チャーチルとルーズヴェルトの復讐主義
戦敗国ドイツを"カルタゴ"にしようとした
モーゲンソープランを承認
英米の空爆を受けて壊滅したベルリン
再びドイツの戦後復興について。
前記事では、終戦から40年までのドイツの歩みをドイツ人の省察で振り返るものであったが、今回はドイツが敗戦に至る過程での、連合国側首脳の迷走を追う。
序
1945年5月2日、ドイツの首都ベルリンがソ連軍によって完全に征服された。ヒトラーは4月30日に自殺していた。ベルリンの攻防だけでソ連兵は10万2000人が戦死している。
この日スターリンは、
「我々の祖国の自由と独立の戦いにおいて戦死した英雄に永遠の栄誉を!
そしてドイツの侵略者に対しては死を!」
と書き記した。
5月8日のドイツ降伏のとき、
イギリス首相チャーチルは、
「ドイツの降伏は人類の歴史においてもっとも大きな喜びをもたらした」
同じ日、アメリカ大統領トルーマンは、
「西側世界では邪悪な権力から解放された」
と、それぞれ語っている。
大陸の東と太平洋ではまだ日米が戦っており、ソ連参戦も機をみている状況ではあったが、ヨーロッパでは大戦から解放されたのだった。
そのため、チャーチルとトルーマンの感慨の深さには温度差が感じられる。
写真はおなじみのものではなく若い頃のもので選びました
ウィンストン・チャーチル
フランクリン・ルーズヴェルト
ハリー・トルーマン
ヨシフ・スターリン
この日に向けて、連合国側ではドイツ敗戦処理に関する会談を続けてきた。
1943年11月カイロ会談、同月テヘラン会談、1944年9月ケベック会談、1945年2月ヤルタ会談、さらに1945年7月ポツダム会談を経て、敗戦国ドイツの将来を、戦勝国の権限で設計していく。
この間、敵国側の無条件降伏に3国は拘った。戦勝者がフリーハンドを得るという名目上の目的があった。しかし無条件降伏を突きつけたばかりに、ドイツに必死の抗戦を煽ることとなり、結果、戦争は長引き、無駄な犠牲を増やしたとして非難されることもある。
無条件降伏はその後日本に対しても同様に突きつけられ、国体護持に強くこだわる日本を劫火に突き落とした。原爆という秘密兵器もある。ソ連参戦という切り札もある。日本に対しては妥協は必要なかったのだろう。1945年3月4月頃に日本は降伏の機会を窺い、密かに条件を模索し始めていた。しかし、3月の東京大空襲の犠牲も顧みられること能わず、ずるずると犠牲を増やし、二発も原爆を食らうまでの5ヶ月、決断はなされなかった。
戦争は玉砕するまでするものではない、ということを、どの国でも、この日独の破滅に学んだことだろう。
ケベック会談
左後 カナダ首相、前右 カナダ総督ケンブリッジ公 『王室の血友病』の過去記事あり
テヘラン会談
ヤルタ会談 ルーズヴェルトはもともと脚が悪く、車椅子だった上に、この頃は体調も悪かった
会談はニコライ2世のリバディア宮殿で行われた
ポツダム会談 飛行機嫌い、国外訪問嫌いのスターリンのために様々な配慮が必要だった
戦勝国は"フリーハンド"でどんな世界を描こうとしていたのか。そこにどんな思いが隠されていたのか。ヤルタやポツダムではひたすら、米英対ソの、占領地と賠償金の分捕り合戦になっていた。
実は、それまでの過程においてモラルを見失った危険な構想も浮上していた。世界のトップの様々な人達によって握られる筆で、一つの国の未来をつくることの危険と難しさ、不確かさは、敗戦国一国の未来だけでなく、世界の将来にも影を落とす。首脳が未来を間違えれば、世界は容易に壊れる。
さて、世界はこれからトランプ大統領を迎え入れることになる。アメリカの大統領として、世界のあちこちの衝突に直面してどのような采配が彼にできるのか。勿論、国内メディアや著名人らと小衝突している場合ではなくなるだろう。あの厚顔無礼には辟易だが、構想と手法がせめてまともであればと願う。
始めるのは簡単だが終わらせるのは難しいと言われる『戦争』。第二次世界大戦、その終わりをつける難行に、不確かで危険なフリーハンドを刻みつけた過去の2人の米大統領ルーズヴェルトとトルーマンに特に注意してみたい。
今回検証したいのは、モーゲンソープランと呼ばれる、危険な内容の指南書についてである。
その前に。
1. 狂気を狂気が裁く
生存者7000人
死体600体
37万着の男性の衣服
83万7千着の女性用コート服
無数の子供服
4万4千足の靴
1万4千枚のじゅうたん
14万人分の女性の頭髪
これらは、1945年1月25日にソ連軍によって最初に解放されたアウシュヴィッツの絶滅収容所で見つかったものだ。ここにナチスドイツの狂気が見える。残虐な民族浄化の、ごく一片の証拠にすぎないのだが。
ではこちらはどうか。
「殺せ、消してしまえ!
ドイツ人について穢れのないものなどまったくない。今生きているドイツ人についても、これから生まれてくるドイツ人についてもそうだ!
同志スターリンの指示に従え、そして洞窟の中に住むファシズムという動物を永久に足で踏み潰してしまえ。暴力でドイツ女性の人種的な高慢さを打ち砕け。彼女たちは格好の餌だ。勇猛で突進していく赤軍よ、殺せ!」
これはクレムリンのスター・コラムニスト、イリヤ・エレンブルクの扇動であると言われている。
すでにソ連はドイツ軍に攻め込まれて、まさにこの逆の通りの仕打ちを受けていた。そして、戦局は変わり、蹂躙の矢印は反対向きになり、ドイツ女性の受難の番が来た。
この行為は復讐であって、民族浄化ではないと言えるかもしれない。しかし、これから生まれてくるドイツ人まで殺す対象に含むのは、明らかに民族虐待への暴走と捉えられる。
あの女たちはドイツ人だったのだ。
まず強姦して、その後射殺することは許されていたのだ
ソルジェニーツィンの『収容所群島』に記されているこの文からは、復讐の一線を越えた恐ろしさがある。ドイツ人すなわち殺してよい、というのはユダヤ人を絶滅収容所送りにしたナチスの思考と同じだ。
『1945年のドイツ 瓦礫の中の希望』テオ・ゾンマー著(山本一之訳、原題"1945 Die Biographie eines Jahres")のなかで、こうした状況が客観的にまとめてられている。
アウシュヴィッツにおいて、国家社会主義とそれを喜んで実践する人々の精神は完全に荒廃していた。このことは強制収容所の惨状を見て驚愕し、怒り狂った世界の人々の前で明らかにされていった。これと同じように、東プロイセンが占領されたことによって生じた数々の惨劇は、残虐さや粗暴さ、あるいは人間の日動作が個人に対して暴威を振るっていたのはドイツだけではない、ということを明らかにしている。体制が非道であったこと、これについてはヒトラー体制であっても、またスターリン体制下においても変わりはない。
人道にもとるということは、国民性の問題ではない。イデオロギーによって視界を見失ったり、異常なまでの人種的な高慢さや宗教的狂信によって、残虐性が生まれるのである。文明という薄っぺらな虚飾が一度取り払われると、憎しみや復讐も残虐性を持つ動機となるのである。
戦争において残虐を極めたのはドイツだけではなく、ソ連もアメリカも同じだ。「腹の上のソ連兵より頭上の米兵の方が憎い」とベルリンの女性に言わしめるほど、空爆は冷酷な虐殺だ。
尚、上記の本は原題にドイツを限定していないとおり、日本の1945年の様相についてもかなりの紙幅で取り上げられている。
硫黄島の栗林中将は映画でも有名だが、妻へは、
「私は米国との戦争で自分の命を落とすことが残念でならない。しかし可能な限りの努力を尽くしてこの島を守る覚悟である」
と書き残している。
可能な限りの努力として、万歳突撃はさせず、考えうる限り最大の防御陣地を利用し、敵に大損害を与えた。
硫黄島攻略にあたって米軍では、軍艦から毒ガスの砲弾を撃ち込む予定であったのだが、ルーズヴェルト大統領は前線に出ることを望んだ。こんなに残酷な攻防になることは想像していなかったのだろう。この時の大損害は、米国に本土上陸をためらわせることになり、原子爆弾の完成が強くのぞまれるようになったのである。
しかし、ルーズヴェルトは戦争末期には持病で死に体だった。原子爆弾完成を確認できたのは、次のトルーマン大統領の時、ポツダム会談の最中のことだった。
あと半年早く完成していれば、原子爆弾はドイツのどこかに投下されたに違いない。
長崎にはファットマン(上)、広島にはリトルボーイが投下された
広島へ原爆を投下した後テニアン島に帰還したB29 愛称エノラゲイ
帰還後のエノラゲイの搭乗員
前出の本にはリトルボーイ投下までの過程が詳しく記されている
「ドイツをカルタゴにする」
ドイツにカルタゴの平和をもたらすのが世界の平和のためになる、という考え方があり、一方でそれは過酷だという反論もあった。
「カルタゴの平和」という言葉にはもちろん、ネガティブな意味が含まれている。国土大地をまさに根絶やしにして、未来にわたって再興することのないよう封じるかたちでの「平和」の提供だった。つまり未来を失わせる絶対的絶望的な平和だ。それに匹敵するのが、ルーズヴェルト大統領の腹心で財務長官のモーゲンソーの提唱したモーゲンソープランと呼ばれる物だ。
モーゲンソーはユダヤ人であり、ナチスに対してとりわけ憎しみは強かったのだろう。ただし、それは理解できても、財務長官の立場から提示する物として、理性を欠いた懲罰的に過ぎる内容だった。にもかかわらずルーズヴェルト大統領は同意、さらにはチャーチルも最終的に同意した。とち狂った連合国ツートップに、さすがにワシントンもロンドンも猛反発した。
メディアはもちろん、ハル国務長官やスティムソン陸軍長官、イーデン外相、クレイ将軍らはそれぞれ厳しく抗議した。
このときまだ、英米国内には統制されていないまっとうなメディアが存在し、かつトップに対して意見具申できる者が居り、渋々でも聞き入れる耳を持つトップでもあったことは貴重であった。
結果、この柔軟性が世界の硬直をかろうじて救った。
2. モーゲンソープラン
非常に稀有なケースとして財務長官であるモーゲンソーが英米ケベック会談へ出席。
本来、もし内閣から同伴するとするならば国務長官あたりになるところ、異例だった。
1944年9月。
提示された内容は、
ドイツの非武装化
ドイツ国防軍から武器を取り上げる
軍事力の基礎産業の破壊
ドイツ分割による弱体化
ドイツとオーストリアは分離させる
南北に分割、一部仏ソに割譲
産業解体
工業の中心ルール地方は国際管理地域とする上、全工場は6ヶ月以内に完全解体移送または破壊
技能者は転出分散させる
原状回復と賠償
ドイツ国内の産業資源と領土は賠償に充当させ、戦勝国または国際機関が管理する
国外での強制労働
国外資産は全て没収
非ナチ化軍事裁判
ナチス党員、支持者、軍国主義者、戦犯の逮捕及び銃殺
更にこれがモーゲンソーの言である。
「ドイツ人がどのようになろうと、私には知ったことではない。私は鉱山と工場のすべてを破壊するだろう。まずそれらが破壊されることに私は賛成である。住民についてはそれが終わってから考えても十分である」
ベルリン
英米ソ首脳は、戦後のドイツ人に自転車を作ることを許せば戦闘機を作る、金属製の家具を作るのを許せば戦車を作る、と危機感を募らせていたそうだが、まさかこれを真顔で話していたのだろうか。
このプランの内容はナチス宣伝相ゲッベルスにも掴まれ、ドイツ兵の士気を高めるのに大いに利用された。
「連合国はドイツを巨大なじゃがいも畑にするつもりらしい」
こんなプランを公にして、ゲッベルスの思うツボだ、と連合国将軍らは地団駄を踏んだ。
モーゲンソーは戦後ドイツの生活水準を1932年の大恐慌並みに落とすのを目標にしたようだが、何の根拠もないこの懲罰的な設定は猛反発を食らう。
ドイツの経済力を意図的に低く抑え込むことは、ヨーロッパ復興の妨げにしかならず、占領軍経費の増大のリスク、ドイツの共産主義化のおそれも生む。
たとえば、工業に従事させず本当に全ての国土を農業利用にさせれば、ドイツ人の6割しか養うことができない。占領国がそれを補う羽目になる。ましてや、ドイツが復興しなければヨーロッパ全体も共倒れになるのは必至だった。
ハル国務長官は、
「常軌を逸している。もしドイツ人が農業以外に何もしないとすれば、60%しか食っていけない。残りの40%は死ぬしかない」
スティムソン陸軍長官は、
「ドイツを治療することは癌の手術に似ている。悪性の組織は切り取る。しかし重要な器官は残さなければならない」
「まるでローマのカルタゴに対するような、こうした態度に恐怖しない人に会ったことがない。復讐心が暴走しており、次の世代にまた戦争が起こる種をまくだろう」
イーデン英国外相は、
「諸国民に対して自決権を保障した大西洋憲章に反する」
犯罪人を断罪する、ドイツ人から武器を奪い参謀本部を解体する、ナチスによって教育を受けた世代が交代するまで政府の行動を監督する、などの点ではスティムソン陸軍長官も賛成していたのだが、しかし、国を平和に再建し、最終的には国際社会に復帰させるという手段をドイツ人から奪うことは許されない、という考えだった。
かつて第一次世界大戦終結時のベルサイユ条約では、ドイツに対してあまりにも理不尽な、多額の賠償を負わせた。講和会議を仕切ったクレマンソー首相は「ドイツ人2000万人、多すぎる」と豪語するなど、対独強硬姿勢をあからさまに示したが、この極端な負債がドイツにファシズムを生んだということは既に誰の頭にもあった。そのうえでの、このモーゲンソープランである。
モーゲンソープラン以上に背筋が凍る提案もあった。ユダヤ人であるカウフマン博士は、戦争終結後には、18歳から60歳のドイツ人男性と、45歳以下のドイツ人女性を性的に不能にする処置をとることを求めるとしたパンフレットを配布した。
これはもう人権侵害どころか、全くナチスの民族絶滅の発想と同じだ。ところがルーズヴェルトはこれも採用しようと本気で考えていたようだ。
「我々はドイツ人に対して厳しく接しなければならない。これはドイツ民族に対してそうあるべきであり、ナチスだけではない。我々はドイツ人を去勢するか、簡単に子供を産まないような措置をとる必要がある」
これもルーズヴェルトの言である。
その後、大統領選出馬を考慮して、反対の多かったモーゲンソープランは表面的には引っ込められた。それでもルーズヴェルトの思いは根本的には変えられていないことか端々に窺える、こんな言葉もあった。1944年10月。
「ドイツは悲劇的な国民である。ドイツには軍事力のかけらも残しておくことが許されていない。潜在的に軍事力となる可能性のあるものでさえ許されない。しかしドイツ民族は奴隷化されるべきではない。結局、ドイツ民族は平和を愛し、法令を順守する国民として国際社会に復帰する路に戻るまでには多大な困難を経験するに違いない。軍事の削減とともに頭脳の削減も同時に進行しなければならない。完全にメンタルな改造が必要である。そしてそれが達成されるには40年を必要とするかもしれない」
ルーズヴェルトが死去すると、トルーマン大統領は財務省提案(モーゲンソープラン)を撤回した。
ポツダム会談前に、モーゲンソーは辞表を提出。
しかしこのトルーマンの考えにも、実施される計画の若干の改善の裏でドイツの頭を押さえておこうとする意図が少なからず表れている。
「ドイツは解放を目的として占領されない。戦争に敗れた敵国として占領される。その目的はドイツを抑圧することではなく、一定の重要な連合国の意図を実現するためのドイツ占領である。占領と行政を実施する場合には、連合国は公平かつ厳格、かつ孤高でなければならない。ドイツの行政官や住民と親交を結ぶことは厳しく禁止される」
親交を禁止、というのはなかなか差別的だ。戦勝国だからなのか、ありありと"上から目線"でもある。
結局、ドイツ占領基本指令として、
生活水準を大幅に低下させる
ガソリンや合成ゴムの製造の禁止
商船隊の組織や民間航空機の禁止
経済の制限(工業はおよそ25%まで)
などの厳しいものになり、モーゲンソープランの不寛容さがそのままに残っているものとなった。
連合国管理理事会米国常駐代表クレイ将軍は、その内容の馬鹿馬鹿しさをこう語った。
「これは経済に無知な人間の仕事である。ヨーロッパでもっとも訓練された労働者に対して、大陸のためにできるだけのものを生産することを禁止することはまったく意味がない。大陸は実際それを必要としている」
ベルリン
3. ドイツその後の戦後
ソ連との溝が次第に深くなっていったこともあって、西側としてはドイツを取り込み、ソ連を悪玉としてまつり上げようと、ドイツに対する経済政策に改善を施した。それが国務長官バーンズによる、1946年の「希望の演説」(ドイツ政策の見直し)だった。これはむしろ政治的な理由が強く、ポーランドにとっては憤激の内容だった。
ドイツでは、ハイパーインフレを乗り越え、のちに欧州最強の通貨となるマルクが生まれた。復興は近隣の戦勝国よりも早かった。工場が解体されたことで古い設備を一層でき、最新の設備をスムーズに導入できたことはむしろラッキーだった。
泥棒のようにドイツの工場機械を解体して持ち帰ったソ連やフランスでは、結局それを活かすことができず、どれもが錆びて野晒しのままになっていた。
「希望の演説」のジェームズ・バーンズ国務長官について少し。
バーンズは日本にとっては全くありがたくない人物だった。トルーマン大統領下の国務長官で対日強硬派、その以前、ルーズヴェルト大統領下ではマンハッタン計画を推進した。当然、原爆使用推進であり、日本に投下することで早期に終戦を、というのではなく、ソ連への示威行動として積極的に投下をトルーマンに強くすすめた。
また、知日派のジョセフ・グルー外交官、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、ジェームズ・フォレスタル海軍長官による三人委員会によって、天皇制を残して間接民主制を選択させることで原爆を使用せずに日本との早期の講話を目指す動きがあったのだが、バーンズ国務長官によって捻り潰されている。
その後バーンズは、原爆を東側外交の切り札として軽率に使用しようとする傾向があったことから、危険視したトルーマン大統領によって1947年に罷免された。
沖縄戦での神風攻撃
零戦
4. 戦後の難しさ
終わらせることの難しさ、さらに難しいのは終わった後の戦後処理であることがわかった。
戦勝国のフリーハンドなるもののいかに高慢であやしいことか。
東京裁判、ニュルンベルク裁判も、その裁判のあり方自体に公正さが欠けているし、内容も不確かでただひたすら性急な裁判だった。それでも茶番だとは言えない。
歴史は少し後になってから眺めないとわかりにくい面もある。一方で現在進行中の歴史が自分の周りで常に動いている。時計が秒を刻むあの音。わたしの耳に届けられ続けるこの音を、ルーズヴェルトもチャーチルも、戦場の戦闘員も、エノラゲイのパイロットも聴いていた。その延長の時計の音である。
B29
投下するこの爆弾の数に驚く
落下していくこの下には多くの人が居やしないか
地上に落ちるまでの数秒が
その人の命のカウントダウンになってしまう運命の人が、いったい何人?
今から命を殺しにいく爆弾の影
人智を超えた神の手によるものとしか
むしろ考えられないくらいだ
戦敗国ドイツを"カルタゴ"にしようとした
モーゲンソープランを承認
英米の空爆を受けて壊滅したベルリン
再びドイツの戦後復興について。
前記事では、終戦から40年までのドイツの歩みをドイツ人の省察で振り返るものであったが、今回はドイツが敗戦に至る過程での、連合国側首脳の迷走を追う。
序
1945年5月2日、ドイツの首都ベルリンがソ連軍によって完全に征服された。ヒトラーは4月30日に自殺していた。ベルリンの攻防だけでソ連兵は10万2000人が戦死している。
この日スターリンは、
「我々の祖国の自由と独立の戦いにおいて戦死した英雄に永遠の栄誉を!
そしてドイツの侵略者に対しては死を!」
と書き記した。
5月8日のドイツ降伏のとき、
イギリス首相チャーチルは、
「ドイツの降伏は人類の歴史においてもっとも大きな喜びをもたらした」
同じ日、アメリカ大統領トルーマンは、
「西側世界では邪悪な権力から解放された」
と、それぞれ語っている。
大陸の東と太平洋ではまだ日米が戦っており、ソ連参戦も機をみている状況ではあったが、ヨーロッパでは大戦から解放されたのだった。
そのため、チャーチルとトルーマンの感慨の深さには温度差が感じられる。
写真はおなじみのものではなく若い頃のもので選びました
ウィンストン・チャーチル
フランクリン・ルーズヴェルト
ハリー・トルーマン
ヨシフ・スターリン
この日に向けて、連合国側ではドイツ敗戦処理に関する会談を続けてきた。
1943年11月カイロ会談、同月テヘラン会談、1944年9月ケベック会談、1945年2月ヤルタ会談、さらに1945年7月ポツダム会談を経て、敗戦国ドイツの将来を、戦勝国の権限で設計していく。
この間、敵国側の無条件降伏に3国は拘った。戦勝者がフリーハンドを得るという名目上の目的があった。しかし無条件降伏を突きつけたばかりに、ドイツに必死の抗戦を煽ることとなり、結果、戦争は長引き、無駄な犠牲を増やしたとして非難されることもある。
無条件降伏はその後日本に対しても同様に突きつけられ、国体護持に強くこだわる日本を劫火に突き落とした。原爆という秘密兵器もある。ソ連参戦という切り札もある。日本に対しては妥協は必要なかったのだろう。1945年3月4月頃に日本は降伏の機会を窺い、密かに条件を模索し始めていた。しかし、3月の東京大空襲の犠牲も顧みられること能わず、ずるずると犠牲を増やし、二発も原爆を食らうまでの5ヶ月、決断はなされなかった。
戦争は玉砕するまでするものではない、ということを、どの国でも、この日独の破滅に学んだことだろう。
ケベック会談
左後 カナダ首相、前右 カナダ総督ケンブリッジ公 『王室の血友病』の過去記事あり
テヘラン会談
ヤルタ会談 ルーズヴェルトはもともと脚が悪く、車椅子だった上に、この頃は体調も悪かった
会談はニコライ2世のリバディア宮殿で行われた
ポツダム会談 飛行機嫌い、国外訪問嫌いのスターリンのために様々な配慮が必要だった
戦勝国は"フリーハンド"でどんな世界を描こうとしていたのか。そこにどんな思いが隠されていたのか。ヤルタやポツダムではひたすら、米英対ソの、占領地と賠償金の分捕り合戦になっていた。
実は、それまでの過程においてモラルを見失った危険な構想も浮上していた。世界のトップの様々な人達によって握られる筆で、一つの国の未来をつくることの危険と難しさ、不確かさは、敗戦国一国の未来だけでなく、世界の将来にも影を落とす。首脳が未来を間違えれば、世界は容易に壊れる。
さて、世界はこれからトランプ大統領を迎え入れることになる。アメリカの大統領として、世界のあちこちの衝突に直面してどのような采配が彼にできるのか。勿論、国内メディアや著名人らと小衝突している場合ではなくなるだろう。あの厚顔無礼には辟易だが、構想と手法がせめてまともであればと願う。
始めるのは簡単だが終わらせるのは難しいと言われる『戦争』。第二次世界大戦、その終わりをつける難行に、不確かで危険なフリーハンドを刻みつけた過去の2人の米大統領ルーズヴェルトとトルーマンに特に注意してみたい。
今回検証したいのは、モーゲンソープランと呼ばれる、危険な内容の指南書についてである。
その前に。
1. 狂気を狂気が裁く
生存者7000人
死体600体
37万着の男性の衣服
83万7千着の女性用コート服
無数の子供服
4万4千足の靴
1万4千枚のじゅうたん
14万人分の女性の頭髪
これらは、1945年1月25日にソ連軍によって最初に解放されたアウシュヴィッツの絶滅収容所で見つかったものだ。ここにナチスドイツの狂気が見える。残虐な民族浄化の、ごく一片の証拠にすぎないのだが。
ではこちらはどうか。
「殺せ、消してしまえ!
ドイツ人について穢れのないものなどまったくない。今生きているドイツ人についても、これから生まれてくるドイツ人についてもそうだ!
同志スターリンの指示に従え、そして洞窟の中に住むファシズムという動物を永久に足で踏み潰してしまえ。暴力でドイツ女性の人種的な高慢さを打ち砕け。彼女たちは格好の餌だ。勇猛で突進していく赤軍よ、殺せ!」
これはクレムリンのスター・コラムニスト、イリヤ・エレンブルクの扇動であると言われている。
すでにソ連はドイツ軍に攻め込まれて、まさにこの逆の通りの仕打ちを受けていた。そして、戦局は変わり、蹂躙の矢印は反対向きになり、ドイツ女性の受難の番が来た。
この行為は復讐であって、民族浄化ではないと言えるかもしれない。しかし、これから生まれてくるドイツ人まで殺す対象に含むのは、明らかに民族虐待への暴走と捉えられる。
あの女たちはドイツ人だったのだ。
まず強姦して、その後射殺することは許されていたのだ
ソルジェニーツィンの『収容所群島』に記されているこの文からは、復讐の一線を越えた恐ろしさがある。ドイツ人すなわち殺してよい、というのはユダヤ人を絶滅収容所送りにしたナチスの思考と同じだ。
『1945年のドイツ 瓦礫の中の希望』テオ・ゾンマー著(山本一之訳、原題"1945 Die Biographie eines Jahres")のなかで、こうした状況が客観的にまとめてられている。
アウシュヴィッツにおいて、国家社会主義とそれを喜んで実践する人々の精神は完全に荒廃していた。このことは強制収容所の惨状を見て驚愕し、怒り狂った世界の人々の前で明らかにされていった。これと同じように、東プロイセンが占領されたことによって生じた数々の惨劇は、残虐さや粗暴さ、あるいは人間の日動作が個人に対して暴威を振るっていたのはドイツだけではない、ということを明らかにしている。体制が非道であったこと、これについてはヒトラー体制であっても、またスターリン体制下においても変わりはない。
人道にもとるということは、国民性の問題ではない。イデオロギーによって視界を見失ったり、異常なまでの人種的な高慢さや宗教的狂信によって、残虐性が生まれるのである。文明という薄っぺらな虚飾が一度取り払われると、憎しみや復讐も残虐性を持つ動機となるのである。
戦争において残虐を極めたのはドイツだけではなく、ソ連もアメリカも同じだ。「腹の上のソ連兵より頭上の米兵の方が憎い」とベルリンの女性に言わしめるほど、空爆は冷酷な虐殺だ。
尚、上記の本は原題にドイツを限定していないとおり、日本の1945年の様相についてもかなりの紙幅で取り上げられている。
硫黄島の栗林中将は映画でも有名だが、妻へは、
「私は米国との戦争で自分の命を落とすことが残念でならない。しかし可能な限りの努力を尽くしてこの島を守る覚悟である」
と書き残している。
可能な限りの努力として、万歳突撃はさせず、考えうる限り最大の防御陣地を利用し、敵に大損害を与えた。
硫黄島攻略にあたって米軍では、軍艦から毒ガスの砲弾を撃ち込む予定であったのだが、ルーズヴェルト大統領は前線に出ることを望んだ。こんなに残酷な攻防になることは想像していなかったのだろう。この時の大損害は、米国に本土上陸をためらわせることになり、原子爆弾の完成が強くのぞまれるようになったのである。
しかし、ルーズヴェルトは戦争末期には持病で死に体だった。原子爆弾完成を確認できたのは、次のトルーマン大統領の時、ポツダム会談の最中のことだった。
あと半年早く完成していれば、原子爆弾はドイツのどこかに投下されたに違いない。
長崎にはファットマン(上)、広島にはリトルボーイが投下された
広島へ原爆を投下した後テニアン島に帰還したB29 愛称エノラゲイ
帰還後のエノラゲイの搭乗員
前出の本にはリトルボーイ投下までの過程が詳しく記されている
「ドイツをカルタゴにする」
ドイツにカルタゴの平和をもたらすのが世界の平和のためになる、という考え方があり、一方でそれは過酷だという反論もあった。
「カルタゴの平和」という言葉にはもちろん、ネガティブな意味が含まれている。国土大地をまさに根絶やしにして、未来にわたって再興することのないよう封じるかたちでの「平和」の提供だった。つまり未来を失わせる絶対的絶望的な平和だ。それに匹敵するのが、ルーズヴェルト大統領の腹心で財務長官のモーゲンソーの提唱したモーゲンソープランと呼ばれる物だ。
モーゲンソーはユダヤ人であり、ナチスに対してとりわけ憎しみは強かったのだろう。ただし、それは理解できても、財務長官の立場から提示する物として、理性を欠いた懲罰的に過ぎる内容だった。にもかかわらずルーズヴェルト大統領は同意、さらにはチャーチルも最終的に同意した。とち狂った連合国ツートップに、さすがにワシントンもロンドンも猛反発した。
メディアはもちろん、ハル国務長官やスティムソン陸軍長官、イーデン外相、クレイ将軍らはそれぞれ厳しく抗議した。
このときまだ、英米国内には統制されていないまっとうなメディアが存在し、かつトップに対して意見具申できる者が居り、渋々でも聞き入れる耳を持つトップでもあったことは貴重であった。
結果、この柔軟性が世界の硬直をかろうじて救った。
2. モーゲンソープラン
非常に稀有なケースとして財務長官であるモーゲンソーが英米ケベック会談へ出席。
本来、もし内閣から同伴するとするならば国務長官あたりになるところ、異例だった。
1944年9月。
提示された内容は、
ドイツの非武装化
ドイツ国防軍から武器を取り上げる
軍事力の基礎産業の破壊
ドイツ分割による弱体化
ドイツとオーストリアは分離させる
南北に分割、一部仏ソに割譲
産業解体
工業の中心ルール地方は国際管理地域とする上、全工場は6ヶ月以内に完全解体移送または破壊
技能者は転出分散させる
原状回復と賠償
ドイツ国内の産業資源と領土は賠償に充当させ、戦勝国または国際機関が管理する
国外での強制労働
国外資産は全て没収
非ナチ化軍事裁判
ナチス党員、支持者、軍国主義者、戦犯の逮捕及び銃殺
更にこれがモーゲンソーの言である。
「ドイツ人がどのようになろうと、私には知ったことではない。私は鉱山と工場のすべてを破壊するだろう。まずそれらが破壊されることに私は賛成である。住民についてはそれが終わってから考えても十分である」
ベルリン
英米ソ首脳は、戦後のドイツ人に自転車を作ることを許せば戦闘機を作る、金属製の家具を作るのを許せば戦車を作る、と危機感を募らせていたそうだが、まさかこれを真顔で話していたのだろうか。
このプランの内容はナチス宣伝相ゲッベルスにも掴まれ、ドイツ兵の士気を高めるのに大いに利用された。
「連合国はドイツを巨大なじゃがいも畑にするつもりらしい」
こんなプランを公にして、ゲッベルスの思うツボだ、と連合国将軍らは地団駄を踏んだ。
モーゲンソーは戦後ドイツの生活水準を1932年の大恐慌並みに落とすのを目標にしたようだが、何の根拠もないこの懲罰的な設定は猛反発を食らう。
ドイツの経済力を意図的に低く抑え込むことは、ヨーロッパ復興の妨げにしかならず、占領軍経費の増大のリスク、ドイツの共産主義化のおそれも生む。
たとえば、工業に従事させず本当に全ての国土を農業利用にさせれば、ドイツ人の6割しか養うことができない。占領国がそれを補う羽目になる。ましてや、ドイツが復興しなければヨーロッパ全体も共倒れになるのは必至だった。
ハル国務長官は、
「常軌を逸している。もしドイツ人が農業以外に何もしないとすれば、60%しか食っていけない。残りの40%は死ぬしかない」
スティムソン陸軍長官は、
「ドイツを治療することは癌の手術に似ている。悪性の組織は切り取る。しかし重要な器官は残さなければならない」
「まるでローマのカルタゴに対するような、こうした態度に恐怖しない人に会ったことがない。復讐心が暴走しており、次の世代にまた戦争が起こる種をまくだろう」
イーデン英国外相は、
「諸国民に対して自決権を保障した大西洋憲章に反する」
犯罪人を断罪する、ドイツ人から武器を奪い参謀本部を解体する、ナチスによって教育を受けた世代が交代するまで政府の行動を監督する、などの点ではスティムソン陸軍長官も賛成していたのだが、しかし、国を平和に再建し、最終的には国際社会に復帰させるという手段をドイツ人から奪うことは許されない、という考えだった。
かつて第一次世界大戦終結時のベルサイユ条約では、ドイツに対してあまりにも理不尽な、多額の賠償を負わせた。講和会議を仕切ったクレマンソー首相は「ドイツ人2000万人、多すぎる」と豪語するなど、対独強硬姿勢をあからさまに示したが、この極端な負債がドイツにファシズムを生んだということは既に誰の頭にもあった。そのうえでの、このモーゲンソープランである。
モーゲンソープラン以上に背筋が凍る提案もあった。ユダヤ人であるカウフマン博士は、戦争終結後には、18歳から60歳のドイツ人男性と、45歳以下のドイツ人女性を性的に不能にする処置をとることを求めるとしたパンフレットを配布した。
これはもう人権侵害どころか、全くナチスの民族絶滅の発想と同じだ。ところがルーズヴェルトはこれも採用しようと本気で考えていたようだ。
「我々はドイツ人に対して厳しく接しなければならない。これはドイツ民族に対してそうあるべきであり、ナチスだけではない。我々はドイツ人を去勢するか、簡単に子供を産まないような措置をとる必要がある」
これもルーズヴェルトの言である。
その後、大統領選出馬を考慮して、反対の多かったモーゲンソープランは表面的には引っ込められた。それでもルーズヴェルトの思いは根本的には変えられていないことか端々に窺える、こんな言葉もあった。1944年10月。
「ドイツは悲劇的な国民である。ドイツには軍事力のかけらも残しておくことが許されていない。潜在的に軍事力となる可能性のあるものでさえ許されない。しかしドイツ民族は奴隷化されるべきではない。結局、ドイツ民族は平和を愛し、法令を順守する国民として国際社会に復帰する路に戻るまでには多大な困難を経験するに違いない。軍事の削減とともに頭脳の削減も同時に進行しなければならない。完全にメンタルな改造が必要である。そしてそれが達成されるには40年を必要とするかもしれない」
ルーズヴェルトが死去すると、トルーマン大統領は財務省提案(モーゲンソープラン)を撤回した。
ポツダム会談前に、モーゲンソーは辞表を提出。
しかしこのトルーマンの考えにも、実施される計画の若干の改善の裏でドイツの頭を押さえておこうとする意図が少なからず表れている。
「ドイツは解放を目的として占領されない。戦争に敗れた敵国として占領される。その目的はドイツを抑圧することではなく、一定の重要な連合国の意図を実現するためのドイツ占領である。占領と行政を実施する場合には、連合国は公平かつ厳格、かつ孤高でなければならない。ドイツの行政官や住民と親交を結ぶことは厳しく禁止される」
親交を禁止、というのはなかなか差別的だ。戦勝国だからなのか、ありありと"上から目線"でもある。
結局、ドイツ占領基本指令として、
生活水準を大幅に低下させる
ガソリンや合成ゴムの製造の禁止
商船隊の組織や民間航空機の禁止
経済の制限(工業はおよそ25%まで)
などの厳しいものになり、モーゲンソープランの不寛容さがそのままに残っているものとなった。
連合国管理理事会米国常駐代表クレイ将軍は、その内容の馬鹿馬鹿しさをこう語った。
「これは経済に無知な人間の仕事である。ヨーロッパでもっとも訓練された労働者に対して、大陸のためにできるだけのものを生産することを禁止することはまったく意味がない。大陸は実際それを必要としている」
ベルリン
3. ドイツその後の戦後
ソ連との溝が次第に深くなっていったこともあって、西側としてはドイツを取り込み、ソ連を悪玉としてまつり上げようと、ドイツに対する経済政策に改善を施した。それが国務長官バーンズによる、1946年の「希望の演説」(ドイツ政策の見直し)だった。これはむしろ政治的な理由が強く、ポーランドにとっては憤激の内容だった。
ドイツでは、ハイパーインフレを乗り越え、のちに欧州最強の通貨となるマルクが生まれた。復興は近隣の戦勝国よりも早かった。工場が解体されたことで古い設備を一層でき、最新の設備をスムーズに導入できたことはむしろラッキーだった。
泥棒のようにドイツの工場機械を解体して持ち帰ったソ連やフランスでは、結局それを活かすことができず、どれもが錆びて野晒しのままになっていた。
「希望の演説」のジェームズ・バーンズ国務長官について少し。
バーンズは日本にとっては全くありがたくない人物だった。トルーマン大統領下の国務長官で対日強硬派、その以前、ルーズヴェルト大統領下ではマンハッタン計画を推進した。当然、原爆使用推進であり、日本に投下することで早期に終戦を、というのではなく、ソ連への示威行動として積極的に投下をトルーマンに強くすすめた。
また、知日派のジョセフ・グルー外交官、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、ジェームズ・フォレスタル海軍長官による三人委員会によって、天皇制を残して間接民主制を選択させることで原爆を使用せずに日本との早期の講話を目指す動きがあったのだが、バーンズ国務長官によって捻り潰されている。
その後バーンズは、原爆を東側外交の切り札として軽率に使用しようとする傾向があったことから、危険視したトルーマン大統領によって1947年に罷免された。
沖縄戦での神風攻撃
零戦
4. 戦後の難しさ
終わらせることの難しさ、さらに難しいのは終わった後の戦後処理であることがわかった。
戦勝国のフリーハンドなるもののいかに高慢であやしいことか。
東京裁判、ニュルンベルク裁判も、その裁判のあり方自体に公正さが欠けているし、内容も不確かでただひたすら性急な裁判だった。それでも茶番だとは言えない。
歴史は少し後になってから眺めないとわかりにくい面もある。一方で現在進行中の歴史が自分の周りで常に動いている。時計が秒を刻むあの音。わたしの耳に届けられ続けるこの音を、ルーズヴェルトもチャーチルも、戦場の戦闘員も、エノラゲイのパイロットも聴いていた。その延長の時計の音である。
B29
投下するこの爆弾の数に驚く
落下していくこの下には多くの人が居やしないか
地上に落ちるまでの数秒が
その人の命のカウントダウンになってしまう運命の人が、いったい何人?
今から命を殺しにいく爆弾の影
人智を超えた神の手によるものとしか
むしろ考えられないくらいだ