」と変わらぬ残酷を感じる。
この提案者ベリヤは、のちにこのことを後悔したかもしれない。ポーランド将校が軍再編成に関してベリヤと話し合う。その中で将校が、
「では、どこから将校をみつけてくるのでしょうか?私としては部下の将校をスタロベルスクとコゼルスク収容所から呼びたいのですが」。
ベリヤはこう答える。
「その人たちは来られない。‥われわれはたいへんな誤りを犯した。たいへんな誤りを犯した」
当時、まだ将校たちの消息はわからないままだった。ベリヤのこの「誤り」ということばが何を暗示したか。それ以上のことはまだ、土の中にしまっておかなければならなかったのだ。
4. ヤコフ・ジュガシヴィリ
「1万や1万5000のポーランド人が殺されたくらいで、こんなに騒ぎ立てるとはいったいなにごとかね?ウクライナの集団農場化のときは300万人くらい死んだぞ!なぜポーランド軍将校のことを心配しなければならないのか‥あの連中は知識人で、われわれにとっては最大の危険分子だ。絶滅しなければならなかった」。
そう言ったヤコフ・ジュガシヴィリとは、スターリンの息子である。彼はドイツで捕虜となり、収容所で隔離されていた。ジュガシヴィリと親しくなったポーランドの陸軍中尉は、当時話題になっていたカチンのことを聞いてみたのだった。
そしてジュガシヴィリはこうも言った。「ドイツの残忍な策略とちがって、人道的な方法で」絶滅されたから安心しろ、と。
これはスターリンの息子ならではの考えというより、ソ連のトップたちの共通認識だったに違いない。あまりにもストレートな表現に度肝を抜かれるが‥。
しかし、のちにジュガシヴィリも報われぬ死に方をしたのだった。おそらくスターリンの息子だったために。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/68/c202e9558519385e9f3d51605f13076d.jpg)
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5. KGB議長より同志フルシチョフへ
以下は1959年3月、KGB議長がフルシチョフへ送った手紙である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2e/a64a9529b96d21ec4a960e164601a0c2.jpg)
極秘
同志フルシチョフへ
ソ連閣僚会議付属国家保安委員会(KGB)は1940年来、同年に銃殺された元ブルジョワ・ポーランドの代表者である、拘禁されていた捕虜、将校、憲兵、警察官、地主にかんする個人ファイルその他の資料を保管している。‥総計2万1857の個人ファイルは封印された場所に保管されている。
どのソヴィエト機関にとってみても、この個人ファイルは工作上の利益もなければ歴史上の価値もない。‥予期せぬ事態が生じて暴露されるかもしれず、‥ましてカチンの森の銃殺にかんしては、‥委員会によって確認された公式見解が存在する。‥委員会の結論は国際世論にふかく根づいている。この見方に立てば、1940年に上記作戦で銃殺された者に関するあらゆる個人ファイルは破棄するのが適切と結論される。ソ連共産党中央委員会とソ連政府が必要とする場合に備えて、銃殺の判決を下したソ連NKVDトロイカの審判記録とトロイカ判決の執行にかんする文書を保存しておくことができる。この文書は少ない数であるから特別な書類入れで保管できる。‥
“工作上の利益もなければ歴史上の価値もない”
工作上の利益。KGBの脳内地図を占めるキーワードのようである。それと秤にかけられて、処分される個人ファイル。“工作上の利益”のために書かれた、例のお門違いな尋問による調書ではあるけれど、銃殺された一人一人の最後の情報であり、その時点で生きていた証でもある。無味乾燥なその紙切れでも、遺族にはぜひ触れたい愛おしい物にちがいない。歴史上の価値はないかもしれないが‥。暴露される可能性を論じるのはよしとしても、保管場所について言うことは蛇足だ。
フィンランドの捕虜を収容する場所が不足するために、急ぎ「処理」されることになったポーランド将校たち。彼らのファイルもまた、場所の節約を優先され、「処理」された。
この、非常に冷たいことば、“工作上の利益”と同等のことばを吐いたのは、イギリスのチャーチルである。
6. チャーチルとオマレー
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イギリス、フランスは自力でドイツを倒すことはできず、ソ連を巻き込む必要がどうしてもあった。実際、ドイツと主に戦って成果を上げていたのはソ連だった。人命も含め大変な物量の犠牲。ソ連でなければこんな戦い方はできなかっただろう。ドイツは強かったし、ソ連もとんでもない底力があった。イギリスとしては、勝つためにはソ連を連合国に引き留めておく必要がどうしてもあった。そのため、ソ連に関する怪しい情報は遠ざけていたかった。チャーチルは、問題になっていたカチン事件を「実際的重要性がない」「スモレンスク近くの三年経った墓を病的にうろつき回るのをつづけるべきではない」とした。
亡命ポーランド政府付イギリス大使オーウェン・オマレーが、入手した証拠からソ連の犯行であると結論される覚書を作成したが、チャーチルが封じた。オマレーは歯切れの悪い自国の指導者に目をつむることはできなかった。
「道徳的に擁護できないことはつねに政治的に実効性がない」
オマレーの正論もまた黙殺されたのだった。
7. ルーズベルト
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アメリカも、真実の報告を受け、実際に捕虜として見てきた士官の報告も受けていながら、ソ連に気兼ねをして、知らぬふりをした。ルーズベルト大統領は、ソ連がそんなことをするはずがないと耳を塞いだ。「ソ連に限って‥」のような発言は非常に聞き苦しい感じがする。アメリカはドイツが降伏してもまだ日本との戦争が続いていたが、日本に勝つためにはソ連に北から攻め込んでもらわねばならず、スターリンの機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだ。
アメリカとイギリスは連合国の勝利にソ連が欠かせないのは承知していた。ヤルタ会談ののちも、ソ連に気遣い続けた。戦後の情勢にも、ソ連を取り込んでおかねばならなかった。
カチンの森の事件は、むしろこうした列強によって封じられたのである。
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幽閉先に皇帝一家はこの地を希望したが、ニコライをシベリア送りにしたかったケレンスキーは許可しなかった
ヒトラーも引退後はここで暮らしたいと言っていたそうだ
8. ニュルンベルク裁判とソ連検察官ゾーリャ
1945年のニュルンベルク裁判において、カチンの森事件に関してを告発できるのは、戦勝国の地理的な取り決めにより、ソ連のみということになった。まだグレーな部分が多いこの事件を、ソ連側は果たして告発するのかどうか。しかしソ連は告発した。
裁判の中で初めてソ連の検事がドイツのポーランド侵攻を非難すると、ドイツ側の被告は嘲笑した。
被告席のゲーリングとヘスはヘッドフォンをはずした。なぜ聞かないのかとたずねられてゲーリングは、「連中(ソ連)がポーランドに言及するほど恥知らずとは思わなかった。連中はわれわれと同時にポーランドを攻撃したではないか」
シーラッハも、「連中がポーランドと言ったときには、死ぬほどおかしかった」と。
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ソ連はかつてのドイツの元国際調査委員のうちの数人を脅し、報告書の内容は嘘だったと証言させた。ソ連の脅しが効かない国に在住している元委員は逆に、報告書の内容の正しさを公式に表明した。
しかし、ソ連代表団のなかにこうした偽装工作に加わることを拒否した検察官がいた。
ニコライ・ゾーリャ。
彼は、ポーランド側のカチン事件の情報に接し、その後モスクワの準備した資料を読み、上司に、ソ連の立場について自分が抱く疑問とこの立場の弱点を主年検事に知らせてほしいと話した。
数日後、ゾーリャはニュルンベルクの自室で死んでいるのが発見された。ゾーリャの死を知ったスターリンは、「奴は犬並みに埋めれば良い」と言ったそうである。
正しくあろうとした検察官はあっけなく芽を摘まれてしまった。
犬。
さて、犬はどっちだろう。
ゴルバチョフのグラスノスチによる事件の情報開示(全てではなかった)、プーチンの合同慰霊祭への出席など、事件の真相へソ連(ロシア)が向き合ったこと、哀悼を表明しても許されるようになったこと(かつては禁じられていた)は、進歩だ。ただしロシアは謝罪は拒否した。
「ロシア民主主義の発展は過去との対決能力で決まる。スターリン主義の断罪とその犯罪の国民的責任の認識は、ナチ犯罪についての国民的責任感がドイツの良心の一部になったように、ロシアの新しい世代に浸透しなければ難しいだろう」
メモリアル協会会長アルセニー・ロジンスキーの言葉である。
「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり。‥」
ハンナ・アーレントによるこの言葉を、悲観的だと切り捨ててはいけない。
知った、語った、その後で何をするか。
その先のドアが最も重いはずだ。
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カチンの森ドキュメンタリー1 1989
カチンの森ドキュメンタリー2
カチンの森ドキュメンタリー3
参考文献
「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」
ザスラフスキー著
「消えた将校たち カチンの森虐殺事件」
ザヴォドニー著
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/66/d10661233902a62fbf5c2016584c34c4.jpg)
ポーランドボールの紹介です。
世界各国を国旗の柄のボールとし、各国間の関係などをキャラクターで表現するネット上のマンガです。キャラクター設定に若干の取り決めがありますが、その規定を守れば自由投稿できます。ただし、発案者の承認チェックがあります。
ちなみに、日本のキャラクターは〈kawaii〉文化に関連して猫耳としっぽをつけていることが多いのと、ドイツにくっつきたがる傾向があるようです。
投稿されたポーランドのものをいくつかご覧ください。また、日本語訳付きのものもネット上にあります。英語で書かれる場合は、各国の訛り風にわざとおかしな表現になっています。
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