名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロシア大公家系の末路/コンスタンチノヴィチ家

2016-08-02 22:25:30 | 人物
そのほとんどが革命で殺された
コンスタンチノヴィチ家の不幸
芸術を愛した高貴な家系
付記;タチアナ・コンスタンチノヴナ



ニコライ1世と4人の息子達



ここでもう一度、ニコライ1世の子女を記すと、

❶アレクサンドル2世
②マリア
③オリガ
④アレクサンドラ
❺コンスタンチン
❻ニコライ
❼ミハイル

今回は第五子二男のコンスタンチン・ニコラエヴィチ(1827〜1892)とその子孫の大公、今回は公についても書く。

アレクサンドロヴィチ家は3代続けて皇帝を輩出したので大公は多かったが、1886年の帝室家内法によってコンスタンチノヴィチ家、ニコラエヴィチ家、ミハイロヴィチ家は第三世代以降の子孫は大公にはなれなくなった。発令当時には既に生まれていたコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ家の長男イオアンは、例外なく自動的に大公の位を失い、公になってしまった。
そのため、コンスタンチノヴィチ家は大公は5名までで終わり、次世代の公(愛人や貴賎結婚を除く、ロマノフの正式な公)は5名。革命が起こり、当時存命していた6名のうち4名が処刑された。
アレクサンドロヴィチ家でも、パーリイ公を含めて4名が処刑されたわけだが、かなりの人数が助かっていたことを考えると皮肉である。
尚、今回は人数が少ないので、コンスタンチノヴィチ家の美しい娘タチアナについて、付記したい。ロマノフ家のなかで、最も美しいと思う公女である。

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の娘 タチアナ公女




〈第Ⅰ世代〉
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1827〜1892











海軍軍人、のちに兄皇帝の時代になってから海軍元帥に。知性的で人望厚かった叔母エレナ(叔父ミハイル・パヴロヴィチ妃)の薫陶を受け、芸術の才能に恵まれた。ピアノと、特にチェロには優れていた。スマートではないが知的であった。
政治的には改革を兄アレクサンドル2世とともに進めようとし、農奴解放に尽くす。しかし、改革は機が熟さぬまま進められたため、1864年、ポーランドで一月蜂起が起きた。この一件から、兄皇帝は保守に戻り、弾圧を強めていった。
さらに、兄が亡くなり、アレクサンドル3世が即位すると、鬱陶しいと思われていた叔父達は重職を解任された。新皇帝アレクサンドルは強度に保守的でもあり、リベラルは叔父とは合わなかった。アレクサンドルにとって、父を始め、愛人を平気で作り家庭をないがしろにする叔父達は、軽蔑すべき存在でもあった。
コンスタンチン・ニコラエヴィチも、愛人問題で家庭間に亀裂を入れた。それはすぐに、息子の愛人問題となってしっぺ返しがくる。

妻はザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの娘アレクサンドラ・イオシフォヴナ。コンスタンチンの姉オリガ(ヴュルテンベルク王妃)の結婚式で初対面だったらしい。明るく、上品で、誰からも好感を持たれるエレガントな彼女は、音楽にも優れており、コンスタンチンとも趣味が合った。


アレクサンドラに生まれた子女は以下。

❶ニコライ 1850〜1918
②オリガ 1851〜1926
③ヴェラ 1854〜1912
❹コンスタンチン 1858〜1915
❺ドミトリー 1860〜1919
❻ヴャチェスラフ 1862〜1879


アレクサンドラと子供達(ヴャチェスラフの生まれる前)


60年代後半あたりから、アンナ・クズネツォーヴァというバレリーナを愛人にし、愛人と愛人の子の二男三女を家族と同じ宮殿に住まわせた。


父のこうした振る舞いで、子供達にどういう影響がでるのか。
宮殿内で、アレクサンドラ妃が先代皇帝に贈られた高価なイコンの装飾の宝石が盗まれた。それは、長男ニコライが愛人にそそのかされて盗んだのだった。息子は称号はそのままに、僻地に軟禁、階級剥奪。
母は、息子と夫の背信に苦しみ、神秘主義にのめり込んでいった。さらに追い討ちをかけるように、末子ヴャチェスラフが早逝。
引退後のコンスタンチンは脳卒中で不自由な身体となり、晩年、世話をしたのはアレクサンドラ妃だった。

アレクサンドラ・イオシフォヴナ、娘オルガ・コンスタンチノヴナ(ギリシャ王ゲオルギー1世妃)、孫娘アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ(写真立ての中、生前パーヴェル大公妃)、曾孫娘マリア・パヴロヴナ(デンマーク王子ヴィルヘルム妃)、曾曾孫レンナルト王子



〈第二世代〉
大公はこの世代まで。

ニコライ・.コンスタンチノヴィチ
1850〜1918





父とニコライ

陸軍軍人。陸軍学校では優秀な生徒だった。
しかし、アメリカ女性で高級娼婦?のファニー・リアと関係し、欧州旅行を共にしていた。
その後、ファニーにそそのかされて母のイコンの宝石を盗み、《狂人》とみなされ、国内追放、軟禁される。ファニーは国外追放された。
次には、愛人アレクサンドラ・アバサとの間に一男一女、その後、ナデージュダ・アレクサンドロヴナと貴賎結婚で二男、ダーリヤ・エリセーエヴナ重婚?で二男一女、さらに愛人ヴァレーリヤ・フメリニツカヤと関係。のちに、アレクサンドル3世によって、ナデージュダの二人の子には貴族の位と公の称号が与えられたが、トゥルケスタンに配流された。
軍人としては活躍していたニコライ。トゥルケスタンにおいては、灌漑、運河、工場、美術館など、私財を使って繁栄させた。
愛人の問題さえ除けば、有能だったようだ。
思想は、ロマノフ家でありながら革命に傾倒した。
没年は1918年、1月に肺炎で亡くなっている。ボリシェビキがロマノフ達の処刑に動き出す以前に亡くなったのは幸いだった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1858〜1915





コンスタンチン・ニコラエヴィチの二男。
父の愛人問題、8つ上の兄の廃嫡、若いときにそれらを見てきたコンスタンチンは、ロマノフ家に対しての責任を自らに課そうとした。
皇族の一員として海軍に、のちに陸軍に従軍したが、軍人としては有能ではなかった。
むしろ教養高く、優雅で穏やかで、信仰心も厚く、優れた芸術家として皇族の尊敬を集めていた。
К.Р(K.R)のペンネームでの詩作、戯曲、翻訳、演劇、ピアノ、作曲など。ロマノフ家の美貌の傑作ともいえる容姿から奏でられる芸術は、ロマノフ家の最後の栄華を見るようだったろう。

コンスタンチンは、ザクセン=アルテンブルク公女エリザベータ・マヴリキエヴナと結婚。妃は正教に改宗せず、終生、ルター派で通したが、皇位継承順位は低いゆえにそれほど問題にされなかった。エリザベータには芸術的な素養はなかったものの、コンスタンチンとはよい関係だった。
コンスタンチンは日記の中で、自分の同性愛傾向を告白していたが、それは公にはされていなかった。彼のロマノフ家への責任意識により、愛人を作らずよい家庭を作り(もっとも男色なので愛人には手を出さないと思うが)、多くの子女を残した。先述の通り、子の世代は大公ではない。


❶イオアン 1886〜1918
❷ガヴリール 1887〜1955
③タチアナ 1890〜1970
❹コンスタンチン 1890〜1918
❺オレーグ 1892〜1914
❻イーゴリ 1894〜1918
❼ゲオルギー 1903〜1938
⑧ナターリア 1905
⑨ヴェラ 1906〜2001


イーゴリとゲオルギーの間がやや離れている。タチアナの待望の妹はひと月で亡くなり彼女はひどく悲しんだが、小さな妹ヴェラが翌年に誕生した。
兄弟達は皆、長身だが体が弱かった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの子供達全員

家族全員

1892年に父が亡くなった後、兄が廃嫡されていたため、コンスタンチンがコンスタンチノヴィチ家の家長となった。晩年に向かって悲劇は始まりつつあった。第一次大戦が始まると、息子達は従軍していったが、娘婿ムフランスキイと最愛の息子オレーグが戦死した。当時、コンスタンチン自身も長く病の床にあり、悲しみにくれながら1915年に亡くなった。コンスタンチンの葬儀は、革命前のロマノフ皇族最後の葬儀だった。
妻のエリザベータはその後のさらに過酷な運命を生きねばならなかった。病弱なガヴリールだけは釈放されたが、未成年のゲオルギーを除き、他の3人の息子は逮捕され、廃坑で処刑された。
まだ幼いゲオルギーとヴェラを連れて、スウェーデン王太子グスタフ・アドルフやベルギー王アルベール1世の庇護を受け、最後は自分の故郷アルテンブルクに落ち着いた。

亡命中のエリザベータ、タチアナ、ゲオルギー、ヴェラ、タチアナの子



ドミトリ・コンスタンチノヴィチ1860〜1919






コンスタンチン・ニコラエヴィチの三男。
兄コンスタンチン同様、責任感が強く、穏やかだった。音楽にも秀でていた。ピアノが上手だった。
海軍からのちに陸軍に移る。
軍人としても有能であった。配下の軍人達の信望厚く、慕われていた。
思想はリベラルだったが、節度ある人格で、政治に口出ししなかった。皇族の内で、誰からも最も親しまれる大公だった。
結婚せず、子供はいない。そのため、兄コンスタンチンの家のたくさんの子供達をかわいがった。
馬が趣味だった。
しかし視力をほとんど失っており、寡婦となっていたコンスタンチンの娘、タチアナが世話をしていた。

革命後は姪の世話を受けながら暮らしていたが、やがて逮捕され、1918年春からは国内流刑。
1919年1月、ペトログラードに戻され、共に監禁されていたニコライ・ミハイロヴィチ、ゲオルギ・ミハイロヴィチ、別で送られてきた病臥のパーヴェル・アレクサンドロヴィチとともに処刑された。


ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1862〜1879





後方に立っているヴャチェスラフ、左ドミトリ、中央コンスタンチン、母

コンスタンチン・ニコラエヴィチの四男。
16歳で脳出血で死去。





付記
タチアナ・コンスタンチノヴナ
1890〜1970

父のプロデュースする劇では家族や親族が演じる
タチアナは妖精のスタイル


コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の第三子長女。男子の多い兄弟の中で、16歳年下の妹ができるまでの長い間、一人娘だった。
父の才能を継いで、ピアノが上手だった。














タチアナが宮廷にデビューしたのは14歳のとき。
1904年秋の、アレクセイ皇太子の洗礼式のときであった。
写真のようなコートドレスに白い手袋。
年齢の近い皇族では、ドミトリー・パヴロヴィチやアンドレイ・ヴラディミロヴィチがいる。





21歳のタチアナが結婚相手に選んだのは、2歳上のコンスタンチン・バグラティオニ=ムフランスキイ公。
グルジア王家バグラティオニ家の末裔ではあるが、王族とは見なせず、貴賎結婚にあたる。当然、両親の反対にあったが、タチアナは諦められなかった。ところが、皇帝(ニコライ2世)は、結婚相手はグルジアの王族であると、あっさり承認。貴賎結婚ではない、とお墨付きをもらえた。正教徒であるという点では問題なかった。
これは、キリル大公の貴賎結婚問題と比較するなら、特例とも考えられるような皇帝の判断だった。問題が、皇位継承順位が比較的高い大公の場合と、皇位とはほぼ無関係の公女の場合とで、判断を変えている可能性もあるが、革命後のキリル大公の皇位請求の正統性に大きく影響する前例になり得る。
ともかく、タチアナの結婚は祝福され、皇帝も翌年1911年の結婚式に参列した。しかし、二人の幸せのピリオドは、あっという間に打たれてしまう。





1914年、第一次大戦。
この年、弟オレーグが戦死。
その翌年、ムフランスキイ公が戦死。
タチアナたちは、1912年に長男と1914年に長女が誕生しており、幸せな家庭が築かれ始めた矢先の不幸となった。そして同じ年、父が亡くなる。
タチアナは幼子二人を連れて、叔父ドミトリの住むストレーリナのコンスタンチン宮殿に身を寄せ、目の悪い叔父「第二の父」の世話もしていた。
革命後、ロマノフの大公たちは軟禁され、逮捕され、投獄されるようになったが、タチアナはドミトリ叔父が投獄されるまでずっと、幼子二人とともに連れ添った。母や弟妹は、スウェーデン王室の招きで国外避難していたが、タチアナは叔父のために同行しなかった。
ドミトリ叔父は収監される前に、タチアナ家族を国外脱出させるよう、それまで自分に側近く仕えてくれた直属士官アレクサンドル・コロチェンツォフに同行を頼んだ。
ルーマニアを経由してスイスに落ち着いたのは1921年。その地で、タチアナはコロチェンツォフと結婚。タチアナより13歳年上である。
ところが、結婚の数カ月後に、コロチェンツォフは急病で亡くなってしまった。

タチアナの子供達 ティムラスとナタリア

タチアナ(中央)と子供達

子供達が独立した後、1946年にタチアナはスイスで修道尼となった。
その後、イスラエルのエルサレムの修道院に移り、その地で亡くなり、埋葬された。
尼としての名はタマラ。最初の夫の故郷グルジアのバグラティオニ王家の12世紀の女王の名をいただいている。
タチアナは1979年まで生きた。
革命後の流転の生涯を、シングルマザーとして生きねばならなかった。
亡命先で、比較的優雅に過ごせた元皇族は多い一方、その元の位に頼って他者にぶら下がることもなく、タチアナはつらい運命を、孤高に、立派に生きた。




壁面にはアレクセイ・ニコラエヴィチ、マリア・フョードロヴナ?、ニコライ2世?
おそらくロマノフの肖像画が飾られているようだ


タチアナの生涯についてはこちらに詳しいです

The destiny of the princess of the blood royal/Igor Obolensky



タチアナの息子ティムラス1912〜1992は、ニューヨークでトルストイの娘が設立したトルストイ・ファウンデーションに従事した。それ以前は、ユーゴスラビアで従軍していた。
2度の結婚でいずれも子供はいない。
タチアナの結婚に際して、その子孫の皇位継承権放棄にタチアナが署名している。
上は、トルストイ・ファウンデーションHPでの紹介ページ。




タチアナの娘ナタリア1914〜1984はイギリス貴族と結婚した